これまでの経過と改めて人間の尊厳とは何か

私の考える人間の尊厳とは、人が何か考えを発する権利や、その発言によって傷つけられない権利である。それは、誹謗中傷や、反社会的な発言が行われたときに、その対象となった人の人間の尊厳が犯されていると考える。

私はネット右翼という言葉を知らないどころか、2チャンネル自体にも検索で引っかかった時にしか立ち寄らない程度であり、このテーマについてほとんどゼロの状態から始めたために、まずは、ネット右翼とはどのようなものなのか、というところから始めた。だが、ネット右翼と検索にかけてみても、ネット上で右翼的な発言をする人としか出ず、最初からつまずいた。しかし、ちょうど、STAP細胞問題や、従軍慰安婦問題、集団的自衛権の問題などといったネット右翼たちが食いつきそうな問題がでできたため、それに対しての投稿を集めてみた。すると、普通、面と向かっては言えないような過激な発言や、非人道的な発言が多々載っており、根拠なしにただ批判したものや、右翼の思想と絡めた発言ばかりで、正直驚いた。こうしてネトウヨの存在について知ることができたので、次は特徴を調べた。すると、民主党が嫌い、中国韓国が嫌い、在日が嫌いなどと載っており、また、社会的地位が低い、経済力は低収入、対人関係は不得意であるとあった。だが、後者の社会的地位や、経済力、対人関係についてはネトウヨたちの活動を見たところあまり共感できず、なぜなのかと疑問に思った。そこででてきたのが、古谷経衡さん(評論家、著述家)である。古谷経衡さんの書いた、「ネット右翼の逆襲」という本では、独自にネトウヨと思われる人1000人にネット上で独自にアンケートを取ったところ、学歴、収入ともに、平均並み、もしくは平均を上回るくらいで、恋愛経験も並みであるという見解を示した内容が書いてあった。なので、そのような考えはメディアの誤った表現や、「電車男」のような映画にも表れているように、私たちの勝手なイメージから生まれてきてしまったものではないかというように思えた。そして、その本に、今まで検索しても出てこなかった、ネトウヨ的発言の多い掲示板サイトが載っており、そこで改めてネット右翼たちの発言を見た。やはり予想通りで、在日に対する批判をはじめとした痛烈な批判ばかりで、あった。

こうして調べていくうちに、最初は、「なぜこんな発言ができるのだろうか」という疑問だったが、「こうやって発言できるのはネット上であり、相手が見えないからであろうか。実生活とは違うネット上の自分を演じているのだろうか。また、本当に本心で言っているのだろうか」という風に変わった。なので、先生に指摘されたように、演じているその人にとっての尊厳とは何かということもこれから考えていきたいと思う。

人間らしい、人間の尊厳って何?

人間の尊厳とは「どんな人も持っている、人として尊敬されかつ守られるべきもの」であると考える。これは年齢や性別、病気の有無に関わらずすべての人が持っているものである。
まず、「人間らしくある」ということはどのようなことなのだろうか。
ここで日本国憲法第十一条をみてみると「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」と規定されている。つまり、調べてみると「人間が人間らしい生活をするうえで、生まれながらにしてもっている権利」と書かれている。このことから、人間の尊厳と基本的人権を尊重することは似ているものであると言うことができるのではないだろうか。
私たちは働くことによって収入を得ている。その得た収入があるからこそ、住む場所があり、食事をすることができ、睡眠をとることができる。また洋服を着たり、生活用品を買うこともできている。つまり「人間らしくある」ということは「生きていくために必要な食事・睡眠が十分に行え、生活できることである」と言うことができるのではないだろうか。残念ながら「生きていくために必要な食事・睡眠が十分に行え、生活していく」には食材や生活用品の購入などによりお金が必要になってしまう。職を得て十分なお金を稼いでいる人にとってみれば、このようなことは大きなことに感じないかもしれない。しかし、現実には働くことができず、家がなかったり、十分な食事がとれなくて苦しんでいる人がいる。親から十分な食事をもらえずお腹を空かしている子どもがいる。果たしてこのような苦しい思いを抱えた人々は人間らしい生活を送っていると言えるのだろうか。「人間らしく」生きていくためにはお金が必要であり、そのお金を得る代わりに働かなければならないのである。この「生きていくために必要な食事・睡眠が十分に行え、生活できることである」人間らしさというものは最低限の条件であり、「年齢や人種、性格や見た目で傷つけられたり、差別されたりしないこと」と「誰もが1人の人として存在していることを否定されない(尊敬される)」という1人1人の人間を守る見えないルールが組み合わせられることで人間の尊厳が守られていると言えるのではないだろうか。

では、ここで私の調べているテーマである「学校現場で教師が子供に不快に思うようなことや傷ついてしまうようなことを行うことは、子供の尊厳が侵されている」ということを関連させながら考えていきたい。
学校は子供に社会で生きていくために必要な力(学力・団結力・リーダーシップなど)を身に付ける場である。だからこそ教師は子供を「教育」しなければいけない。このようなことから教師は、子どもが誤ったことを行った場合には叱り、正しいことを教えてあげなければならない。このような教師と生徒という関係には必ず教師が「上」で生徒が「下」という上下関係が存在する。この構造を利用して教師は子供の尊厳を侵してしまうことがある。

まず、「叱る」という行為に関して、生徒は子供という前に1人の人間である。だからこそ、人として尊厳されなければならない。教師は敬意をもって叱ることが必要であるだろう。次に「教師と生徒」という上下関係を利用することである。最近では教師によるセクハラや体罰が多く問題となっている。子供からしてみれば、様々なことを教えてくれる人生の先輩からのセクハラや体罰はショックなことであろう。
私は小学校から高校までの担任の先生や部活動の顧問の先生にあこがれて、教師になることを目指すようになった。また、先生に怒られたことは今でも忘れることはできなく、今でも気を付けるようにしている。
このように、子供にとってみれば教師は「一日の大半を一緒に過ごす大人」であり子供への影響力は良くも悪くもとても大きいものである。だからこそ、教師は子供との接し方を考えなければならない。子供の成長のカギを握るのは親だけでなく教師も同じである。実際に学校現場を見てみると、子供が1人の人間であるという前提を考慮せず、教師と子供の上下関係を利用して叱る姿を目にすることがある。
先にも述べたように、人間らしく生き、尊厳されるということは年齢や人種などに関わらずすべての人に平等に与えられているものである。私たちは目先の年齢や学歴などの上下関係にとらわれがちであるが、その前提に誰しもが守られるべきルールがあることを忘れてはならない。

*参考URL
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S21/S21KE000.html
http://gakusyu.shizuoka-c.ed.jp/shakai/seiji/01_3_3_kihonnteki.htm

アスペルガー症候群といじめ

訪問先のフリースクールに今後のご協力のお願いとご意見・実態をうかがいました。

 

その際に、私の研究テーマでもある「いじめ」は「アスペルガー症候群」の子が受けやすいというお話を聞き、

 

いじめとアスペルガー症候群の関連を調べてみました。

 

 

アスペルガー症候群とは、自閉症のタイプの1つです。

アスペルガー症候群であるかどうかの診断は

①他の人との社会的関係をもつこと

(他の人と一緒にいるときに、どのように振る舞うべきか)

②コミュニケーションをすること

(自分の思っていることを相手にどのようにして伝えるか。相手の言いたいことをどのように理解するか)

③想像力と創造性

(ふり遊び、見立て遊び、こだわり)

の3つの分野に障害をもっているかどうかでみられます。

 

アスペルガー症候群の人がいじめにあいやすい理由はその特徴にあると考えられます。

アスペルガー症候群の人は人の中で浮いてしまうことが多いのです。

 

たとえば、思ったことをそのまま相手に伝えてしまうこと。その言葉で相手が傷つくとはなかなか考えに至らないのです。悪意はありません。

 

また、同年齢のこどもと波長も合いにくいのです。年長のこどもにリードされたり、年少のこどものリーダーとなったりして遊ぶことを好み、自分の思い通りにならなければかんしゃくをおこしてしまいがちです。

 

相手に理解してもらおうとする話し方ではなく、自分の関心があることを一方的に話してしまう傾向もあります。

 

また、言葉のキャッチボール(コミュニケーション)をすることも苦手です。

言葉をなげたり、受け取ったりすることができないのではなく、楽しむことが苦手なのです。

そういったときに、周囲に「ふざけている」「やる気がない」「協調性がない」と思われがちなのです。

 

自分たちとは違いがみられるアスペルガー症候群のこどもに対して、その違いを「いじる」ことから「いじめる」ことに変わっていってしまうことが少なくないそうです。

 

また、少しからかっただけのつもりがアスペルガー症候群のこどもはいじめだと思い、激怒し過剰反応することで、そのつもりがなかったこどもたちも疑いをかけられたことを心外に思い、離れて行ってしまう。

無視してしまう。

このように状況が悪化してしまうこともあるそうです。

 

 

 

 

アスペルガー症候群のこどもが浮きにくい、いじめられにくい環境づくりも教師の仕事の一つになるということを感じました。

 

 

対策としては、

 

・予測しやすい環境をつくること。

(アスペルガー症候群のこどもは予測できないことや変化が苦手)

 

・安全で穏やかな環境をつくること。

穏やかな話し方をするように気を付けること。

(騒々しい環境が苦手)

 

・ルールや指示は明確にすること。

 

・できるだけポジティブに接すること。

 

・こどものこだわり、関心ごとは矯正するより何かに生かす方向で考えること。

 

・試すような行動をされても冷静に対応すること。

 

が考えられます。

 

 

 

引用・参考

 

東京都自閉症協会 http://www.autism.jp/knowledge/whatisas/web-j.html

人間の尊厳とは

人間の尊厳とは何か、そのことを考える上で代表されるのはハンナ・アレントの“人間の条件”だ。
仕事・労働・活動の中で、マルクスが最も“労働”をメインとした“マルクス主義”をハンナは批判し、三つの基本的な人間の活動力(仕事・労働・活動)の中で、唯一人間的なものは“活動”であると述べた。
なぜなら、仕事・労働は生命維持と密接に関係しているので、人間だけでなく他の生物も共通して行っているのに対し、活動は多様性に富んでいて直接的には生命維持とかかわらないので、より人間的な行動だからだ。
このようにハンナが述べた人間の条件を、太田先生は「多様性かつ平等で個人を表現できること」と要約した。

このことから、人間の尊厳は、憲法二十五条の生存権
“すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。”
よりも、憲法十一条
“国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。”
憲法十三条
“すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。”
といった基本的人権の尊重と重なると考える。
よって、店員の“人間の尊厳”が保たれている状態とは、店員である前に一人の人間であるので客と店員の立場関係が平等であり、「郷に入っては郷に従え」ではないが客が店側の行動やきまりを尊重できることだと考える。
だからこそ、横柄な態度は“平等さ”を欠き、自分の価値観を押し付けるような理不尽な要求は“多様性”を認めていないという点で“人間の尊厳”を侵しているのだ。

これまでのことを踏まえて、これからは「クレームと苦情の違い」や「どのようなクレームがあったか」、「客と店員の立場関係の認識」などをアンケートから読み取っていきたい。

人間の尊厳とは

 人間の尊厳について考える際に、人間的であることの条件について考え、その条件が揃っていることが、人間の尊厳が保たれていることであるとした。人間的であることの条件とは、ある人が、考えたり、行動したりしても否定されることなく受け入れられる状況にあることが考えられた。
 実際の場面で考えてみると、その人の存在が無視されているような状態や、その状況により、自分の存在に自信が持てないことが起きていれば人間の尊厳が保たれているとは考えられない。
 人間の尊厳が保たれていない状況として、私が今まで通ってきた学校で見てみると不登校となる気持ちになることがあると考えた。例えば、いじめなどにより学校に行きたくても学校に行くことができない状況にあることや不登校になって地域など世間的に非難されることにより持つ自己を否定する気持ちが人間的に生きられていないと考える。
 不登校のきっかけとなる状況には様々なものが考えられる。文部科学省の不登校の調査の項目には、いじめ、いじめを除く友人関係をめぐる問題、教職員との関係をめぐる問題、学業の不振、進路にかかる不安、クラブ活動・部活動等への不適応、学校のきまり等をめぐる問題、入学・転編入学・進級時の不適応など学校に関わることとして挙げられている。また、家庭にかかわることとして、家庭の生活環境の急激な変化、親子関係をめぐる問題、家庭内の不和があり、本人にかかわることとして、病気による欠席、あそび・非行、無気力、不安などの情緒混乱、意図的な拒否が挙げられている。
不登校のきっかけの中でも、いじめや学業の不振、不安や不適応によるものは、自己に自信が持てないことやある人が受け入れられていない状況にあることが考えられる。その他に、意図的な拒否というものは、自ら選択して学校に行かないことをしている場合は人間の尊厳が侵されている状況ではないと考える。
 学校に通っていることで人間的な側面が否定され、学校へ行って学ぶことや、それ以外の活動のためのエネルギーが奪われてしまうことは起きてはならないことだと考える。人間の尊厳が保たれるために、学校での支援のあり方や、どのような制度があるか、家族間の関わり方をまとめていきたい。

人間の尊厳とは

「人間の尊厳」を考えた時、まずは「侵してはならない領域」だと考えました。人にはひとりひとり個性や人格がある。それは自分で形成していくものであり、手に入れていくものであり、他人に侵されていい領域ではない。当たり前のことではあるが人の人生は一度きりしかなく、その人生は紛れもなくその人のものだ。誰によって侵されてしまうのか?それはやはり他人であると考えました。
例えば学校でのいじめ、暴力、暴言などで自分の人格や個性を否定されることは、その人の尊厳を侵しているということではないだろうか。
生きていく上で、ひとりで生きていくことは不可能だ。誰しもが不特定多数の集団の中で生きていく。それが小さくても大きくても、周りに人がいるという状況は皆同じだろう。
その中でひとりひとりが自分らしく生きていくためには、互いに尊重し合い生きていくことが大切だと考えた。人の言葉ひとつで立ち直れないほどの傷を負うこともあれば、傷を負ったまま自分の命を終わらせてしまう人もいる。他人の影響力と言うのはそれほど大きいものなのだろう。
その不特定多数の中で自分の人格や個性をもち、自分らしく生きていくことが自分自身の尊厳をを保っている状態なのではないだろうか。

自分らしく生きる=自由奔放に生きる、好き勝手生きる、とは違う。それは逆に他人の尊厳を侵している状況になるかもしれないからだ。誰の尊厳も侵さずして、自分の尊厳を保つ。それが理想の形なのだと思う。

学校という場は誰もが通る道であり、人が人を「教育」する場として非常に貴重な時間であると思う。そこで享受したことを抱えながら子供は大人になる。大人に比べて子供はより吸収し身につけてしまう。その中で教師の発言によって子供の尊厳が侵されるということは多いのではないかと思う。実際にそういった場面はあるのか、どんな発言が影響を及ぼすかということを自分が教師を目指すにあたって、この研究を通して学びたいと思っています。

『健康』であることのありがたさを知るために

一言で『人間の尊厳』と言われてもなかなかピンとくる人はいないのではないか。私も最初はそうだった。このゼミのテーマが『人間の尊厳』だと言われた時に真っ先に思い浮かんだのは日本国憲法の基本的人権の尊重くらいである。それによると、基本的人権は「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」によって確立されたものであり、「侵すことのできない永久の権利」と謳われている。このことを頭に思い浮かべながら日常生活を営んでいる人が果たしてどれくらいいるだろうか。一人もいないだろう。何故なら私たちは普通に生活をしている分にはある程度幸せな生活を送れているからである。意識せずとも安全な生活は保障されているのである。つまり、主観的に『人間の尊厳』を考えるとなかなか難しいものがある。これは体調を崩した時に初めて健康であることのありがたみを感じる心理と似ているのではないか。
では、客観的に考えてみたらどうだろうか。つまり、体調を崩している人にとっての健康を考えるのと同様に、『人間の尊厳』が侵されているだろう人から見た『基本的人権』を考えることで、私は再度『人間の尊厳』とは何かを考察してみたいと思う。ここではできるだけ身近なケースを考えてみることにする。学校内におけるいじめ問題、障碍を持つ人達の暮らし、虐待を受けた子ども…。これらは割とすぐに思いついた。自分から見て日常生活に支障をきたしているだろう人を思い浮かべればいいからである。(障碍を持つ方からするとその生活が普通であって、何の負担も無いという主張が挙がるかもしれないが、これはあくまでも私からの視点なので悪しからず。)
中でも私は虐待を受けた子どもに焦点を当てて調べている。虐待を受けた子どもは親やその周囲の大人からの直接的な暴力や暴言などによって本来の子どもらしさというものが出せずに幼少期を過ごし、その後の発達段階で身体的・心理的に支障をきたしてしまうということがわかっている。また、親子間の愛着形成が不十分であったために人との接し方がわからない、コミュニケーション能力の欠如した人格が形成されてしまう。子どもでありながら子どもとして過ごすことを他者によって阻害された子どもは『子どもの尊厳』を得られずして大人になってしまう。そして大人になった時には一般的な人間の持つ常識的な振る舞いや、良好な対人関係などを築けなかった結果として世間では健康な人から『体調不良者』として見られてしまいかねない。これは明らかに『人間の尊厳』を冒されていると言えるだろう。
以上より『人間の尊厳』とは『健康』であることに近いものがあり、それを得られない時に初めて考えられるものなのだと私は思う。私達健常者は客観的に『人間の尊厳』を冒されている人について調べ、その人に降りかかる様々な障害を理解し、今度はその当事者の立場になって考える事で初めて『人間の尊厳』のありがたみを知る事が出来るのではないか。

人間の尊厳とは

人間の尊厳とはどのようなものであるか、と考えたときに私は孤独に苦しむ表情をした人たちの顔が思い浮かんだ。周りの人を頼ることができずに一人でひきこもる人、いつも行動を共にする人はいるが心が通じ合った感覚がなく寂しい表情をする子、自己表現ができずに他人に生かされていると感じる人、社会から冷たい視線を向けられる人。その人が他人から尊い人と認められない「孤独」は人間の尊厳を侵している状態だと思う。そして孤独について考えてみると、意外と身近なものである。

では、なぜ孤独を感じて生きていくことはいけないのか。人は赤ん坊の頃は身近な大人たちの世話なしでは衣食住を行うことができなかったり、つらいことを感じた時に心の支えとなる人がいなければどんどんストレスを感じていき精神的にまいってしまったり、生活するのに自給自足でない世の中(食べ物や日用品を購入することや電気を得るなど)であったり、一人で生きこうとしても絶対に無理で、この事実は人間が誕生した時からすっと続いている。生きることは人間関係があるからこそ成り立つ以上、人間関係をおろそかにすることができない。たまに他人と生活することにつらさを感じる人もいるが常に一人で生きていくことはだんだん寂しさを覚えていくだろう。

よって孤独を感じている生活は、人間の尊厳が侵されている状態だと考える。そこで、孤独を最も感じる機会としていじめをあげ、私のゼミのテーマとして選んだ。
いじめを受けている人は、いじめている周辺の人は自分を低く評価したり怖いと思ったり、仲間から裏切られたときの悲しさだったり、ひとりで戦っていると思うことが多い。特に学校でのいじめは、生涯の人間関係のもととなることや人格形成につながるため、より良好な関係を築くことが求められる。いじめを受け、人を信じる怖さを感じ独りで生きることを選んでしまったら、周りの人たちが手助けできることができにくくなってしまい、さらに孤独を感じてしまうだろう。

しかし先生や家庭や別の友人など自分を受け入れてくれる人がいる、と思うことができれば心理的負担は軽くなるし、自分を受け止めてくれる温かい場所があることを認識すれば、より関係を深められる。いじめがないことに越したことはないが、いじめを受けたときのサポートの仕方がいじめを受けた人にとっていじめを解決しようとしたりいじめと闘おうとしたり、孤独から逃れる行動をとったりしていき、少しずつ前に進むことがしやすくなるだろう。その過程で人間としての成長ができるかどうかにつながってくることもあるかもしれない。つまり、自分を受け入れてくれる存在は、孤独から逃れるのに重要な役割を果たしている。

全ての人が孤独を感じないような良好な人間関係を築き、幸せに生きていくことを願う。

ネット人格・ネトウヨ・人間の尊厳

 今回はおささんのネット上の意見をめぐる研究に関してのコメントです。(内容が他に比較して硬いので、である調になりました。)

 私は、20年くらい前、まだインターネットが普及する前のパソコン通信の時代に、激しい議論をする電子会議室の責任者を務めたことがある。あらゆる問題を思想的に扱う電子会議室だから、けんか状態などもかなり頻繁におきた。ある意味歴史に残るようなこともあったが、そこでは実にたくさんの貴重な議論を経験した。今でもネット上の表現の自由と管理のあり方については、そのとき私たちが残した議論と結論が、大きな影響力をもっていると考えている。
 そういう議論の中で、ネット上で展開される発言と現実に生活する人間の関係についての議論はとても重要なものだった。ネット上の発言はその発言が表す人格があるが、それを現実に存在する人格と統合的に理解すべきであるという見解と、それは別ものと理解すべきであるという見解が対立した。もちろん、単純にいうことはできず、実際にネット上で発言している人の意識によっても異なるきのであるが、そこでの議論の主流は、ネット上の発言の人格は、リアルな世界での人格とは別ものであると理解しなければならいというものだった。つまり、現実に生活している人格がネット上の意見を書いていることは、もちろん否定できないが、意図的にネット上では異なる人格を展開することが可能であり、実際にそうしている人も少なくない。極端にいえば、ネット上で異なる人格を前提にした発言を使いわけることも可能であるという見解が、そこで支配的だったのである。
 このことの派生効果もいろいろとあるが、基本的に、ネット上での振る舞いを、現実生活の振る舞いの反映である、あるいは、現実生活での人柄が、ネット上にも現れていると考えるべきではないということは、その後インターネットが現れ、とくに2チャンネルなどが大きく展開するようになって、より適切な見方であることが表明されたと思う。
 これは、ネトウヨの存在を考える上でとても重要な観点だろう。
 つまり、ネトウヨといわれる人たちは、ネット上だけで演じている人格である可能性が否定できないということだ。実際には、かなり合理的で、温和な人物であるが、ネット上であえて、極めて右翼的な、暴言を書き込んでいるということだ。もちろん、そうではなく、実生活でも右翼的である人もいるだろう。
 さらに、多くのネトウヨが存在している2チャンネルでは、ひとつのネームで書き込みをするのではなく、多くの人が使う「匿名」などの表示が多い。これでは、「人格」そのものが拡散してしまうことになる。先の電子会議室では、いかに実際の人格と異なる言動を示していても、常に同一のハンドルネームを使用することで、まとまった人格を想定することができた。しかし、2チャンネルでは、多くの投稿者は区別できないので、より過激な発言となる傾向があるように思われる。だから、ネトウヨとは、一人一人のネット上の書き込み者ではなく、書き込み者総体の特質であるという側面もあるかも知れない。もちろん、書き込みに番号はつくので、対応関係はある。しかし、同一の人物の特定は極めて困難である。
 話は別の側面になるが、誰でも、局面によって、あるいは相手によって、接し方や話し方を変えることがある。あまりにそれが違うと、批判されることもあるが、本来、人間には、今の自分と全く違う自分になりたいという欲求があるのではなかろうか。2チャンネルのような場所は、そうした「場」を提供しやすい特質をもっており、さらに、「匿名」が個人の実人物を隠すだけではなく、それぞれの書き込み者そのものの区別を捨象してしまう。だから、それぞれが普段いわないようなことをいいだし、それが全体として過激な書き込みになっていく傾向があるとも考えられる。だから、ネトウヨというのを、そこに参加している一人一人の書き込み者ではなく、その場全体の雰囲気として形成される特質とも考えられるのである。

 かなり勝手なことを書いてしまいましたが、完全に的外れというものでもないような気がしているので、参考にしてください。
 なお「人格」を取り替えつつ、別人格を演じたいという欲求を、病的な形で表現した有名な「ジキル博士とハイド氏」はぜひ読んでおくといいでしょう。

 上の文章では、人間の尊厳については、ほとんど触れていませんが、実生活の人格と、ネット上の人格がまったく異なるように、分裂した自分を演じているとすれば、その人にとっての「人間=自分」とは何々か、その人間的誇り、尊厳は、どうなるのか、という形で考えてみましょう。

人間の尊厳とは

尊厳とは、「とおとく おごそかなこと。気高く犯しがたいこと」という意味である。人間にとって気高く犯しがたいこととはなんなのだろうか。それは、その人の人格であると私は考える。人格は一人ひとり違っていて、それを否定されるということはあってはならないことだ。お互いの人格を認め、尊重しあうことで人間らしい集団生活ができるのだと思う。また、人間の尊厳が守られているということは、その人がその人らしく生きているということだ。しかし、今の社会ではありのままの自分を出せずに不便を感じながら生活をしている人も多くいるだろう。このように、人間の尊厳が侵されている場合について考えていきたい。

まず最初に思い浮かんだのが障害者についてである。障害を持っている人は、日常生活でさまざまな困難と立ち向かわなければならない。また、周りからの差別や偏見とも闘わなければならないこともある。このように、障害を持つ人たちは、健常者はなにも不便を感じない場面でもたくさんの苦労をすることが多くある。障害者をもつ子どもたちは特別支援学校で学ぶことができる。軽度の障害の場合などは、普通学校で健常児と一緒に授業を受けたり、特別支援学級で学んだりする。私は、普通学級で学んでいる軽度の障害を持った子に焦点を合わせて「人間の尊厳」について考えていきたいと思った。数ある障害の中でも私はLD(学習障害)について調べている。LDは基本的に全般的な知的発達に遅れはないが、聞く、読む、話す、計算する、推測する能力のうち特定のものの使用に著しい困難を示す状態を指すものである。学習障害は、この特定の能力以外はほとんど健常者と同じくらいの能力がある。だから、障害であると気づきにくいときもある。LDであると気づいた場合でも、気づかなかった場合でも、その子にとっては授業を受けていてもそれは理解できないもので、自分だけ周りから取り残されていると感じるのではないだろうか。周りの子は理解が速くてどんどん進んでいくのに自分だけ授業に参加できなかったら学校に行きたくないと思ってしまうのではないか。どんな子にも教育は受けさせなければならない。その教育は適切なものでなくてはならないと考える。もしLDの子に配慮せずに授業を進めていってしまったら、その子は将来ずっと自分の苦手な分野に向き合えないのではなか。苦手な分野に向き合うことで自分を理解し、この分野が苦手だから違ったところで自分を活かしていこうと考えられるようになれると思う。自分のことを知って、相手にもわかってもらうことで人間の尊厳は確立される。そうするために、LDの子、また、それ以外の障害を持った生徒に対する支援がとても重要になる。支援をするためには周りの理解が必要だ。この障害がどんな障害なのかをまずまわりの大人たちが理解し、指導に当たらなければならない。

人間の尊厳が守られている状態とは最初に述べたようにその人がその人らしく生きていけるということだ。障害があったとしても、そのことを自分らしさと受け入れること、また周りも障害を理解して支えていくことで、人間の尊厳は守られると考える。そのためにはどのような教育、支援をしていくかが今後重要になる。