天皇のオリンピック発言

  天皇のオリンピック・パラリンピックによる感染拡大の危惧に関する発言が、大きな議論を呼んでいる。非常に興味深いことは、この発言が西村長官によって紹介された早い時期には、ヤフコメは、天皇の発言が、憲法で禁止されている政治的行為であるという前提で議論するコメントが多かったのだが、次第に、当然のことを語ったのであって、政治的発言とはいえないというコメントが多くなっていることだ。例えば、九州大学法学部の南野森氏は、昨日「宮内庁長官の発言に対しては、憲法学の立場からはノーと言わねばなりません。良い悪い・好き嫌いは別にして、現憲法では天皇に国政に関する権能はなく、国政に関する思いを明らかにすることは認められていません。宮内庁長官という、天皇に最も近い場所にいる公務員が、「拝察」という、あくまでも自身の考えにすぎないという体裁をとったとしても、その実質は同じです。これを長官の個人的な想像と理解する人は普通はいないでしょう。」と書いている。https://news.yahoo.co.jp/articles/6e6f550e9c783c729b9ee7f3388d33230c905e2d/comments
 他にも、天皇の政治的発言をかわすために、加藤官房長官は、西村長官の個人的意見と述べたことは正しいとするコメントも多数ある。しかし、日が改まって、今日(25日)になると、憲法で禁止された発言かどうかを問題としないコメントがほとんどになっている。つまり、天皇の発言は当然だという支持である。
 この天皇発言は、非常に難しい問題をいくつか含んでいるように思われるのである。

 天皇が政治的発言を公表することは禁止されており、公的な場での発言は、内閣に助言に基づくことになっている。つまり、内閣の作文を読むのが、通常の在り方だ。もちろん、記者会見の答えなとは、自分で作成するだろうが、それでも、内閣との調整はなされていると考えるのが普通だろう。では、今回の天皇の発言とは何か。
 
「国民の間に不安の声がある中で、ご自身が名誉総裁をお務めになるオリンピック・パラリンピックの開催が感染拡大につながらないか、ご懸念されているご心配であると拝察しています」
 
 ここが最も話題になっている部分であるが、「拝察」しているのは、当然西村宮内庁長官である。さて、これをもって天皇の政治的発言ととるべきか。当初政治的発言と理解したコメントが多かったが、次第に、そうではないと変わってきた。それは、「政治的発言」に対する理解の相違だろう。それは、イギリスの新聞Guardianの記事でよくわかる。
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Guardian 6.25 天皇は新憲法において、政治的に問題となっていることについての公的な発言を禁じられているが、コロナの感染で不安をもっている人を励ましている。共同通信の世論調査によれば、86%が、オリンピックの時期にコロナのリバウンドがおきると心配している。また、天皇はオリンピック・パラリンピックの名誉総裁である。加藤官房長官は、天皇の発言ではなく、西村宮内庁長官の個人的な見解であるとした。緊急事態宣言が終わったあと、感染状況はや人流も上昇している。
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 つまり、政治的発言とは「政治的に問題になっていること」への発言である。オリンピックの開催が感染拡大につながらないか、というのは、政治的に問題になっているとは、私は考えない。いくら開催強硬派である菅首相だって、オリンピックを中止するよりは、開催し、かつ無観客よりは、観客をいれるほうが、感染が拡大する可能性が高いことは認識しているはずである。つまり、「感染がオリンピックによって拡大」することは、政治的にまったく問題になっておらず、問題になっているのは、「だから中止すべき」か「それでも開催」する、あるいは、無観客か有観客かである。それについては、天皇の発言は何も語っていないのだから、ある意味国民のほとんどが心配していることを、みずから表明したにすぎない。このようなことを慎むべきであると言うのであれば、天皇を奥の院に引きこもって、宗教的祭祀のみをしていればいい、意見などは一切いうべきでないという超国家主義天皇制の支持者くらいだろう。
 したがって、問題はここにはない。天皇は十分に発言については慎重にしているからだ。
 問題は、むしろ、内閣からの天皇の利用という側面のほうだろう。
 なぜ天皇がオリンピックとパラリンピックの名誉総裁になっているのかは、まだ調べたがよくわからないのでふれないが、オリンピック憲章には、開会宣言を国家の元首が行うという規定がある。過去、日本で開催されたオリンピックでは、天皇が開催宣言をしてきた。しかし、過去3回のオリンピックでは、開催そのものが国論を二分するような政治的問題となることはなかった。だが、今回は違う。しかも、大勢が集まるなかにでかけて、宣言をすることになれば、感染の危険すら存在する。そして、何よりも、これだけ開催に反対する国民の意識が強いなかで、いかに名誉総裁であったとしても、開会式にでかけ、「ぼったくり男爵」と言われてしまったバッハ会長と並んで、オリンピック開会宣言を行えば、国民の反感をかわない保障はない。天皇は国民の総意に基づくという憲法からみれば、オリンピックに加担することは、憲法の精神に反することになる。
 問題は、そのように天皇を利用しようとしている政府やIOCだろう。逆に、今回のメッセージは、こうした天皇の政治利用を、なんとか押し退け、国民の総意に添うようにしていこうという意思表示のようにも思われる。
 天皇は、絶対に政治的見解を述べてはならないのだろうか。もちろん、憲法的にはそうなっているが、それが適切であるかは、別問題である。少なくとも、ヨーロッパの民主主義的な国家に、いまでも残っている王室のメンバーが、政治的発言をしないということはない。
 また、絶対的権力をもち、主権者であったことになっている、戦前の天皇は、では政治的見解を述べていたのかといえば、皆無ではなかったろうが、やはり、現在のように、元老たちの助言によって発言してたはずである。明治政府がつくりあげた天皇制国家は、明治政府を築き上げた政治家たちが、都合のよいようにつくった天皇制システムであって、それは天皇が厳重に国家によって管理監督されていたことは、現在とはあまり違わないのである。
 天皇は訴追されることはなかったのだが、実際に訴追されるような行為をすることもなかったろう。それは、皇室メンバーがりっぱなひとたちばかりだったわけではなく、行動がかなりの程度コントロールされていたからだ。
 つまり、天皇は、戦前も戦後も公に意見を公表することはなく、従って、国民から批判されることもなかったのである。戦後は、天皇というシステムや昭和天皇の戦争責任への批判はいくらでもあるが、天皇の発言に対する批判は、やはり、皆無に近いのではないだろうか。極めて例外的なのが、退位を求めた上皇の発言であった。
 私は、天皇がもっと自由に発言してもいいのではないかと思うのである。そのかわり、その発言や行動に対して、国民が自由に意見を述べる、批判することができることが前提だ。今は、政府への批判すら、封じられるか、無視されるような状況だが、それは、民主主義の弱さの現れである。国民は、それでも政府を批判する必要があるが、それは、国民の総意に基づく存在なのだから、国民の総意を明確にするためには、天皇が発言し、国民がそれについて自由に見解を述べることのほうが、健全なのではないか。
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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