『教育』2020.12号を読む 優生思想の克服のために1

 『教育』12月号の第一特集が「優生思想をこえる」である。やまゆり園事件の判決をきっかけに、植松被告の考えである優生思想を、ナチスの思想とだけみるのではなく、現代社会に深く浸透した思想や価値観に関わる課題として引き取ろうという視点で、特集が組まれたということだ。優生思想とは、人間の存在と人格の「全体性」に対して、「役に立つ」「生産性」の有無という「部分」のみをもって価値を計ろうとする思想と定義している。以後、個別の論考に対して考察をすることにして、今回は、特集全体に対する感想と疑問を書いておきたい。
 個々の執筆者には、多少の差異があるが、だいたいにおいて、どんなに重い障害をもっていても、「生きている価値」があり、それを否定した植松の行為を批判する構造になっている。ただし、思想的吟味ということになると、全体が、被害者の立場、つまり、障害をもった弱い立場から論じているので、そこからはみ出す論点については、あまり掘り下げられていないか無視される。そこが残念である。
 まず何よりも、どんな人でも生きる価値があるとするならば、死刑判決を受けた植松については、どうなのだろうか。もし、本当にどんな人でも生きる価値があるならば、彼への死刑判決は批判されていなければならない。何ら触れていないので、おそらく、死刑判決は是認されているのだろう。しかし、死刑を是認すれば、「生きるに値しない人間は存在する」ことを認めることになる。何度もブログでも書いているように、私は死刑否定論者ではないので、極論としては、生きるに値しない人間が存在することを認める立場である。

 ただ、この特集は、あくまでも「生産性がない」「役に立つ」ということで生きる価値を計る思想のみを対象として批判しているのであって、悪事を働いた人については、別だという論理もあるかも知れない。しかし、植松は精神病院に措置入院されたように、精神疾患であるかは別として、通常の精神状態でなかったことは間違いないだろう。殺人は予告されて実行されたのだから、適切な対応を取れば防げた犯罪であったともいえるのだ。「生きるに値しない命」という題目をたてる以上、植松もその検討対象になるのではないだろうか。
 第二に、障害をもった者の生きる価値を認めるのは、当然であるとしても、中絶の問題がある。優生保護法が廃止され、母体保護法に変わったわけだが、「身体的又は経済的理由」で母体の健康を著しく害するおそれがある場合には、中絶が可能になっている。しかし、現実には、胎児の診断をした結果、障害をもっていることがわかると、中絶している割合が多いのが現実である。以前は、イギリスや韓国に比較してその割合はかなり低かったのが、検査が簡易に行われるようになって、次第に中絶する割合が増加した。障害を理由に中絶することについては、青い芝の会が厳しく批判しており、その主張と現実が乖離していることになる。青い芝の会が、障害を理由とする中絶に反対するのは、それが優生思想の現れであり、現に生活している障害者を生きづらくさせずにはおかないという理由からだ。
 イギリスでは、一時激しい論争になったが、障害による中絶は、出産直前まで認められていた。おそらく今でも認められていると思われる。植松のような行動にでる人は、実際にはごく稀である。しかし、障害を理由として中絶する人は、世界的にみれば、いくらでもいるのが現実である。私自身は、それを批判する立場ではないし、もちろん、奨励する立場でもない。ただ、このような特集を組むからには、回避できる課題ではないはずである。
 第三に、優生思想を、ナチスだけに限定していないというが、実は、優生思想とは、ここで扱われているよりもずっと広い概念である。優生思想が、まとまった形で「思想」として提起されたのは、社会ダーウィニズムとして現れたといえるが、より素朴な「自分の望む価値を高くもった人同士の婚姻」を進めるという優生思想は、ナチスなどとは異なるレベルで影響力をもっていた。代表的には、イギリスの政治学者ハロルド・ラスキは、その推進者であったし、教育学の重要な古典である『児童の世紀』の著者エレン・ケイは、優生思想の体現者であった。『児童の世紀』は、新教育運動の古典とされるが、実は、優生思想的教育論なのである。スウェーデンで戦後まで続いた強制的な中絶が、エレン・ケイとどのようなつながりがあるのかは、私にはわからないが、社会民主党政権の下で非常に長く続いた政策であることを考えれば、エレン・ケイを生んだ土壌の延長になると考えるのが自然だろう。だから、ラスキやケイのような優生思想も、検討の俎上にのせなければならないはずである。というのは、こうした素朴な優生思想的感覚は、ほとんどの人がもっている。
 第四に、社会的負担の問題も、本来は避けて通れないはずである。障害者も、もちろん生きる価値があり、障害者を支えることは、社会全体の利益でもあると、私は自分の経験から確信している。しかし、健常者の子育てとは異なる社会的な支えが必要である。重度の障害児が学ぶ特別支援学校では、教職員と児童・生徒の数がほぼ同じである。授業でも、ほぼ一人一人に介添えの教師がつく。これは、社会がそれだけの負担力をもっているから可能になっているのだが、その負担力を生みだす原動力は、「生産性」のあるひとたちの労働によって生まれている。「生産性」で人の価値を測るのは、確かに間違いだが、しかし、生産性は、障害者を支えるために、不可欠であることも否定できない事実なのである。
 私がこういう視点の検討が必要であると感じたのは、オランダでの滞在がきっかけだった。1992年から1年オランダで生活したのだが、そのころ、ドイツではトルコ人襲撃事件が多数生じており、オランダではそれに対する批判が沸き起こっていた。そして、オランダは、移民を受け入れる優等生として自他ともに許していた。しかし、となりに住んでいた男性が、オランダは移民を受け入れすぎる、オランダは小さい国でそれほど経済力もない。それなのに、私たちの税金を移民に注ぎ込んでいるが、オランダの経済力を越えているのだ、みんな大きな声では言えないが、そう思っていると、密かに打ち明けられたことがある。2002年に再度オランダに滞在することができたのだが、その時には、フォルタイン党という移民排斥のポピュリズム政党が大人気となっていた。そして、イスラム学校やモスクへの襲撃が頻発していたのである。もちろん、移民排斥に賛成するわけではなく、移民の権利とそれを支える人たちの負担との関係やバランスに、配慮しないと、権利の維持も崩れていくということなのだ。植松も、最初はやまゆり園でしっかり働いていたのだ。それが何故変っていったのか。それも、ここに関連するように思われる。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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