読書ノート「Z.マルカス」バルザック

 「Z.マルカス」は、バルザック全集第一巻に入っている短編小説であるが、バルザックらしい、人間の欲望とその不条理な展開がみられる興味深い作品である。
 パリの学生用の下宿屋に住んでいる私と同室のジュストと、さらにとなりの別室に住んでいるマルカスとの交流が描かれている。私は弁護士志望でジュストは医師志望なのだが、バルザックの説明では、当時のパリでは、社会的必要性の10倍以上の弁護士や医師がいるので、若者が弁護士や医師になって生活できるようになるのは、よほどのコネとか運がなければならないという、悲惨な、しかし、ある意味呑気な生活をしている。
 となりのマルカスは、ほとんど姿も見せず、声も聞かない存在だったのだが、偶然知り合いになり、マルカスのこれまでの人生を聞くことになる。その間、私がそっと部屋を覗いてわかっていたことは、マルカスはある法律の文書をコピー作りをやって、その日暮らしをしているということだった。コピーといっても、1830年前後のことだから、複写機などがあるはずもなく、すべて手書きで写すのである。
 しかし、親しくなって身の上話を聞くと、彼は極めて政治的能力のある人物で、さまざまな人、つまり既に有力であった政治家を影で助ける、いまの政策秘書のような役割をして活躍する。しかし、彼の非常な能力を恐れて、助けられている政治家たちは、彼を貶めてしまう。そうして、結局、彼は職を失い、コピーの仕事でひっそりと生きていたというわけだ。
 だが、あるとき、またその有力政治家の一人が、マルカスに助けを請いに現われ、それに応じてしばらく活動するのだが、結局、前と同じように排撃されて、戻ってくる。そして、病気になり死んでしまう。助けられた政治家たちは、誰一人葬儀などをすることもなく、僕とジュストがなけなしおお金をはたいて、共同墓地に埋葬するというところで終わる。
 これでわかるように、とにかく、政治の汚い世界が描かれるわけだ。もちろん、それはZ.マルカスという敗北者自身によって語られる内容なので、小説でもその真偽はわからない。だが、政治家が助けを請いにくること、そして、何よりも彼の雄弁な語りと豊富な知識、ふたたび貶められて舞い戻ってくることで真実であるように感じられるわけだ。フランス革命、そしてナポレオンの独裁、ロシア遠征の失敗、王政復古、7月革命と目まぐるしい変転を遂げたフランス社会だから、政治の腐敗も甚だしかったのだろうし、また、支配層の変転によって、無能な政治家たちが横行していたことも事実だろう。
 この小説を読んで思うのは、現在の日本の政治状況である。現在の日本は、バルザックがここで描いたフランスとは逆の状況といえる。政治勢力は転変というより、あまりに安定している。そのために、家柄が支配する世の中に近い。自分の能力で議員や閣僚になったわけではない世襲政治家が、政界を牛耳っている。まともな日本語を話せない4世議員の小泉進次郎などが、首相の最有力候補だった。
 政治資金をめぐる数年来のスキャンダルは、政治家の腐敗を象徴している。
 当時のフランスでは、王室が滅んだり復活していたりするわけだが、日本の皇室は、このままいけば、国民の信頼を失って滅びる可能性もあるし、また、それにたいして、国民の多くが健全な解決案を支持しているにもかかわらず、カルト的な復古主義者が、腐敗した一家を支持して、むしろ滅亡の道を突き進んでいるかのようであり、また、彼らをとりまく腐敗も著しい。皇室をめぐっては、国民の多くが常識をわきまえていることが、まだ救いとなっている。
 「Z.マルカス」は、権力をもった人間が如何に腐敗し、無能な人が有能な人を恐れるかを、痛々しいまでに描いている。
 蛇足になるが、youtubeで作家が選ぶ世界の偉大な作家と作品というのがいくつかあったが、そのなかで、バルザックの名前がまったく出てこなかったのには、正直驚いた。バルザックは、簡単には読めない作品が多いのだが、(いくつかの例外はある)しかし、プロである作家は、バルザックを高く評価しているのかと思っていたら、まったく違っていた。日本の作家はあまりバルザックを読んでいないのか、あるいは本当に低い評価をしているのか、どうなのだろう。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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