卒業生インタビュー1-2 宮地さつきさん(法政大学)

スクール・ソーシャル・ワーカーとして勤務 さまざまな子どもの問題と格闘

-いよいよ就職をしたわけですが、就職の形はどうだったんですか。

宮 最初は非常勤で県からの派遣という形です。

-公務員ですか?

宮 準公務員といった形になります。カウンセラーと一緒ですね、ポジション的には。最初は2つの市をかけもちして、年間でそれぞれ何日という枠組みの中での活動でした。

DSC07208-2
-学校をあちこち廻っていたわけですか。

宮 私はたまたまどちらの市でも、担当の学区を任されていましたが、当時の教育委員会としても指導主事としても、スクールソーシャルワーカーが何をする仕事なのかよくわかってはいませんでした。それは、私が配置された市だけではなく、きっと全国的にそのような状態の中で始まったのだと思います。7年前なので今以上に未知の領域でしたから、当たり前ですよね。そんな中でよく雇っていただいたなと感謝しています。

-県に席があったのですか。

宮 初年度は、県でも市でもなく、どちらの市も、中学校に席がありました。2年目は、1つの市にしぼられたこと、2つの中学校区を担当することになったので、市の教育委員会に席がありました。

-席というのは、文字通り

宮 デスク、パソコン、ロッカーがある、ということです。

-ずいぶん変わった?

宮 変わりましたね。でも当初は、教育委員会でも何をしているかわからない存在でした。でも、その活動を少しずつ理解していただけるようになっていきました。一年目は国の十分の十の事業だったけど、2年目は3分の1の補助になって、県としては、福祉関係の有資格者だけ残すことになりました。当時、資格保有者は私と、あとはベテランの方でした。その他は、市町村の単独で活動を継続できるところは残り、難しいところはなくなっていきました。
3年目には県の事業としてもなくなってしまいました。しかし、本宮市としては、残したいということで、3年目の夏に、正規職員になるために公務員試験受けたんです。10月採用という形で入庁し、その半年後に東日本大震災・福島第一原発事故があったんです。

-それからは、正規の公務員ですね。どのような活動をしていたのでしょうか。

宮 身分が保障されると活動の幅が違ってきました。ひとつは、協力頂ける社会資源の多さです。私は初年度から、夏休みを大事にしたいと思っていました。子どもたちは自由でいいんですけど、夏休みをどう過ごすかで、2学期以降が違ってきます。初め不登校対応だったんですね。カウンセラーが週1回で、残りの日対応してくれればいい。そうじゃないよなと思っていながら、私もうまく言葉で説明できない状況で、行動で示していくしかないと思って、夏休みに先生方と協議して、不登校の子どもたちと関わる時間をとらしてほしいと頼みました。本来勤務時間ではなかったんですけど、他の月から一日ずつくらい勤務日をもらって、何日か夏休み中に活動できるようにしていただきました。家庭訪問もしたし、学校でも家庭科の先生に協力していただいて、調理教室などやりながら、ひきこもっている子どもを巻き込こんでいこうと考えたのです。それをきっかけに、毎年夏休みに活動するようになっていって、市の職員になったあとは、市内全部の小学校、中学校にもまわるようになって、不登校、特別支援の子、支援学級の子、家庭的に難しい、遠出ができない子ども、両親共働きで、遊びにつれていきたくてもなかなか時間が取れず充実した夏休みの想い出がつくれない子どもたちなど、さまざまなニーズを持った子ども達を含めて20名から30名弱集めて、プログラム組んで、毎年やっていました。地域の方々に講師としてきていただいて、調理教室とか、スポーツとか、いろんなことを教えていただく。最終的に、子どもたちが、親御さんや先生方を招いて、ランチをして、2学期もお願いしますという一連のプロセスをしていたんです。最初は、保護者の方も預けることに心配されていたと思います。でも、参加してみると、子どもたちが、いきいきして、今日の活動を家で話してくれる。一人では宿題がはかどらない子も、他の子と張り合うように学習に取り組むことで、早々に宿題が終わる子もたくさんいました。また、毎回朝10時から始まるのですが、時間に遅れないように生活リズムを自ら整えて参加し、その流れのまま2学期につなげていくこともできます。さらに、高学年や中学校になると、部活とか、合唱コンクールとか、子ども達も忙しくなりますが、なにを優先するのか子どもたちと話すきっかけになった、と保護者が教えてくださったこともありました。このプログラムが、子ども達の力を引き出す手助けにはなったのかな、と嬉しく思いました。

-引きこもりの子どもが、引きこもりから世の中に出てきた?

宮 もちろん、実際に関わっていた期間の中だけでなく、卒業後に出逢った方々にも支えられたことも大きかったと思いますが、卒業後にわざわざ役所に来てくれて、「修学旅行に行けるようにたくさん後押ししてくれたのに行けなくて申し訳なかった、ずっとひっかかっていた」という話をくれて、立派に前向きになっている姿をみて、うれしかったです。また、その子は、成人式にも参加し、他の子どもたちとわけへだてなくやっているのを見ることができたときには、自分の存在意義を見出し、悩みや苦しいことがあってもそれを乗り越える力が一人ひとりにあることや、子どもたち一人ひとりが可能性に満ちていることを、改めて教えてもらえた気がしました。

 

地域の協力関係の構築
-今の話をきくと、ソーシャルワーカーというより、地域コーディネーターというイメージですね。ソーシャルワーカーというと、トラブルがあったときに、ひとつの関係者だとうまくいかないので、いろいろな関係者を組織して協力関係で解決する仕事のように思えるのですが。

宮 もちろん、関係者と共に問題解決にあたることも多々あります。私が活動していく中で当初から最も頼りにさせていただいた職種の1つが、保健師さんでしたし、困難な事例ほど、より多くの関係者と協力をしていかなければ、その子どもや家庭をサポートすることは困難です。市町村ごとに、要保護児童対策地域協議会があるんですが、学校と他の機関に温度差があるんです。橋渡しもするのですが、お互い多忙ということもあり、会議もなかなかできない。ケース会議などをしなければいけないんですけど。それだけでは先生方不安だし、関わっている機関が多いほど収拾がつかない。そこで、両者の間にいるスクール・ソーシャル・ワーカーが要所要所でお伺いをたてながら、学校が必要だと言ってもらえれば、調整して支援会議をしてきました。
しかし、私が当初から大事だと思ってきたことは、予防的に関わる、ということなんです。そうでないともぐらたたきになってしまう。そうではなく、リスクが高い家庭や子どもを把握しアセスメント(見立て:何に困っているのか、表面上の問題と潜在的な課題は何かを整理すること)する中で、未然にフォローするような働きかけをしていくように努力していました。

-予防的というと、日常的に連絡をとりあう会議とか、必要ですよね。

宮 各学校には、何もなくても、月一回は顔をだして、情報交換したり、気になる子どもを観察したり、必要があれば、校内でケース会議をしたり、必要ならば更に調整して関係機関も集まっての会議を開催することはありました。学校にも温度差があり、校内でできるよというところもあるし、いつでもいいから来てというところもあるので、学校の主体性を重んじる必要があります。自分たちでできるにこしたことはないので、それはそこでやっていただくようにします。ただ、アピールしないと伝わらないので、毎月、通信を出しながら、子育てのことや、福祉的な視点や制度、サービスなどを伝えていました。

-スクールカウンセラーとの協力関係のとり方とかは、どうしていましたか。

宮 それぞれのカウンセラーの持ち味や、資格取得の有無、また、学校が求めている役割などによっても違いますが、私は概ね、良好な関係を築けてきたと感じています。一番最初の中学校のときに、3日出ていたので、1日はカウンセラーと同じ勤務日にしてほしいとお願いしましたが、教頭先生からは、せっかくだから、カウンセラーが来ていない日に来てほしいと言われたのです。誰かが来ている日を多くして、相談室登校の子どもたちが1日でも多く登校できるようにしてほしいということでした。戸惑いもありましたが、スクールソーシャルワーカーはスクールカウンセラーとは異なる役割を持っていることを理解してもらうには時間がかかること、そして、それが学校のニーズなので、そこから出発しなければいけないと思いました。実践を通して、カウンセラーと私たちの役割がどう違うのかを示していかないといけないと思いました。ただ、月一回は同じ日にしてもらいました。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。