クライバーの「カルメン」の音

 カルロス・クライバーのカルメンのDVDは、カルメンの代表的な名盤のひとつだ。しかし、以前からずっと問題になっていることがある。それは、「音」である。とにかくあまりに音が酷いという評価が定着している。私自身は、そんなに酷い音だとは思っていない。あの音は、オーケストラピットのなかで聞こえるような音に近いのだ。だから、オンマイクで拾った音をそのまま記録したような音だ。私は、市民オケをやっていて、練習会場や舞台で聞こえる音に近いので、特に違和感はないのだが、あのような生の音が商品としての「録音」として登場するのは、めずらしい。
 もうひとつの不思議な現象だと思っていたのは、あの映像は、日本では最初にNHKのBSで放映されたと記憶する。私もそうだったが、VHSのテープに録画して楽しんだものだ。この放送で、クライバーの人気は日本で一気に高まった。そして、このテープは何度も見直した。そして、そのときには、非常に自然な、つまり、ウィーンフィルの録音として聞き慣れた、つまり、デッカの録音で聞き慣れた音に聞こえていた。それが、DVDの登場で、まったく違う響きがしていたので驚いたわけだ。NHKの放送を知らない人は、DVDで初めて知ったわけだから、確かに、酷い音に聞こえたに違いない。このカルメンの市販されたものは、日本ではクライバーの死後に現れたので、そのころに出ている通常の録音や録画と比較すると、とてもいい録音とは言い難いのだ。実は、NHKとDVDの間に、CSのクラシカ・ジャパンでの放映もあり、それも録画したのだが、その音は、あまり印象がないのだ。NHKに近かったような記憶があるのだが、あまり意識しなかった。とにかく、DVDが出たときにびっくりしたわけだ。どうして同じ音源のはずなのに、これほどまでに違うのか、ずっと不思議に思っていたのだが、これが最近、原因がわかった。

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youtubeと表現の自由

 最近youtubeを見ていくと、閉鎖されたと述べているのが多い。閉鎖されたというのに、何故見られるのかがよく分からないのだが、武田邦彦氏もさかんに閉鎖されたと語っている。確かに最近の武田氏のyoutubeは、顔が写っていない。しかし、声は明らかに武田氏のものだから、違うアカウントをとったということなのか。あるいは過去のものが消されたということなのか。私はyoutubeを自分ではやっていないので、詳細はわからないのだが、武田氏がさかんに表現の自由の問題として取り上げているので、疑問を呈しておきたい。
 武田氏の攻撃はふたつの対象があり、ひとつは、閉鎖したということに対して、そして、それに抗議をしていないというリベラルに対してである。私が見たときの武田氏のyoutubeは、ほとんどがリベラルに対して向けられていた。つまり、普段表現の自由を主張しているくせに、こうしたyoutubeへの弾圧に対して何も言わないのか、おかしいではないかということだ。何故、そうした批判がリベラルに対してだけ向けられ、保守派やネトウヨたちには向けられないのか、理解に苦しむところだが、それはここでは論じる対象にはしない。
 憲法で規定されている表現の自由とは何か。youtubeでの表現は、憲法の表現の自由と同じなのか、そして、武田氏の主張は妥当かを検討する。
 憲法上の表現の自由とは、当たり前のことだが、第一義的には、私人が表現することについて、国家が干渉しないということだ。干渉しないといっても、他人の権利を侵害する不法行為にあたる表現については、被害者からの訴えがあれば、裁判所が干渉することになる。

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矢内原忠雄と丸山真男18 知識人とは何か エドワード・サイードの知識人論

 矢内原忠雄論をどういう視角で書くか、ずっと模索してきた。私は、キリスト教徒でもないし、また、経済学者でもない。だから、キリスト教徒としての矢内原忠雄から、詳細に学ぼうとは思わない。もちろん、矢内原が、どんな圧力にも屈せず、信念を貫き通すことができたのは、キリスト教の信仰によるのだから、そこを無視することはできない。何かを明らかにするために、戦中リベラルである矢内原忠雄と戦後リベラルの代表的人物である丸山真男を対比することで、見えてくるものがあると考え、「矢内原忠雄と丸山真男」という文章を書いてきた。そのなかで、二人の社会状況、政治状況との関わりに大きな差異があることに気づいた。矢内原は、東大教授に就任以来、単に植民政策の研究者、そしてキリスト教徒として以外、様々な分野に意見を発してきた。矢内原全集では、『時論』というカテゴリーでまとめられた文章が多数含まれている。専門の植民政策の研究も、時の植民地政策の批判的研究である。だから、現実の政府の政策に対する批判が柱となっている。

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35人学級が実現しそうだが

 教育界全体の願いといってもいいだろう、少人数学級に一歩前進したようだ。文科省の30人学級の予算要求に対して、難色を示していた財務省が、35人学級で折り合ったということだ。誤解している人も多いが、文科省は、その熱意はさておき、学級定員を減らすことについては、これまでも財務省と交渉しており、予算の関係で、大蔵省・財務省がずっとそれを拒否してきたわけだ。ずっとというのは、多少言い過ぎで、現在小学校1年生だけは、35人学級になっている。もちろん、このときも、文科省は、1年生だけでよいといっていたわけではなく、また、財務省も全学年の35人学級を認めたような報道がされたが、結局1年生だけになってしまった。しかも、決定したのが、かなり遅く、既に学級編成をしたあとだったので、学級編成を変える必要がたくさんでてきて、大変だった地域もある。 

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DH制度の導入の議論

 巨人がセリーグでもDH制度を導入しようと提案したのだが、セリーグのオーナー会議で否決されたそうだ。まず感じるのが、巨人のセリーグにおける地位がずいぶんと低下したものだという点だ。以前なら、巨人の提案に、他球団がこぞって反対するなどということは、考えられなかったと思う。先の日本シリーズで、巨人の主催ゲームでもDH制度を採用したことが、非常に変だと思っていたのだが、要するに、原監督は、DH制度導入を考えていたということだったようだ。
 これまで、リーグ全体に関わるような改革に対して、巨人は非常に消極的だという印象だった。DH制度にしろ、クライマックス・シリーズ、そしてセパ交流戦にしろ、パリーグが熱心であった。特に巨人は冷淡で、要するに、交流戦などは、巨人人気にあやかろうとしているだけだとか、DH制度などは、野球の基本に反するなどという、非常に保守的、あるいは、現状にあぐらをかくような対応だったのである。しかし、いつか、気がついてみたら、実力はおろか、人気の点でもパリーグのほうが上だったというのが、現在のプロ野球の実態になっていた。さすがに、これではいけないと考えての、DH制度の提案だったのだろう。確かに、いきなり提案されて、すぐに賛成するのは難しいだろう。特に、巨人が2年間8連敗でシリーズに敗れての提案だから、負け惜しみと取られても仕方ない。しかし、様々な集団スポーツが、分業体制になっていく傾向ははっきりしている。例えば、バレーボールのリベロなどがそうだ。以前は、6人制バレーボールは、文字通り6人でやるものであり、すべての選手が、守りと攻撃をするものだという前提だったが、リベロの導入は、分業の現れである。

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Eテレ売却騒動

 youtubeの高橋洋一チャンネルで、Eテレ売却論を見たとき、面白い発想だと思った。(実は、雑誌に寄稿した内容をyoutube でも流したようだ。)高橋洋一氏の考えに、すべて賛成できるわけではないが、この案は賛成できると思っていた。ところが、その後、この売却論に大きな反対意見があること、そして大論争になっているらしいことを知った。
 批判の多くは、Eテレこそ、NHKらしい番組を多く放映しており、それをなくしたら、NHKではなくなってしまう、という番組擁護論だった。しかし、高橋氏は、Eテレの内容が悪いから廃止せよとは、一言もいっておらず、電波帯を売却すれば、NHKの受信料を下げられるというだけだった。よい番組は、ネットで流せばよいという。したがって、Eテレの番組を守れ的な批判は、ほとんど取り上げる価値がないものだろう。高橋氏の問題提起をまったくねじ曲げているからである。
 しかし、違う立場からの高橋氏のEテレ電波売却論への反対もある。
 小寺信良氏の「NHK再編の狼煙、「Eテレ売却」は妥当か、素人考え」https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2012/10/news018.htmlだ。氏の主張は、Eテレの電波枠を売却しても、それほど大きな意味はない。Eテレの費用の多くは番組制作費だから、Eテレの電波を売っても、たいした意味がないというわけだ。受信料については、払っている者と払っていない者との公平感がまず問題だという。
 確かに、見ているのに払っていない人、見ないのに払わされている人という、二重の意味での不公平がある。
 そして、小寺氏によれば、むしろ、無駄は衛星放送ではないかという。すると、単に地デジのNHKだけではなく、BS、CS、そして民放を含めた議論にしていかないと、問題を把握てきないことになる。素人考えが無意味とは思わないので、考えてみたい。

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実際に聴いたライブのCD 普門館のカラヤン

 録音された音楽が市販される場合、ライブの録音とスタジオでの録音があるが、実際にライブで聴いた演奏を、市販のライブ録音で聴くことができる機会はあまりない。実は、初めて自分が聴いた音楽会のライブCDを聴くことができた。それは、1977年普門館でおこなわれたカラヤンの、ベートーヴェン演奏である。私は、まだ大学院生で、結婚して間もないころだったが、カラヤンのチケットがとれそうだというので、思いきって2回の演奏会を申し込み、首尾よく入手できた。普門館のときだから、とれたと思う。とにかく5000人は入るらしい大きな会場で、そのために、チケット代も安く、数も多かったからである。聴いたのは、第一日目の一番と三番英雄、そして最終日の第九だった。しかし、40年以上前のことであるだけではなく、なんといっても、ばかでかいというしかないホールで、英雄のときは、まるで、外野席の一番上から野球の試合をみているような感じで、ベルリンフィルという世界一のオーケストラの音などは、まったく味わえないような席であった。カラヤンを聴いたという感動は、まったくえられなかった。だから、演奏については、遠くでやっているなという程度のもので、ほとんど覚えていないのだ。FM東京で放送したらしいが、当時はテレビもラジオもないときで、まったく知らなかった。
 数年前、このときのライブ録音がCDとして発売されたが、えらく高かったし、またカラヤンのベートーヴェンの全集は何組ももっていたので、購入せずにきた。多少安くなったのと、リマスターされたというし、いま買わないと入手できなくなるとも考えて、先日買ってみたたわけだ。

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いまだにトランプの勝利を叫ぶ人がいる

12月14日は、アメリカ大統領選挙で選出された選挙人が投票する日である。これにどれだけの意味があるのか、極めて疑問だが、既に選挙管理当局による正式発表がなされているから、公式にバイデンの当選が確定しているといえるのだが、自分が任命した判事が複数いる連邦最高裁が、トランプの訴えを退けているにもかかわらず、いまだにトランプは自分が勝ったと主張しており、また、逆転がおきるといっている人もいる。しかも、日本人のなかにもいるのが驚きだ。youtubeをみていると、そのうちに票が計算されなおされるか、バイデンの不正が暴かれて、トランプが逆転勝利すると声高に主張しているのが、多数ある。トランプが起こした訴訟では、いずれも証拠がないといって却下されているにもかかわらず、トランプは、証拠を裁判所か認定しないと怒っている。提出していないから「ない」と判断していると考えるのが、常識であり、ないものの認定ができるわけがない。もし、不当に裁判所が提出した証拠を「ない」といっているのならば、その証拠を国民の前にさらけ出せばいいだけのことだ。しかし、国民の前に出せというと、訴訟だから出せないというのでは、なにをかいわんやだ。 

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『教育』2021.1号を読む 久冨善之「教育実践と教育的価値」を読んで思うこと--学校選択の議論と教育社会学

 本論文は、教育科学研究会教育学部会11月例会での報告に基づくものである。当初、例会での報告表題は「教育社会学と教育実践の不幸な出会い」というものだったと記憶するが、当日になって変更になった。内容が全く変わったわけではないだろうが、多くの部分が削除されたと思われる。私自身は、本来の題目での報告を大いに期待したので、少々がっかりした。つまり、教育社会学が教育実践を扱う困難さについて、掘り下げた報告があるかと思ったのである。というのは、私自身が「教育行政学と教育社会学の不幸な出会い」とでもいうべきことを体験したことがあるからだ。『教育』の本文の検討前に、その点について予備的にまず書いておきたい。本論の検討は、すこし間をおくことになる。
 私の理解では、教育社会学は、教育学全般のなかでは、多少特異な位置を占めていると思う。教育学は、教育価値を前提にした学問だが、教育社会学は、教育価値については、少なくとも科学的方法として、相対化すると、私は理解しているからである。私自身、教育社会学の熱心な学徒ではなかったということもあったかも知れないが、ある時点まで、教育学と教育社会学との相違について、あまり意識していなかった。それを強く意識せざるをえなくなったのは、学校選択問題が生じたときである。2000年前後に東京を中心として、学校選択制度を導入する政策動向があった。そのとき、教育学者にも、賛否両論あったのだが、そのときに、面白い対照に気づいたのである。私は教育行政学の専門で、教育行政学専攻を出たのだが、私の年齢の近い元同僚たちは、多くが学校選択制度の賛成派だった。黒崎勲、三上和夫、村山士郎氏らと私である。佐貫氏のような反対派ももちろんいたのだが。それに対して、教育社会学の人たちは、私の知る限り全員反対派だった。久冨氏もその代表的な論客だった。なぜこのような対立的「傾向」が生じたのだろうか。これが、先述した「不幸な出会い」である。

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説明責任は、小室圭氏だけにあるのか

 真子内親王が「結婚決意文書」をだしてから、いろいろな騒動が起きている。その最大のものが、西村宮内庁長官が、小室氏に「説明責任がある」として、国民の不信感に対する説明をきちんとするようにという、見解表明を行ったことだ。私はもちろん、皇室内部事情などは、まったく疎いので、表に現れた情報によって判断しているだけだが、宮内庁長官が個人的な見解を述べるはずがないのだから、これは、皇室の誰かの代弁であるか、あるいは、政府の誰かの代弁なのだろう。そこはわからないが、この説明の要請を聞いて、疑問をもつ人は多いに違いない。
 そもそも、説明責任とは何だろうか。常識的には、何かネガティブな状況になっている、あるいはトラブルが生じている場合に、その状況に対して責任をもっている人が、説明しなければならないということだろう。では、現在生じているトラブルとは何なのか。実は、このトラブルに対する認識が、かなりばらばらなのではないだろうか。
 ある人にとっては、小室家の借金問題と、家庭における複雑な事情であると受け取っている。そう考える人たちは、小室氏に対して、説明を求める発想になるのだろう。あるいは、こんな結婚は絶対に認めないという立場かも知れない。

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