オリンピック強行が、戦前に似ているというが

 オリンピックに、一時的に批判的な意見を載せ始めた大手メディアも、このところ、すっかりオリンピック推進的な論調に変化していると言われる。そして、どんなに状況が悪くても、そういう客観情勢を見ずに、決めたことに猛進していくというのが、戦前、太平洋戦争に突入していったときとよく似ている、翼賛体制になっているという批判が、多く公表されている。
 しかし、決定的に違うところがある。戦前のメディアは、大手の新聞やわずかな雑誌しかなかった。そして、新聞にしても、雑誌にしても、検閲という強力な国家監視・管理システムの下にあった。もちろん言論の自由などは、なかったわけである。そういうなかで、新聞や雑誌も、戦争体制に飲み込まれていったし、積極的に国家への協力体制を進めていった。 

 しかし、現在は、やはり、それなりの言論の自由がある。大手メディアは、みずから言論の自由を抑制している面があるが、やはり、戦前のような検閲が存在しないだけ、まだ、客観的な報道の余地が「皆無なわけでない」。それよりも、大きな相違はやはりインターネットの存在である。新聞関係者などの旧メディアからみると、インターネットの情報などはいいかげんなもので、信用するにあたらないという感覚が、いまだにあるように感じられるが、実際には、インターネットの情報のほうが、客観的な事実を踏まえた、正確な場合も少なくないのである。もちろん、インターネットの情報が玉石混淆であることは間違いないが、大手のメディアの記事だって、玉石混淆であることは同じなのだ。いまどき、大手メディアの記事が「玉」ばかりであると思っている人など、いるとは思えない。オリンピックに限らず、大手メディアの情報と、インターネットの情報は、かなり分裂しているともいえる状態になっている。
 例えば、秋篠宮家をめぐる一連の動向、とくに真子内親王の結婚問題をめぐる情報は、大手メディアとインターネットとでは、極端に違っている。そして、この点については、明らかに、インターネットの情報のほうが大きな力をもっているといって差し支えないだろう。大手メディアは、はっきりと「忖度報道」以上のものではなく、いわば、インターネットで語られている内容を、せいぜい後追いしているに過ぎない。
 オリンピックも同様のことがいえる。
 現在、明らかに大手メディアは、オリンピック盛り上げの方向に切り替わっている。それを、まるで、国民の意識が変わりつつあると表現までしているが、変わりつつあるのは、主にメディアの姿勢であって、コロナの感染が若干減少してきたことも、そうした変化を後押ししているのだろう。もちろん、観客数の決め方などについても、あまりにおかしなことが決められていくので、さすがに厳しい指摘がないわけではない。例えば、一般社会に対して、酒類を厳しく制限しているのに、オリンピックの観客には酒を認めるとか、最大一万人あるいは定員の50%を上限とする決めつつ、大会関係者やスポンサー関連のひとたちは、「観客」ではないから、1万人のなかには、入らないとか、国民の常識からすれば驚くようなことが言われているので、さすがに、二階幹事長までが批判をしているようだ。
 しかし、前にも指摘したように、スポンサーは絶対であり、詳細な契約があるから、それを破ることはできないのたろう。アサヒビールがスポンサーになっている以上、酒類の会場での販売は、おそらく最後まで固執するに違いない。取り下げるとしたら、アサヒビールが自ら、契約内容をまげて、販売しなくてもよいと認める場合だけだろう。それなら、何のためにスポンサーになり、高いお金を負担したのか、と思うはずだ。
 大会関係者やスポンサー招待の「特別枠」というのは、前から言われており、今更驚くことではないが、問題は、「特例」を認めるということだろう。特例であれば、上限などいくらでも超えられるのであって、既に、子どもを加えて3つもの特例がだされているわけだから、今後も増える可能性があるのだ。こうしたことは、ネットでは、極めて厳しく批判がなされている。 
 このように、大手メディアとインターネットとでは、雰囲気がまったくといっていいほど違うのだが、これは、今に始まったことではないのだ。
 もともと、世論は東京オリンピックに反対だったことを思い出そう。なぜ、反対者が多かったのか。それは、大きく二つの理由があった。ひとつは、震災からの復興こそが、当時の日本ではもっとも重要な課題であって、オリンピックをすれば、必ず復興の妨げになるという十分な予想があったからである。それは、現在の実情をみれば、実際に正しい判断だった。第二は、そもそもオリンピックそのものが、国民が賛成できるようなものではなくなっており、引き受けるべきではない、他国に譲るべきだというものだ。何度も書いたが、ロサンゼルス大会以前の大会は、それほど大規模なものではなかったし、アマチュア主義がまだ支配的で、大会費用は、主に開催としと国が負担していた。しかし、ロス大会以後、オリンピックが商業主義となり、儲かるものになったとされ、次第に大がかりで派手なものになってきた。しかも、中心は多くがプロの選手となった。しかし、実際に、オリンピックを開催して利益をあげられるのは、アメリカのような絶対的経済大国・スポーツ大国に限られており、日本が今回のオリンピックのために、莫大な費用を要することになったことは、知らぬものはないほどだ。その詳細は知られていないが、おそらく、気の遠くなるような公費が支出されているはずである。コロナがなければ、それでも経済的な利益があがったというが、それは一部のひとたちであって、結局は利権絡みなのである。そういうことが、よく知られていたから、当初東京招致に、国民は反対だったのである。しかし、大手メディアが大がかりな宣伝を行って世論調査を変化させていった結果、東京招致が決まり、その功績を認められたからなのかはわからないが、極めて異例なことに、大手新聞社がこぞって、オリンピックスポンサーとなった。ここで、オリンピックに対する冷静で客観的な情報や意見は、大手メディアからはほとんど消えていき、インターネットによって、そうした情報・意見が担われるようになったのである。ふたつを日常的に見ていれば、いかに大手新聞とインターネットのオリンピック情報や見解が異なるか、すぐにわかる。そして、重要なことは、大手メディアだけを見ていたら、わからないということだ。そこが、戦前と異なっている点である。確かに、大手新聞は、今後ますます翼賛的になっていくに違いない。しかし、その歯止めがネットにある。旧メディアはインターネット情報はいいかげんだと、あいかわらずいっているが、いいかげんさの度合いは、大手新聞のほうが大きい。インターネットでは、忖度の必要があまりないから、自由な情報が流れている。ここが、戦前とは違うところだ。
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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