天皇のオリンピック発言は、憲法にそったものだ

 あいかわらず、憲法学者の何人かから、24日の西村宮内庁長官を通して発せられた天皇の気持ちに対して、越権行為であるという意見が寄せられている。例えば、次のように報道されている。
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 今回の発言について、憲法学者からは厳しい見方も出ている。横田耕一・九州大名誉教授は「宮内庁長官が政治に絡む天皇の思いを公にするのは、問題で越権行為だ。『感染拡大を心配している』との発言は『こんな時に開催するのはけしからん』という意味を持ってくる。五輪に反対する人たちが天皇の意見として都合のいいように利用する状況が生まれかねない」と警鐘を鳴らした。
 百地章・国士舘大特任教授は「陛下の思いは、開催した場合に感染拡大が起きないようにしてほしいということだろう」と指摘。そのうえで、「仮にそういう趣旨の思いを感じ取っても、西村氏は公にするのは控えるべきだった」と語った。
 しかし、憲法学者としては、情けない発言である。憲法に則して、考えてみよう。厳密に、そして、条文に則して考えるために、天皇の章を全文確認しよう。

 
第一章 天皇
第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
第二条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。
第三条 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。
第四条 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。
② 天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。
第五条 皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には、前条第一項の規定を準用する。
第六条 天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。
② 天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。
第七条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
一 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
二 国会を召集すること。
三 衆議院を解散すること。
四 国会議員の総選挙の施行を公示すること。
五 国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。
六 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。
七 栄典を授与すること。
八 批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
九 外国の大使及び公使を接受すること。
十 儀式を行ふこと。
第八条 皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が、財産を譲り受け、若しくは賜与することは、国会の議決に基かなければならない。
 
 重要な内容は、天皇の地位は、「主権の存する国民の総意」に基づくということ、天皇の「国事行為は、内閣の助言と承認を必要」とする、天皇は国事行為のみを行い、「国政に関する権能を有しない」、そして、天皇の行う行為を厳密に規定している。
 問題はいくつかに整理することができる。
・国民の総意に基づくとは、どういうことか。そして、今回の発言は、国民の総意に照らして、どうなのか。
・「国政に関する権能を有しない」とはどういうことか。今回の発言は越権なのか。
・オリンピックは国事行為なのか。
・国事行為以外の行為への制約はあるのか。
 以上のようなことがあるだろう。
 まず先の二人の憲法学者の発言をみてみよう。
 正確な要約であるかは、かなり疑わしいが、報道でしか知ることはできないので、この発言がとりあえず二人の意見を表しているという前提で考える。
 横田氏は、西村長官の発言を越権行為と断定し、それは、紹介された天皇の発言とされるものが、オリンピック反対派に利用されるというのだ。かなり短い要約の記事なので、真意を反映していないかも知れないが、西村長官が、天皇の意に反して記者会見をしたという認識のようだ。が、そんなことはありえない。天皇と意志確認をした上で、発表内容を決めたはずであり、従って、オリンピックで感染が拡大しないか不安であるというのは、天皇自身の認識であり、かつ、それを記者会見で、国民に広く知らせることも、天皇と長官の合意の上であると考えるのが、ごく当然のことである。したがって、西村長官の越権行為というのは、成立しない。そこで「国政の権能を有しない」ということが関わってくる。これはどういうことか。
 例えば、私自身は、まったく一国民であるが、選挙権と被選挙権をもっている。これは「国政に関する権能」である。もし立候補して、議員に当選すれば、その議員としての「権能」をもつことになる。総理大臣にでもなれば、かなり強大な権能をもち、国政を動かすことができるわけである。
 しかし、天皇はそうした国政に関する権能を一切もたない、ということは、一切の政治的権限をもっていないことであり、参政権すらないから、選挙もできないし、立候補もできない。議員や官僚、大臣になることができないから、国政をすることができない。そういうことだ。
 では、意見を発表することは、「国政に関する権能」の一部だろうか。私がここでブログを書いていることも意見発表だが、これが「国政に関する権能」かといえば、まったくそんなことはない。では、私よりも、国政の権能がない天皇が、何か発表しても、どこに憲法違反的要素があるのだろうか。
 ただし、戦後の天皇、とくに平成以降の天皇は、それでも自分の様々な見解を述べることに対して、厳しい自己制限を課してきたといえる。たとえは、上皇が、まだ皇太子だったとき、インタビューで、好きなテレビ番組を質問されたとき、「そういうことを言うと、影響があまりに大きい、言わなかった番組に対して申し訳ない、だから、言わない」と明言したことがある。そこまで自己規制が厳しいのかと、驚いたものだ。それは、以後ずっと一貫していると思われる。そして、上皇や今上天皇が、公に発する言葉は、憲法の三大原則と言われることにそったものと、被災者を思う内容とに限られているといえる。それは、また、「国民の総意に基づく」ということに合致することでもある。オリンピックが感染拡大させないかという不安は、国民のほとんどがもっているものであり、しかも、災害に関わることである。だから、国民の総意に基づく地位に相応しい発言でもあるのだ。
 横田氏は、それはオリンピック反対派に利用されると危惧している。しかし、逆に、そういう発表を封じる横田氏の発言は、こんな無理な、国際的に大いに疑問視されているオリンピックを、強行開催して、安全安心というが、ザルの管理をしている状況を容認しているという、逆の効果をもたらしている、そういう政治勢力に利用されるではないか、と批判されたら、なんと答えるのか。横田氏のほうが、天皇よりも、よほど「国政に関する権能」を広く有しているのだから、政治的責任は大きいのではないだろうか。
 百地氏の発言は、内容には共感しつつも、なお西村氏は公表すべきではなかった、などと述べている理由が書かれていないので、「何をか況んや」である。
 
 次に、オリンピックは国事行為なのかという点だ。憲法には、国事行為が列挙されているから、国事行為ではないことは明らかだ。国事行為なら、天皇の職務であり、内閣の助言と承認が必要だが、国事行為ではないオリンピックとの関わりは、内閣、あるいは都との折衝条項になるはずである。名誉総裁となっているのは、天皇の義務としてではなく、当初は自らオリンピックを積極的に支えようという意識があったからだろう。逆にいえば、辞任することもできるはずだ。更に、IOCの決めたオリンピック憲章では、開会宣言を国家元首が行うと定めているが、天皇が、その規定に拘束されるはずもないのである。現実に、まだ天皇が、オリンピック開会式に出席するかどうかは、決まっていないのだそうだ。調整中と官房長官は記者会見で述べているので、おそらく、天皇がイエスといっていないと推測せざるをえない。
 たとえ、日本政府と東京都が、オリンピック憲章を公式に認めて、オリンピック開催を招致したとしても、それに天皇が、無条件に従う義務があるはずがないのである。むしろ、名誉総裁であることにより、出席の責任が生じるかも知れないが、そういうレベルでいえば、名誉総裁として、オリンピック開催に関する諸事項に対して、意見を述べることは当然だし、今回の発言を越権行為とすることは、ますますできないわけである。そして、天皇発言を「西村長官の個人的見解」などと述べたことは、名誉総裁をまったく無視していることになる。そんなオリンピック開会式にはでない、ということは、ごくごく自然な対応だと、私は思うほどだ。これはあくまでも、私の見解であるか。
 最後に、国事行為以外のことについてはどうか。
 よく、天皇には人権がないと言われる。しかし、それは正しくないし、またそうあるべきでもない。一般国民にあって、天皇にないのは、「国政に関する権能」のみである。皇族は、皇室離脱の権利をもっており、天皇の退位も認められた。だから、皇族も一般国民になることが可能であり、そうすれば、一般国民としての人権をすべてもつことになる。まったく人権のない存在が、一般国民になる可能性をもつというのは、いかにもおかしなことではないか。皇族だって、教育を受ける権利を有して、学校に通っているわけだ。自由権に属することも、ほとんどは皇族にも認められているといえる。
 ただ一般国民と違って、様々な保障を公費によって実施されており、そのために、国民の象徴としての機能を果たすことが求められており、皇族でいる限り、住居の自由などはないといえる。
 表現の自由は、皇族の生活形態からみて、思うように行使する機会があるとは思えないが、それでも、表現の自由がないと考えるのは、実態としても間違っている。ただし、上皇の例でみたように、天皇や皇族みずから、影響力を考慮して、自分で制限しているのが実態である。天皇が自らを制限していることをもって、何か表現の自由がないかのような誤解か発生しているのではないか。また、表現行為と、国政の権能とは、はっきり異なるものであって、その混同もありそうだ。
 どうしても言わざるをえないときには、率直に国民に向けて発言すればいいのだ。とくに、憲法の精神にそったものであれば、問題があるはずがない。ただし、前にも書いたが、そういう皇族の発言に対して、国民の側の自由な批判も保障される必要がある。
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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