選択的夫婦別姓の最高裁合憲判決は疑問

 6月23日、夫婦がどちらかの姓を選択しなければならない民法と戸籍法の規定が、憲法に違反しないかどうかが争われた裁判で、最高裁が合憲の判決をだした。
 この問題は、ずっと争われてきており、最高裁の判断も今回が二度目だ。前回は、15人中5人が違憲の判断をしたが、今回は4人だったと、毎日新聞が報道している。選択的夫婦別姓を押し進めるという立場からすると、最高裁はこの6年間に後退したことになる。
 現実問題として、夫婦になると、姓を変更しなければならない者は、社会生活上大きな不都合を強いられることがある。夫が働き、妻が家庭を守り、育児に専念するというような家庭であれば、それほど、現実的な不都合はないだろうが、現在は、夫婦共働きが多く、結婚する時点で、既に、自分の名前で社会的な活動をして、名前が変わるとそれまでの活動評価が浸透しにくいことになるひとたちだ。代表的な例としては、研究者が既に論文を何本をだしているような場合である。
 こうした不都合を解消するために、旧姓を「通称」として使用することを認める対策が、少しずつとられてきており、最高裁も「家族の呼称として、姓を一つに定めることには合理性がある。女性側が不利益を受けることが多いとしても、通称使用の広がりで緩和される」(毎日新聞6月23日)として、通称によって、解消できるという立場をとっている。
 しかし、通称を認めるかどうかは、職場によって異なるし、また、認めたとしても、すべての処理を通称で通すことはできない。役所が関わる書類は、戸籍名でなければ認められないからである。

 最高裁は、女性が不利益を受けることが多いことを認めているのだから、不利益を受けざるをえないという社会的在り方は、社会的差別であると認定しなければならないはずである。もし、通称の使用を更に拡大して、役所の書類も通称でよいということになり、通称と戸籍名が、まったく同じように使えるようになったすれば、女性が受ける不利益はなくなるわけだが、そのときには、通称の意味はなくなり、夫婦別姓と同じことである。つまり、最高裁は、通称をすべての点で使用可能にする可能性までいわない限り、性差別を事実上容認していることになると、いわざるをえない。
 オリンピック担当大臣である丸川氏が、地方議会の自民党に対して、選択的夫婦別姓を支持しないように、自民党有志として声明をだした一員であったことは、ずいぶん報道された。男女平等をうたうオリンピックの担当大臣としての資質が問われたわけだが、そのときの、丸川氏のあいまいな答弁もまた、ひどいものだった。要するに、選択的夫婦別姓に反対するひとたちの感覚は、男系男子の皇統を主張するひとたちと同様に、宗教に近い「信念」でしかなく、だから、合理的な説明はできないのである。
 もっとも典型的な選択的夫婦別姓反対論は、家庭のまとまりが壊れるというものだ。父親と母親の姓が違うと、子どもが混乱するとか、いじめられるとかの議論もよくだされる。家庭のまとまりは、姓の同一によって形成されるものではなく、家族同士の愛情によって形成されるものだ。父母の姓が異なるとしても、そういう制度ができれば、当たり前のことになり、そのことがいじめの原因にはなるまい。
 
 さて、判決をうけて、ヤフコメをみると、判決を支持する意見が圧倒的に多い。つまり選択的夫婦別姓は、司法判断によって行うことではなく、議会が法律で決めることであるという見解だ。それは間違ってはいない。しかし、司法には、司法の役割がある。結婚するときには、どちらかの姓を選択して、夫婦共に同じ戸籍の姓にしなければならないという法律の規定が、憲法に違反しないのかどうかを判断するのは、司法の役割なのである。そのことの判断は意味がないというのであれば、憲法で規定されている違憲立法審査権が無意味になってしまう。
 判決文をみていないので、詳細はわからないが、違憲ではないというのは、女性が男性の姓にするのが圧倒的に多いとしても、それは強制されたものではなく、選択したものであり、男性が女性の姓になることもある分けだから、性による差別ではないということなのだろう。その限りでは、同意せざるをえない。
 しかし、人が社会のなかで認知されるのは、まずは姓名を通してである。いかなる功績が認められるとしても、そこには必ず姓名が象徴として付着するのである。結婚のときに、その姓名の一部が変更しなければならないということであれば、それまで蓄積してきた社会的認知が当然一部奪われることになる。それは、女性に限らず、男性でも同様である。そうした社会的認知の手段を奪うことは、差別ではないが、幸福追求権の一環としての自己決定権に反するのではないだろうか。つまり、私は、憲法14条ではなく、13条に違反する可能性が大きいと考えるのである。そして、もし、そうであれば、裁判所はそれをきっちりと認定しなければならない。否定するにせよ。判決文がそれに触れているか、注意してみてみたいと思う。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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