『教育』2020.12号を読む 優生思想の克服のために1

 『教育』12月号の第一特集が「優生思想をこえる」である。やまゆり園事件の判決をきっかけに、植松被告の考えである優生思想を、ナチスの思想とだけみるのではなく、現代社会に深く浸透した思想や価値観に関わる課題として引き取ろうという視点で、特集が組まれたということだ。優生思想とは、人間の存在と人格の「全体性」に対して、「役に立つ」「生産性」の有無という「部分」のみをもって価値を計ろうとする思想と定義している。以後、個別の論考に対して考察をすることにして、今回は、特集全体に対する感想と疑問を書いておきたい。
 個々の執筆者には、多少の差異があるが、だいたいにおいて、どんなに重い障害をもっていても、「生きている価値」があり、それを否定した植松の行為を批判する構造になっている。ただし、思想的吟味ということになると、全体が、被害者の立場、つまり、障害をもった弱い立場から論じているので、そこからはみ出す論点については、あまり掘り下げられていないか無視される。そこが残念である。
 まず何よりも、どんな人でも生きる価値があるとするならば、死刑判決を受けた植松については、どうなのだろうか。もし、本当にどんな人でも生きる価値があるならば、彼への死刑判決は批判されていなければならない。何ら触れていないので、おそらく、死刑判決は是認されているのだろう。しかし、死刑を是認すれば、「生きるに値しない人間は存在する」ことを認めることになる。何度もブログでも書いているように、私は死刑否定論者ではないので、極論としては、生きるに値しない人間が存在することを認める立場である。

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読書ノート『言語学者が語る漢字文明論』田中克彦著

 日本の代表的な言語学者である田中克彦氏の「漢字重視」に対する批判の書である。
 一言で著者のいいたいことを整理すれば、「言語は音であるから、音から独立し、かつ修得に極めて困難な漢字使用は、やめるべきである」ということになるだろう。教育学の立場からいえば、漢字学習は、日本の学校教育の重要な柱となっており、かつ近年ますます重視されている。学習指導要領では、義務教育の間に学ぶべき漢字が決められているが、その数は増えている。この問題をどう考えるかに直接関わってくる。
 まず、田中氏の注目すべき指摘について考えたい。
 第一は、「訓読」についてである。日本人は、中国から漢字を取り入れて、中国語としての漢文を日本語にして読むという技法を編み出し、そのことによって、日本語を豊かにした、といわれているが、中国語を自分の言語に直して読むことは、どんな言語でも可能であると、田中氏はいっている。特に、ヨーロッパの言語は、だいたいにおいて文法的な構造が、中国語と似ているので、日本よりもむしろ訓読がやさしいというのである。日本語の場合には、返り点などをつけて、かなり複雑な読み方になってしまう。訓読を編み出したことが、日本人の器用さだけではなく、漢字文化の優れた点であるとされるが、それは違うというわけだ。考えてみると、田中氏のいうように、現在漢字文化圏というのは、中国と台湾と日本の3カ国しかない。南北朝鮮は、ハングルに転換して、漢字はほとんど使わない。ベトナム語もアルファベットを採用している。漢民族周辺の民族は、かなり前から独自の文字を考案しているそうだ。そして、中国も台湾も、漢字の重荷に耐えがたく、悪戦苦闘しながら、簡易化を図っている。漢字を重視するひとたちは、そうした中国の苦労にまったく思い至らないと批判する。

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アメリカの民主主義を考える

 アメリカ大統領選は、バイデンに当確が出て、新しい段階に入ったが、今のところ、予想されたような事態に入りそうになっている。バイデンが勝利しても、トランプがそれを認めず、法廷闘争になるという予想だったが、実際にいくつかの提訴がなされ、トランプの訴えをそのまま認めた判決はでていないが、トランプ支持者が、開票所にはいって監視することを認めた判決があったようだ。いまのところ、もうひとつの予想であるトランプ支持者による暴動などは起きていないが、今後どうなるのかわからない。今この文章を書いている時間、アメリカは真夜中であり、明けると日曜日だから、そのとき支持者たちの動きがあるかも知れない。トランプは月曜日から提訴の活動に入るといっているから、そちらはもう少し先のことになるだろう。すべての開票が正式にだされるのが、いつなのかよくわからないのだが、まだ開票作業が続いている州もある。もちろん、そうした結果が明らかになれば、バイデンの圧勝に近い数値がだされるだろう。その段階までに、家族や共和党、友人たちの説得が、トランプの敗北宣言を引き出せば、平和裡の政権移行が実現するが、あくまでもトランプが居すわろうとすると、本当にどうなるか予想もつかない。制度としては、このように進行するという解説はあるが、実際に得票数が確定すれば、それで決まりになるはずだが、それに従わないのだから、どうなるかは神のみぞ知るということなるだろう。(ただし、私自身は、トランプは比較的早めに諦めるのではないかと思っている。そして、トランプを説得するのは、家族であり、娘のイバンカだろう。共和党のひとたちが受け入れるべきだという意志を表明しているから、その力にトランプが押されるわけではなく、家族がそれを受けてということになる気がする。)

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印鑑生産地の怒りと河野大臣の対応 印鑑生産業は生き残れるか

 河野大臣が、平井IT担当大臣から送られたという「押印廃止」という「印鑑」の写真をツイッターに掲載したことで、日本最大の印鑑生産地である山梨県の長崎知事と、全日本印章業協会徳井会長、山梨県市川三郷町の久保町長が、自民党に抗議と陳情に訪れたというニュースが、大きく報道されている。押印廃止という政策に反対する意思表示をしたわけではなく、河野大臣のツイッターにみる、あまりの配慮のなさを抗議したことと、ひとつの産業が危機に陥ることに対する対策を求めたということだろう。科学技術が進歩すれば、必ず起きる社会的事態である。
 思いつくままにあげれば、コンピューターによる本づくり、新聞づくりに移行したときに、大量の植字工が不要になった。印鑑生産に携わっている人とは、比較にならないくらい大人数の仕事が消えたのである。日本は企業内教育を基本としていたこと、企業内組合であったことで、植字工をコンピューターのオペレーターとして再訓練することによって、平和的に活字からコンピューターによる印刷業に移行することができた。産業別組合が主流で、企業内教育が盛んではなかった欧米では、コンピューターによる印刷への転換が、日本よりもずっと遅れたのである。

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『教育』2020.11号を読む 菅間正道「リアルな学び/交わりとオンラインをめぐる一考察」(2)

 
 
 もう少し、「身体性・直接性」「偶発性」「根源的応答性」について、考えてみよう。
 「授業はリアルだ」という感覚から、こうした概念を考えたというから、「身体性・直接性」は、実際にひとつの場所に居て、一緒に学ぶことをいうのだろう。貴戸理恵氏の「(オンラインは)可能。ただし対面とは別のかたちで。その一方でやはり『対面には及ばない』と感じる点もある。それは『余白』と『身体性』が失われることだ」という文章を引用していることでわかるように、要するに、対面であることが、授業にとって、不可欠ではないが、極めて重要だと主張している。もちろん、教育効果として、対面であるほうがよいには違いないが、結局は、「極めて重要」だという主張が、結局、「不可欠」だというように傾いていくのである。その立論として、菅間氏は、ふたつのことを書いている。
 ひとつは、生き物であるわれわれは、べたべたの濃厚接触のなかで生まれ、死んでいく。だから、オンライン保育やオンライン介護は決して可能にならないという。しかし、オンライン保育やオンライン介護が可能でないのは、身体的「世話」という部分があるからで、そのことが、生き物であるわれわれが濃厚接触(身体性)が教育において不可欠であることにはならない。また、部分的には、オンライン保育やオンライン介護も可能である。それはオンライン診療が可能であることをみてもわかる。保育者や介護士が、対応困難になったときに、より専門的な知見をもった人に、オンラインでアドバイスを受けつつ業務を進めるようなことは、十分にありうる。

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『教育』2020.11号 菅間正道「リアルな学び/交わりとオンラインをめぐる一考察」を読む

 人はどこで、どういう風に学ぶのだろうか。このことを考えるときに、ふたつ重要な視点がある。
 第一に、人は、あらゆる場で、あらゆるときに、学んでいるということだ。多様な筋道の学びがある。学校に通っている人も、塾、通信添削、家庭教師、読書、スポーツクラブ、習い事、テレビ、ラジオ、新聞、インターネット、友人との会話、SNSやメールのやりとり(昔は手紙)等でも学んでいるだろう。
 第二に、そのことの裏返しでもあるが、学校の教室で学んでいることなどは、ごく一部に過ぎない点である。そして、教師は、その点をはっきりと自覚するだけではなく、子どもたちが学び場や方法を、できるだけ豊富にもつように指導すべきであるという点である。教え子たちは、上級の学校や社会に巣立っていく。そのときに、学校で学んだことしか修得しておらず、あるいは学校での学び方しかできないとしたらどうだろうか。あらゆることから学べる人間として送り出す必要があるはずである。
 菅間正道「リアルな学び/交わりとオンラインをめぐる一考察」は、教育に必要なことを追求しているだけではなく、余儀なくされた休校措置のなかで、可能な限りのことを実践している。菅間氏は、自由の森学園高校の教頭先生だが、自由の森学園は、私のゼミの学生で卒論で扱った者がいた。なんと卒業式にその学生は出席し、ビデオを撮ってきたので、それを見たことがある。現在の堅苦しい学校教育のなかで、創造的な教育をしている少ない学校であり、この論文にしても、そうした校風故に可能になった積極的な面を感じる。

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文科省ガオンライン授業多い大学を公表?

 文科省が、オンライン授業の割合が50%以上の大学の名前を公表するという方針だそうだ。ずいぶんとおせっかいなことだ。そもそもコロナ禍で、オンライン授業を勧めたのは、文科省ではないか。それを今度は、体面授業を重視しろというのは、なんともはや、いいかげんな行政だ。オンライン授業と体面授業と明確に区別しない、つまり、両方やっている授業だってけっこうあるのだ。少人数の演習などは、オンラインでもまったく問題なく機能するだろう。通常の体面授業を、カメラをおいてオンラインで流し、大学に来られない学生は、どこかでそのオンライン授業を聴講するという方法もある。就職活動などをしている学生にとっては、ありがたい方法だ。ある大学の教員に聞いたところ、どちらも可としたら、オンラインを希望した学生が圧倒的に多かったというのだ。また、学生にしても、4年生になって、あまり授業をとっていないのなら、定期券を買わずに済む。バイトやりながら、授業のときだけ抜け出すという手段もある。欠席するよりは、ずっといいわけだ。そして、無駄を省くことができる。つまり、オンライン授業は、学生が求めている側面もあるのだ。もちろん、対面授業を求める学生もいる。選択肢が増えることがいいのだ。

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教員採用と行政区域

 大阪都構想が否決されたが、ここで二重行政が問題となった。いろいろな分野でそうした重なりがあるのだろうが、私の専門領域で考えてみることにした。それは、教員採用と教員の移動である。通常の都道府県では、公立小学校と中学校は、市町村立であるが、教師の採用と人事に関しては、県が行うことになっている。そして、給与もかつては半分が県、半分が国という分担だったが、現在は県が3分の2、国が3分の1を補助するように変化している。これは、知事たちの要求で、都道府県の裁量部分を増やすという目的で変更されたが、同時に、それまで全国一律の給与表だったが、都道府県で変えられるようになった。いずれにせよ、都道府県が公立小中学校教師の給与を負担し、国が補助をする。そして、そのシステムと表裏のものとして、教員の採用とその後の人事も、都道府県が行うことになっている。
 ところが、政令指定都市は、この権限を市として行うことか認められている。市が給与を負担して、採用や人事も市で行うわけである。大阪もそうだし、埼玉県も同様だ。しかし、横浜や千葉は独自の採用試験を行っておらず、県の採用試験に任せている。大阪は、私の指導する学生が就職したことがなく、また、遠くて詳細がわからないので、とりあえず、埼玉、東京、千葉で考えたい。

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大阪都構想 特別区のほうが問題だ

 大阪都構想が住民投票で否決された。私はずっと関東に住んでいて、ほとんど大阪には関係がないので、ずっと実感がわかなかったのだが、さすがに実際に住民投票が行われ、結果が出たことで、自分なりの意見をもつ必要を感じた。しかし、この住民投票は、いかにも不可思議な現象だ。まず公明党は国政では自民党と組んだ与党なのに、大阪では自民党と対立し、維新の会と組んだ。しかし、大阪では維新の会が与党だということだ。つまり、公明党とは、権力のほうばかり向いた政党になってしまったということなのか。しかし、山口代表が乗り込んで、盛んに賛成演説をしていったのに、あの無類の組織政党であるはずの公明党支持者の半分は、反対したという。また、最も強力な反対政党が、自民党と共産党だというのも、極めて珍しい現象だ。
 この間、当然テレビでも盛んに解説していたが、いまいちわからないことが多い。大阪に住んでいれば、生の資料を入手できるから、具体的な争点かわかるのだろうが、メディアでの報道で知る限りは、行政の二重性をなくせるので、いいのだというが、それがどのような二重性で、どのように解消されるのか、丁寧に解説してくれるメディアがあまりないので、表面的なことしかわからないのだ。

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教育学を考える20 主体性・主体的の考察

 最近、ある場で「主体的・主体性」の教育における意味に関する議論をした。少し整理してみたいので、ここで考察することにした。
 「主体的・対話的」な教育が必要であると、近年文科省などが強調している。戦後の文科省の歩みをずっとみている人間にとっては、文科省がいうことには、とりあえずフィルターをかけて、注意しなければならないという意識がある。特に、21世紀にはいって、「ゆとり教育」をやめ、学力推進的な方向をとったあとは、実際に、主張していることと、その結果にかなりの矛盾、ちぐはぐさが生じている。「いじめ防止対策推進法」が制定されてから、逆に、いじめによる自殺などが多数起きている。学力推進策に転換したにもかかわらず、必ずしも、PISAなどでも以前の好成績をキープしているわけではない。文部省が文部科学省になって、大学政策を熱心にやりだしたが、日本の大学の国際ランクはさがり続けている。
 つまり、実際には、「いいことをいっているような感じだが、その結果は逆だ」というような事態が少なくないのである。そういうなかで、文科省が推進しようとしている「主体的・対話的」授業に対する疑問が生じるのも、当然というべきだろう。そういうときに、こうしたあいまいな概念は、教育学として不要であるという意見が提示されて、議論になったわけである。

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