ADHDは障害か

ADHDは障害なのだろうか。日本では注意欠陥多動性「障害」と訳され、障害者としてみなされている。不注意、多動性、衝動性の3つの観点から、周囲との関係において不適応がみられる場合診断が下されるこの障害を抱える人は、確かに他の人とは違う特質を持っている。集中力がない、人の話を遮る、物事をやり遂げられないなど、マイナス面を強調されることが多いこの障害について、私も以前は障害の一つとして認識していた。しかし、ある本を読んでからADHDは「障害」ではなく「才能」であると気付かされた。

その本は、『ADHDサクセスストーリー 明るく生きるヒント集』(トム・ハーマン 2006年)である。この本は、ADHDとはどのような症状があるのかから始まり、トム・ハーマンの自説が続き、ADHDの人達の体験談を参考に、欠点を補う方法について述べている。トムはとても斬新な自説を述べている。それは「ハンター」「ファーマー」理論である。動物の病気や障害は、現在ではほとんど役に立たないがこれまでの進化の過程で何かに役立っていた可能性があるというトムは、ADHDの遺伝子も過去を遡れば何かの役に立っていたのではないかと考えた。周囲の物事に次から次へと注意が移り、活発に動き回り、突然ものすごい集中力を見せるADHDの人達は、狩猟社会の名残なのではないか・・・?とトムはひらめいた。確かに狩りをして生計を立てていた時代は、いつどこで出てくるかわからない獲物、もしくは外敵をいち早く見つけるために、周囲をきょろきょろと見回し、物音ひとつ聞き逃さないように行動していたに違いない。またよりそういった能力が高い人ほど優秀な「ハンター」として生き残る可能性も、遺伝子を残す可能性も高かっただろう。しかし農耕社会の幕開けとともに、ハンターの人口は減っていく。それは、農耕社会の方が面積当たりに養うことのできる人口が圧倒的に多く、また牧畜により動物から感染する病気に強くなっていたため、ハンターたちは感染したら死んでしまうような病にもやられなかったからだ。また、人口が多いということは、それだけ戦争にも強いということだ。「ファーマー」はどんどん増えていき、現在の社会のほとんどの人が「ファーマー」となっている。つまり、現代社会は「ファーマー」にとっては生活しやすいが、「ハンター」にとっては生活しにくい社会になってしまったのだ。「ファーマー」の自分たちとは合わない、何か様子が違う、扱いにくい・・・「ファーマー」中心の社会なのだから当然異質さが目に付き、「ファーマー」を基準とすると「障害」とみなされる。ADHDはこのような経緯でできた障害なのではないだろうか。ADHDだからといって能力が劣るわけではなく、むしろ桁外れに優れている場合もよくあることらしい。例えば発明王といわれるエジソンも、ADHDだったのではないかと言われているのだ。彼も学校ではおかしな子として扱われ、様々なことに興味を持ち、沢山の失敗を経て多くの発明をしてきた。発明にこぎつけたものだけを見るとただ素晴らしいとしか言えないが、実験にすら移さなかったこともたくさんあったそうだ。それは興味が次々と移り変わり、「何が何でもやり遂げてやる!」という意欲が無かったからだろう。他にもケネディなどの偉人や、現代の企業家の多くがADHDもしくはその疑いのある人だとトムは言っている。

ADHDを「才能」と考えるとはいえ、現実的に考えて欠点がいくつかあることは間違いない。しかし私たちはその欠点を克服するための手助けを怠っているように思える。学校では先生から邪魔者扱いされ、友達からは距離を置かれ、家族も理解してくれず、挙句の果て「障害」だからあきらめなさいというのでは、あまりにもむごい仕打ちではないか。私は教師を目指すうえで、ADHDの児童、ADHDと思われる児童の「才能」を見出し、「欠点」を克服するための術を身に着けさせたいと強く思った。できないことをできるようにすることが教育であり、その先に人間の尊厳の確立がある。障害とみなしあきらめることは簡単なことだが、輝ける可能性を潰してしまうのはとてももったいない。ADHDの犠牲者にならないように、ADHDの犠牲者にさせないようにするうえで、「欠陥」や「障害」という言葉の負の力はとても大きな壁になる。自分の置かれている状況を病気のせいにして逃げたくなる気持ちを強くさせてしまう。障害者としてのフィルターを通してみてもらいたいと願うのか、現代の「ハンター」としてファーマー側からの挑戦に立ち向かおうと考えるのか。成功するかしないかはこの考えの差なのではないだろうか。一人でも多くの成功者を生み出し、幸せな人生にしてもらうために、ADHDの児童に対して教師ができることは沢山あると思う。一流の「ハンター」を育て上げる努力をしたいと思う。

発言を「受け取る側」

教師による発言の影響について調べたことから自分の考えを少しまとめてみた。

東京都調布市の女教師の暴言について調べながら考えてみた。その発言について「このくらいは許容範囲」や「教師としておかしい」などのようにいろいろと賛否両論があるが、一番考えなくてはいけないことは、その女教師によって暴言を浴びせられていた子供達のことである。
暴言とはどこまでが暴言なのか?について考えてみた。「バカ」と言われて嫌な思いをする人もいればそれくらいの言葉は気にならないという人もいるだろう。1番は「受け取る側」にあるのではないのかと思う。他人がそれを判断することはできない。本人がどう考えどう感じたのかということが問題になってくるのではないだろうか。それが「人間の尊厳」の部分なのではないだろうか。
その女教師の処分などについても議論が交わされているが、正直処分がどうなったとしても子供達が暴言をはかれ傷ついたことは消えない。その女教師の今後というよりは、その子供達のケアが最優先事項なのではないかと思う。

先日文教生にアンケートを実施した。「教師とはどんな存在か」「暴言をはかれたことはあるか」などの質問をしてみたところ、教師とは「親とは別に成長を促進してくれる人」といったような回答が多かったように思う。そして暴言の内容とはどれもその人についての否定的な言葉であった。まだ全ての回答を見ることはできていないが、自分を否定されること=自己肯定感を損なわれるようなこと、というのが特徴的であった。

まだいまいち核心には迫れない部分があるのでもう少し考えられる材料を増やしたい。
なにかきっかけとなるような文献などを探してみたいとおもう。

過激な発言が生まれる要因

なぜ過激な発言が生まれるのかを個人的に考えてみた。

人格的な面から考えると、演じることによって、普段の生活では弱い立場にいる者や、中くらいにいても、自分はもっと上にいるべき存在なんだなどと、どこかに自分を高い位置におこうという意思があるのではないかと考えた。そして、自分と同じような過激な発言をする人と仲間意識や連帯感を持つようになり、自分が強くなったように錯覚し、さらに過激な発言へとエスカレートしていってしまうのではないかとも考えた。また、一度過激な(強気な)発言をしてしまっているので、後戻りするわけにはいかないというプライドのようなものも持ち合わせているのではないかと思った。

このようなことから、過激な(強気な)発言をした「自分」に誇りを感じ、また、強い自分でありたいという気持ちが過激な発言を生むのではないかと考えた。

この何か月かで、ネット右翼とは何か、演じている側の尊厳とは何かと、一通り考えることができたので、今は課題が見つからず行き詰っている状態である。

フリースクールで行える役割

フリースクールでインタビューを行い、その内容について考えられたことについてまとめていきたい。
 私がインタビューを行ったフリースクールでは、何らかの理由により不登校となった子どもや障碍を持った子どもが通っている。そこで通っている子どもはフリースクールが開かれている時間に自由に生活をすることができるようになっている。私は、このように子どもが自由に学びや活動をすることのできる場を用意することが必要であると考えた。
 不登校のきっかけとしていじめや集団にうまく馴染むことができないことが挙げられる。学びたいという意志を持っているが、ある集団にいることによって学ぶことができない状態にあることは、その人の人間の尊厳を侵していると考える。また、勉強について行けず何らかの支援を受けられないこと、学校へ行き学ぶ以外の活動をしたいと考えても活動が抑えられてしまうこと、障碍を持っていることによって周囲の人から認められずに生活をしていることが考えられた。
 このように、学校の集団の中での生活に適応することができず、学ぶための機会や奪われている場合にフリースクールという場が必要だと考える。
 フリースクールが発行している本の中で、学力不安や行事嫌いといった、目に見えていることが根本的な問題ではない。「私も存在していいんだ」と思える環境が必要ということが挙げられている。ここにあるように問題として捉えられるものだけが不登校のきっかけとすることができない場合がある。私が存在していいという感覚、自己を肯定する気持ちを持ち直す準備の期間としてフリースクールに通うという選択をすることができると考えた。

虐待された子供たち 事例①

施設へのインタビュー交渉の傍ら本や文献を読み、様々な視点から「虐待」を考えてみようと思う。その第一弾として「虐待を受けた経験のある子どもはその後の成長段階においてどのような特徴が見られるのか。」ということについて調べてみた。今回から数回にわたり秋月奈央さんの著書、『虐待された子共達』に記載された実例をもとに私の考察も含めて投稿をすることにする。

Sちゃん

小学校2年生のSちゃんは両親と母方の祖母と4人暮らしをしていた。両親は共働きのため、普段は祖母が育児をしていたが、この祖母が主に虐待を働いていたという。Sちゃんの母親もこの祖母に叩かれて育っていた。そのため、母親もまたSちゃんを叩くことでしか育てられなかったという。祖母には虐待の意識はなく。あくまでも『しつけ』だったという。また、父親は普段は育児に無関心であるが、酒が入ると暴力的な性格になる人であり、Sちゃんが児童養護施設に引き取られた時にも施設に入り込み、「Sを返せ!」と暴れたという。このように家族全員から虐待を受けていたことが明らかになり、Sちゃんは児童養護施設に引き取られた。養護施設の職員は年齢の割に体が未発達だったSちゃんに驚き、『愛情剥奪性小人症』ではないかと疑った。これは、家族から虐待を受けたことで、特に親との愛情が希薄になったため、その心理的要因によって身体の発達が阻害されるという症状である。Sちゃんに限らず、虐待を受けた子どもは養育者から愛情を注がれなかった心理的影響が発育面にも影響を及ぼす例は少なくないと言われている。

体には火傷の跡や、殴られたような長い傷跡が至る所に、しかし目立たないような場所にあったという。酒乱の父親にやられたものだろうか。しかし、養護施設の職員がSちゃんの自宅を訪れた際、母親が出したお茶に対してとっさに頭をかばうというような過敏な反応を示したことから、私は母親か祖母から日常的に熱いお茶のようなものをかけられていたのではないかと疑った。

Sちゃんは児童養護施設に来た当初、なかなかしゃべらない子であったという。これは家族との言語的コミュニケーションが希薄であったため、また、暴力をふるう家族への恐怖心から自分の意見を言えなかったためだと推測できる。また、施設に引き取られてから学校で初めて発した言葉は「バカ。死ね。」だったという。Sちゃんが日常的に家族から浴びせられた言葉なのだろう。一人称や二人称を上手く使えないという点もSちゃんが家族や周囲の人達と良好なコミュニケーションを築けなかったという悲しい事実に裏付けられたことだろうか。

職員は児童養護施設での食事や遊びの際にもSちゃんのそれまでの生活を垣間見ることができた。Sちゃんは極めて食が細く、食べるのが早かったという。家族といた時には充分な食事を与えられなかったのだろう。私はそれだけでなく、Sちゃんはなるべく家族と同じ時間を共有したくなかったのではないかと憶測を立てた。また、遊びの面では友達と「夫婦喧嘩ごっこ」をしていたという。友達と腕を引っ張り合ったり、頭を叩く真似をしたり、「役立たず。」「お前なんか出ていけ。」とお互いを罵倒したりするのだという。とても小学校2年生の女の子がする遊びとは思えないが、この光景はSちゃんが実家で生活していた時の日常を再現したものだと考えられた。親子間で遊ぶ機会を得られなかったばかりか、夫婦喧嘩という子供にとって苦しいであろう出来事を遊びとして取り入れてしまうSちゃんに同情の念を覚えた。愛情を持って育てられなかった子どもは普通とはずれた感覚を持ってしまうものなのだろうか。

 

以上がSちゃんの大まかな特徴である。その後は少しずつ心を開き始めるようになったという。最初は硬直していた身体が養護施設での生活を通じて段々と柔らかくなっていったのだ。また、虐待の傷跡が痛むとしばしば職員に訴えてくるようになったという、その際に「これね、お母さんに棒で叩かれたの」と言ったそうだ。Sちゃんが初めて自分から虐待を受けたことを告白したのである。この時に職員はSちゃんが本当に痛かったのは身体ではなく、心なのだということに気付いたという。私はこの場面を想像して切なくも嬉しい気持ちになった。何故ならこのSちゃんの訴えはSちゃんが普通の愛情がどのようなものなのか気付き始めたサインだと思ったからである。自分の気持ちを、苦しい体験を正直に話せる相手を見つけることができたのだ。職員のことを信頼できる相手として認識した瞬間ということもできるだろう。暴力や暴言を使わなくてもコミュニケーションは成立するということをSちゃんは知ることができたのだ。

 

虐待を受けた子どもも適切な場所で丁寧な応対をすることで正しい愛情を理解することができるのだということがわかった。次回は性的虐待を受けたAちゃんについてまとめようと思う。

 

 

 

参考文献  秋月菜央『虐待された子共達』

社会福祉の認定調査士にインタビュー

社会福祉の認定調査士に認知症の方がについてインタビューを行った。

社会福祉の認定調査士とは、介護保険を使っている人の心身の状況を見に行く仕事である。認知の方の本人の状況と家族の介護の手間を調べる仕事である。認知症とは簡潔に言うと物忘れが激しくなることです。認知症によって周りの人が困ってしまうことがあるのも事実です。

認知症の方に多い症状は数をあげればきりがありません。

・忘れるから同じ事を何度も聞いたり何度もしつこく話をします。具体的に言うと「今日は何日?」「今日は何曜日?」と1分もたたないうちに聞く。

・自分が都合が悪くなると人のせいにする。例えば、お財布を蔵い忘れて見つからなかった時に、「誰かに盗まれた。」とか「泥棒が入った」などと人のせいにする。と被害的なことを言う。

・昔と現実が一緒になって、事実と違う話をする。例えば、「隣の人がさっき訪ねてきたよ。」と来ていないのに言ってしまう。

・失禁をしたときに、「誰かが[1]水をこぼした」などと取り繕う姿が見られる。

・些細な事で急に怒りだして感情が不安定になる。

・今までの人格と違う性格になっていく。

・夜起きてご飯を食べ始めるなどの昼夜逆転生活になってしまう。ひどくなると夜動き出してしまう。

・意味もない大声を出す。

・自分のうちにいるのに「家に帰る(実家)」と言い徘徊をする方が多いそうです。

・やたらに同じ物を集めてしまう収集癖が出てしまう。

これらの症状は意図的に言っている訳ではなく本人の中ではそれが普通のことだと思ってしまう。

症状を聞いて、認知症の方は被害者のように振る舞う傾向が強いと感じた。その傾向が強いのは周りの人に冷たくされたり邪見にされてしまっているからなのかと推定できる。もどかしい気持ちがそのような症状にあらわれてしまうと考えられる。

徘徊は認知症の症状でも有名な症状の1つだと思う。実家に帰るというのは本人がその環境にストレスを感じてしまうことからの行為である。

上記の症状を聞いて、比較的に自分の思い通りに行かないことから発症していると考えることが出来る。

認知症の方を支援する家族の方々の様子は、徘徊しないように鍵を徹底したり、失禁しても攻めたりせずに変えてあげたり同じ事を話してもイライラしたりしないようにしているので支援しているうちにストレスがたまっていくと思います。このような支援でストレスが溜まってしまうという家族を現場でもたくさん見受けられます。レスパイトケアといって家族の休息をとる事を目的に家族の負担を減らす為にショートステイやディサービスの利用によって家族が休息出来るというシステムもあります。

認知症の方々が尊厳を侵されていると考える時点で偏見だと思います。本人はもしかしたら尊厳を侵されていると感じているかもしれませんがそれを表現することが難しいので、周りの人が汲み取ってあげるしか知る方法はありません。

認知症の方の本人の意志で症状が出てしまうと考えると出来る限り本人の希望通りに生活させていくこと本人の尊厳を守ることだと思います。

この認知症の方々の尊厳に関連する話題はもう少し深く掘り下げていく必要があると感じました。

支援が大変でストレスが溜まってしまう方も多いです。レスパイトケアといって家族の休息をとる事を目的に家族の負担を減らす為にショートステイディサービスの利用によって家族が休息出来るというシステムもあります。

認知症の方の症状も本人の希望と考え、可能な限り普通の生活をおくってもらうのが尊厳を守ることにつながると思います。 介護している家族が必ずしも長く生きてほしいとは願っていないと思います。「この生活がいつまで続くのだろうか。」とか「こんな生活うんざりだ。」といったことを思う人もいます。

レスパイトケアやショートステイといった言葉をこのインタビューをするまで知らなかったので自分の知識不足を痛感させられました。今後もっと文献を読んだり調べたりして行きたいと思います。

以上がインタビューの簡潔な報告です。

人間の尊厳を保つには?

人間の尊厳を保つことは、社会で生きていく上で必要不可欠なことだと思う。 私が思う人間の尊厳は、一人ひとりが社会の中で相互的に理解され、尊重し合うということであり、そう考えると人間の尊厳なくして社会で生きていくことはできないと思う。 ゼミで話し合った認知症は、その点でとても難しいケースだ思う。 認知症患者にとっての社会は家庭やグループホームだと思うが、その中でも家庭において認知症患者の人間の尊厳が保たれることは難しい。本人と家族がお互いを理解することが難しくなるからだ。 例えば、認知症が進むと色々な事を忘れてしまい、自分がご飯を食べたことも忘れてしまう。本人はまだご飯を食べていないと思っているから「ご飯まだ?」などともう一度ご飯を食べようとする。しかし、家族はもう既にご飯を食べているから食べさせることはできない。そうなると、本人はどうして食べさせてくれないんだ、と思うようになり「家族は自分をいじめている」と考えてしまう。家族は本人のためを思っているのにそれを本人は理解してくれないし、認知症患者自身も自分の気持ちを家族にわかってもらえない、と思ってしまうのだ。このように認知症患者とその家族がお互いを理解し合うことは難しい。その中で認知症患者は尊厳を持って生きていると思うことがなくなってしまうと思う。 のし状況を良くするためには、認知症への理解が必要だと思う。家族が認知症をよく知り「認知症とはこういうものだ」と思うことができるようになれば、理解できる部分も大きくなるのではないかと思う。そうすれば、認知症患者も人間の尊厳を保ちながら生きることが可能だと思う。 何事に対しても、まずは「相手を知る」ということが大切だと思う。人種差別や障害者差別など、世の中には「人間の尊厳が犯されているのでは?」と感じることがまだまだ多くある。しかし、それも相手を知ることで変わってくるところがあると思う。相手の考えや思い、生き方などを何一つ知らないのに、「この人種だから」「障害者だから」というだけで差別するのはおかしいし、人間の尊厳を犯す行為だと感じるし、それを行う人に自分の尊厳を主張する資格はないと思う。 認知症や人種、障害は簡単にわかり合うことは難しいことである。しかし、どんなことでもそれを知ることはできると思う。そして、知ることが最終的には理解に繋がると思う。 誰もが尊厳をもって生きるために、まずは相手を知り、理解しようという気持ちが私たちには必要だと思う。

~人間の尊厳とは~

“尊厳”とは「尊く厳かで、侵しがたいこと」と広辞苑に記されている。これを踏まえると、「人間の尊厳=人間とは尊い存在であること」と考えることができる。つまり、尊厳が守られている状態とは「自分は価値ある人間だ」と“思える状態”であると私は考える。逆に尊厳が守られていない状態とは何か。単純に、守られている状態の逆であると考えれば、「自分は価値ある人間だ」と“思えない状態”のことである。

では、どのような時に尊厳が侵されてしまうのか、私のテーマである「視覚障害」の観点から考えてみようと思う。

障害者への支援、点字や音声信号など、特に視覚障害者への支援はかなり昔から様々なことが行われてきた。しかし、視覚障害者の全員が点字を読めるわけではなく、音声信号の設置も義務付けられていないので、その普及率もさほど高くない。ある調査によれば、視覚障害者とそうでない人の外出頻度とその距離には大きな差があるという結果も出ている。その理由には、「外を歩くのが怖い」や「慣れていないところに行くのに抵抗がある」などがあった。彼らが遠出をする際、点字ブロックの無い道や電車やバスなどの乗り降りに大きな不安を抱えてしまうことは容易に想像できる。目が見えていたなら、もっといろいろな所へ出掛けて行ったのではないかと思う。同じ人間でありながら、障害の有無によって活動を制限されてしまう現状の中、自分自身の価値を見出し、感じ続けることは難しいのではないか。つまり、尊厳が侵されてしまっているのではないかと、私は思う。

障害者が本当に求めている支援を私たちは考えていかなければならない。

人間の尊厳

人間の尊厳私が人間の尊厳はなんであろうか、と考えた時、一番はじめに思い浮かんだことは、誰もが平等にもっている人間らしく生きること、であった。それはいつどんな時も存在するもので、周りから影響を受けないものである。人によって価値の大きさが異なったり、時や場所によって変化するものではない。

私は今まで人間の尊厳のことを考えながら生きてきたことはなかった。きっとそれは、私はそれなりに幸せに人間らしく生きてきたからである。

人間らしさとは、朝ふとんの上で目が覚める、ごはんを食べる、お風呂に入る、学校にいくと極めて当たり前のことが当たり前にできることであると考える。

しかし、それら生活する上で人間らしい生活ができなかったり、人間らしく扱われない人たちが世の中にはたくさんいるのだ。

 

そのように、人間の尊厳が尊重されず失われてしまうのは、一体どのようなことが原因なのか考えた時、一番に貧困によるものが頭に上がった。貧困はそこから多くの人間の尊厳を奪ってしまう。経済的余裕はもちろん、衣食住、睡眠、清潔さ、、、考えたらきりがない。

貧困の度合いのばらつきはあるが、貧困によって人間らしく生きることができない人は沢山いるのだ。

そして、その中には子どものことも含まれている。もちろん子どもたちにもその権利はあるが、子どもたちの方が仕方なく自分の責任でなく、奪われてしまうことがあるのではないだろうか。

私がこどもの貧困に関連する本を読んで最も痛切に気に感じたのとは、貧困は連鎖するということだ。例えば、親に経済力がなく貧困状態であれば、子どもは生まれた時点で貧困状態がスタートラインとなってしまい、次第に他の子どもとは差がつき、将来も苦しい生活を送るというものだ。

子どもは親を選べないのは当たり前であるし、貧困家庭に子どもを育てる権利がない、ということになってもおかしな話であるとは思う。しかし、親の貧困連鎖によって、寝るところもない、食べ物もたべれない、お風呂も入れないなどの、人間の尊厳がほぼないという状態で一生過ごすかもしれない子どもたちのことを考えると、私はかわいそうで仕方が無い。幸せなこともあるだろうが、きっと辛く悲しいことの方がたくさんあるだろう。

 

このような貧困児童を減らすためには、やはり貧困の連鎖を断ち切るしか方法はないと思う。その方法を探すため、今の子どもたちはどのような貧困状態におかれているのか知るため、今後自分なりに調べ活動していきたい。

人間の尊厳・中間報告

 

ゼミのテーマが人間の尊厳ということで、私は人間の尊厳が侵されている場面を想像し、テーマをスクールカーストとした。では侵されているのではなく、保たれている状態とはどういう状態を言うのだろうか。まず今一度、尊厳というものが何なのかを確認したい。私は侵害されてはいけない絶対のものであると思う。ニュアンス的には権利や自由と似た意味になるのではないだろうか。

尊厳というものは人間にしかない。それは、あらゆる生物の中で人間にだけ理性があるからである。そして全ての人は自分の欲求を満たそうとする時、それが他人に迷惑をかけないか、傷をつけないかを事前に考える。他人に迷惑をかけている自由は自由とは言わず、尊厳を侵している。その人は人の尊厳を侵していることになる。このことから尊厳が保たれている状態を想像すると、他人に迷惑をかけず、傷をつけることなく自分の欲求が満たされている状態のことを言うのではないだろうか。

 

次に前回の書き込みでスクールカーストの順位を決定づける要因としてコミュニケーション能力が重要であると書いたと思う。論文や本を読み、さらにわかったことがあるのでここに書き込んでいきたい。私は森口朗著の「いじめの構造」(新潮新書)という本を読んだ。少し話がずれてしまうが。この本の中ではいじめというものを類型化している。

 

・  タイプⅠ 集団のモラルが混乱・低下している状況(アノミー的状況)で起こる

・  タイプⅡ 何らかの社会的な偏見や差別に根ざすもので、基本的には異質性排除の論理で展開する

・  タイプⅢ 一定の持続性をもった閉じた集団の中で起きる。(いじめの被害者は集団の構成員)

・  タイプⅣ 特定の個人や集団が何らかの接点をもつ個人に繰り返し暴力を加えたり恐喝の対照とする。(理念型藤田モデル P35)

 

著者はさらにこの藤田モデルにスクールカーストの概念を取り入れ図のみであるが「修正藤田モデル」を紹介している。この図によってスクールカーストの高低によってタイプごとにいじめの被害者になりやすい人、加害者になる人を見分けることができる。

 

スクールカーストに話は戻り、「まず子供達は学校に入学した時やクラス分けの時に、クラスの人のコミュニケーション能力や運動能力、容姿等を測りながら1〜2ヶ月は自分のポジションを探る。」(P44)子供達は無意識にこのことを行い、ポジション取りに成功したものは1年間、いじめに遭うリスクを最小限にすることができ、成功しなかったものはハイリスクな1年間を過ごすことになる。ここでコミュニケーション能力の話になるが、コミュニケーション能力とは具体的に何をそう呼ぶのだろうか。改めて考えてみるととても意味が曖昧な言葉である。そこで著者はコミュニケーション能力を3つに分類した。(P44)

・  自己主張力 集団の中で自己主張する力

・  共感力 他者と相互に共感する力

・  同調力 クラスのノリに同調し、場合によっては空気を作っていく力

 

この3つの総合力(自己主張能力+共感力+同調力=コミュニケーション能力)を主因としてスクールカーストが決定される。さらに著者はこの3つの能力の高低によって占めがちなポジションを図で表している。例えば、全ての能力が高い人は皆から認められるリーダーとなり、カーストの地位は最高ランクとされ、おそらくいじめの被害者にも加害者にもならないであろう。自己主張力と同調力が高く、共感力が低い人がいたとすれば、この人もランクは高いが、周囲はこの人に対して自分勝手な印象を持ち、さらにいじめの加害者になる可能性が大となる。ここで注意したいのはスクールカーストが上位の人が必ずしもいじめの加害者にならないということである。

スクールカーストにおいてコミュニケーション能力が重要であるということは言われていたが、どうしてコミュニケーション能力が重要であるのか、またコミュニケーション能力という曖昧なものを分類化した森口氏の研究はとても大きな意味があったと思う。