『教育』7月号は、第一特集が「大学はどこへ向かうのか」となっている。そして、最初に、基本命題を書いたような文章があるのだが、疑問が出てくる。それは後回しにして、まず書かれていることを箇条書きで整理しておきたい。
・21世紀の20年間は、内発的ではなく、外圧による大学改革の時代だった。
・国公立大学の法人化は、大学の自治を解体し、教育・研究の在り方を大きく変えた。
・産・官・学連携は当たり前のことになった。
・役にたつかどうかが、価値を決定し、学問の自由とは相いれない
・この状況をもっとも反映しているのは、教員養成の分野であるかもしれない。
・実務家教員の採用強制など、大学教育への直接的な介入はあとを絶たない。
・大学版学習指導要領である教職課程コアカリキュラムが自由を脅かしている
内発的か外圧かというのは、いろいろな考えがあるかと思うが、決して、大学改革は外圧だけだったとは思わない。大学にとって、改革の必要性を最も強く感じさせたのは、とくに私学では、少子化による大学全入状況だった。端的に「大学冬の時代」と言われ、応募数が大きく減少すれば、存立そのものが危うくなるわけだから、大学もかなり一生懸命、改革に努力したはずである。私の勤務校でも、短大はつぶれてしまったし、専門学校もつぶれた。それらを4年制に吸収する形で改革を行ってきたわけだ。これは、純粋に内発的であったと断定はできないが、少なくとも外圧とはいえない。
私がもっとも驚いたのは、教員養成の分野で、外圧的改革の矛盾が最も強く現れているという認識だ。大学関係者で、『教育』を編集しているひとたちのほとんどは、教員養成に関係しているが、自分のいる狭い領域しか認識していないのか、という疑問をもたざるをえなかった。産・官・学の連携が盛んなのは、理系であって、教員養成系ではない。
それから、教員養成とは、要するに国家資格に関する教育なので、管轄官庁の関与が強く、それは、教員養成に限らない。むしろ、これまでは弱かったほうではないだろうか。文科省は、厚労省などに比較して、資格に関する教育への関与は、むしろ弱かったのである。公認心理師の資格が設定されたときには、厚労省からの介入の細かさには、正直驚きすら感じた。私自身は、公認心理師のカリキュラムに関与していなかったので、翻弄されたわけではないが、専門の先生たちは、数年間ずっとどうするか、議論を続けたが、とてもやりきれないような要求を厚労省がだしてくるからだった。医師養成のカリキュラムなどについては、もっとずっと強いコントロールがあるはずである。
理系に関しては、膨大な研究費が必要なので、研究費によるコントロールなどが、強くなっている状況があり、こうしたことを「大学はどこへ向かうのか」という特集でまったく視野の外におくというのが、残念以上のものがある。
さて、巻頭論文は荒井文昭「真理の探求と人材育成のあいだ」だ。東京都立大学の教員で、かなり激動の時代をくぐり抜けてきたという経過を、かなり簡潔に書いているが、石原都政による、かなり強引な改編を元に戻したということで、題名のように、大学の役割を「真理の探求」か、「人材育成」かというように、課題設定している。荒井氏のみならず、特集全体が、大学に「人材育成」を求めることに疑問を呈し、真理の探求こそが大学の役割だという立場を顕著に表している。
はたして、それは正しいだろうか。大学といっても、法制上一様ではなく、また、大学の機能には、複数ある。最も単純化すれば、研究と教育という機能になるだろう。私が学生だったころまでは、大学とは、研究と教育を統一して行う機関であるという「常識」が存在したが、それを打ち破るために政府がつくったのが筑波大学だった。筑波大学は、研究系の組織と教育系の組織が分化しており、大学において、研究と教育は、異なるものだという制度理念をうちだしたわけだ。
実は、それまでも、「研究と教育」を統一して行う大学と、主に「教育」を行う大学とに分化していたのが実情だった。研究と教育を統一して行う大学は、「講座制」というシステムをとっており、教育を行う大学は、主に教員養成系の大学だった。つまり、職業教育機関であると位置づけられていた。ヨーロッパでは、この区分はもっとはっきりしており、研究系大学と教育系大学(高等専門学校という国もある)に別れているのが普通である。筑波大学は、講座制大学だったから、研究と教育を明確に組織的にも分けたことは、大きな意味をもった。
私は、若かったということもあり、やはり、統一派で、筑波反対運動を支持していた。しかし、その後いろいろと考えるうちに、やはり、研究と教育は同じことではないし、その関係は、ひとつのあり方とはいえないのではないかと思うようになった。極端にいえば、荒井氏の「真理の探求」は研究機能であり、「人材育成」は教育機能なのである。大学として、ふたつの機能を併せ持つことが、最もあるべき姿であるが、教育機能をもたない大学というのは、考えられない。研究機能に特化した大学であっても、研究者を育成することは、絶対にそこで行われる必要があるからだ。
荒井氏も、大学における教育機能を否定しないだろうから、その教育機能は、「人材育成」手はなく、何を育成するのだろうか。
荒井氏の主張によれば、「主権者」だということのようだ。荒井氏は、人材育成とは、国家と社会に役立つ人材を育てることだ、として、そのことを否定的に扱う。しかし、すぐそのあとで、「研究と学びを通して、社会と国家を形成していく主権者になることが想定されているのではなかったのか」と書いている。
そして、「国家と社会が求める人材の育成のためにおこなうことは、研究と教育の自律性を奪い」「国家の求める人材とは、国会与党の求める要求になるのだろうか。あるいは、社会が教育に求める内容は、社会のだれが決めるのだろうか。そういう疑念が拭えない」と書いている。国家と社会が求める人材を育成すると、研究と教育の自律性を奪うけれども、国家と社会を形成する主権者を育てることは、自律性を奪われないことになるというのは、私には理解不能である。
ここで、対象がずれるが、世界で最も自由な教育をしている学校といわれる「サドベリバレイ校」について触れておこう。この学校は、決まった授業はなく、すべて子ども自身がやることを決めるという学校で、自由と自律性の固まりのような学校である。
その創立者であるグリンバーグ氏が来日して開いた講演会を、私は聞きにいった。そのとき、グリンバーグ氏は、次のように、サドベリバレイ校の理念を語った。
「人はだれでも、社会で成功したいと願っている。成功は、オリンピックでメダルをとるとか、社会の勝者になるとか、そういうことではなく、自分が本当にやりたいと思っていることを見つけ、それをしっかりとやることができ、そのことが、社会で評価されることだ。」
そして、そのための教育スタイルを考えだして、サドベリバレイ校を作り、発展させてきたわけだ。大事なことは、自分がやりたいことを、社会のなかで評価されるようなことをめざして、人材育成をすることが、サドベリバレイ校の教育目標なのである。
荒井氏は、「社会とはだれが決めるのか」などといって、問題をはぐらかしているだけだ。様々な社会のなかで、その社会に相応しい能力や資質が求められている。それに適合するものを見つけ、めざしているならば、教育はそれを支え、援助するのが当然であろう。
荒井氏の言葉を借用すれば、国家に対しては、「主権者」を育成し、社会に対しては「人材」を育成する。そして、その土台となるのが、「真理の探求」である。
もちろん、現在の政府が進めている大学政策を、私が支持しているわけではない。しかし、政府批判をするあまり、みずからの役割もあいまいにするようなことがあってはならないのではないか。
この特集は、教員養成系の大学に、もっとも矛盾が出ているという認識だから、教師の養成について考えてみよう。私も、大学勤務中は、教師になりたいひとたちが、私の授業を多くとり、ゼミに入ってきたので、結果として、教師養成に強く関わることになった。その際、当然、教師になって(採用試験に受かる)、その上現場にでたときに、必要な能力、資質を可能な限り身につけさせるということで、教育活動をしてきた。つまり、教育界で「人材」としてやっていけるための教育をしたということになる。前にも書いたように、採用試験に受かるということは、教師としてやっていける基礎能力を身につければ、簡単なことなので、視野にはいれつつ、いつもその先を見据えてやってきたつもりだ。
荒井氏は、教師になりたいという学生を指導しているときに、ひたすら人格の完成と、主権者としての育成を考え、教師という人材として育てるという意識がなかったのだろうかと、思ってしまう。まさか、そんなことはあるまい。
将来なりたいものを見つけるところまではいかない学生には、それを見つける手助けをすればいいし、はっきりしているひとに対して、それが自分の専門と共通するならば、専門家として援助すればいい。自分の専門と合わなければ、自分でできる限りの援助をするか、適切な専門家を紹介すればいい。とにかく、希望の仕事にむかって、最大限効果的に学習できるように、援助するのが、教育機関の役割であり、それは、「人材育成」という言葉で表現して、まったく問題がない。そして、そのことと、主権者としての形成とは、まったく矛盾しないはずで、それを対立的に理解しているとここでいえは、どういう教師を育てるのかが、あいまいになってしまう。
問題は、どのような教師が求められ、育てる必要があるのかということである。荒井氏の文章に限らず、『教育』を読んでいると、「禁句」があって、それが思考を制限しているように思われてならないことがある。