日本の代表的な言語学者である田中克彦氏の「漢字重視」に対する批判の書である。
一言で著者のいいたいことを整理すれば、「言語は音であるから、音から独立し、かつ修得に極めて困難な漢字使用は、やめるべきである」ということになるだろう。教育学の立場からいえば、漢字学習は、日本の学校教育の重要な柱となっており、かつ近年ますます重視されている。学習指導要領では、義務教育の間に学ぶべき漢字が決められているが、その数は増えている。この問題をどう考えるかに直接関わってくる。
まず、田中氏の注目すべき指摘について考えたい。
第一は、「訓読」についてである。日本人は、中国から漢字を取り入れて、中国語としての漢文を日本語にして読むという技法を編み出し、そのことによって、日本語を豊かにした、といわれているが、中国語を自分の言語に直して読むことは、どんな言語でも可能であると、田中氏はいっている。特に、ヨーロッパの言語は、だいたいにおいて文法的な構造が、中国語と似ているので、日本よりもむしろ訓読がやさしいというのである。日本語の場合には、返り点などをつけて、かなり複雑な読み方になってしまう。訓読を編み出したことが、日本人の器用さだけではなく、漢字文化の優れた点であるとされるが、それは違うというわけだ。考えてみると、田中氏のいうように、現在漢字文化圏というのは、中国と台湾と日本の3カ国しかない。南北朝鮮は、ハングルに転換して、漢字はほとんど使わない。ベトナム語もアルファベットを採用している。漢民族周辺の民族は、かなり前から独自の文字を考案しているそうだ。そして、中国も台湾も、漢字の重荷に耐えがたく、悪戦苦闘しながら、簡易化を図っている。漢字を重視するひとたちは、そうした中国の苦労にまったく思い至らないと批判する。
第二は、漢字を増やすということが、外国人にとって、日本語を学びにくくしているという主張である。非常に明確だったのは、福祉職に外国人を受け入れる制度ができたのに、日本語による資格試験が壁になっている。しかも、極めて難しい、一般の日本人にもわからないような専門用語がたくさんある、そんなことをやっていたら、日本語そのものの国際化にとっては、極めてマイナスだという。それは確かに、私もそう思う。病気の名前や法律用語など、専門家の地位を守るための方策であるが、通常のやさしい言葉に直していくべきだろう。ワープロを使って文章を書くと、勝手に漢字に変換してくれるので、ついつい難しい漢字を使ってしまうが、気をつけるようにしている。
第三は、漢字を捨てることはできるのか、という点だ。田中氏は、実際に南北朝鮮はそれをやってのけたとして、可能であると主張する。ただし、漢字を長く使ってきたために、日本語は同音異義語が多い。従って、音声だけだと、意味が誤解される場合が生じる。文脈などから判断できることが多いが、同音異義語を減らしていくことが、その前提として必要になるのではないだろうか。逆にいうと、田中氏によれば、書かないと正確な意味にならないという点で、日本語は言語として自立的でないというわけだ。音声だけで理解できる自立的な言語になたらないと、国際化しないというのが田中氏の主張であるように思われる。そこは同意できる。
次に、田中氏の主張を、教育面で考えてみよう。
直ちに漢字をやめることは、かなり難しいと思われるし、また、現在の支配的な考えとしても、漢字廃止を志向しているようには見えない。学習指導要領の漢字増加に大きな批判が起こることもなかったし、また、漢字テストなどが盛んになっていることからも、漢字に対する関心が高まっている側面もある。
しかし、漢字が日本の学校教育、そしてつまりは個々人に大きな負担を強いていることは間違いない。それが必要でことであり、有益なことなら、その負担も受けいれるべきものだろうが、漢字教育は、プラスの効果があるのだろうか。また必要なのだろうか。いくつかの立場があるといえる。
第一に、漢字文化は日本の伝統であり、漢字を学ぶことは必要不可欠のことで、有効性以前のことだ。漢字を学ぶことは必要であるだけではなく、できるだけ多くの漢字を読み書きできるようにすることが、日本人の教育であるとする立場がある。政府の政策はこの立場にたっていると考えられる。
第二に、漢字を学ぶことは国民にとっての大きな負担であるから、軽減するべきであるが、日本文化の柱である漢字を捨てることはできないという立場。
第三に、漢字は不要であり、かな、あるいはローマ字に移行すべきであるという立場。田中氏はここに入る。
まず、学校教育のなかで、大きな位置を占める漢字教育について考えてみよう。国家・社会として、漢字を捨てない限り、学校教育のなかで漢字を教え、子どもは覚えていくことを義務付けられる。そこに費やされるエネルギーは膨大なものである。もし、漢字を覚える必要なくなったら、教育の様相はかなり変わるし、また、別のことに多くの時間をさくことができるようになるだろう。漢字に大きなエネルギーを費やすことは、時間的ロス以外にも、大きな欠陥を生み出している。まずは、日本語そのものの理解に費やす時間が減少する。小学校の多くの国語の時間は、かなり定型化されているが、本当に必要な、理解を背景とした朗読、文章そのものの味わい、そして考察というような要素は、あまり見られない。余程力量のある教師でないと、そこまでいかないような授業プランになっている。
国際化された社会を考えると、必要性の高まる外国語の習得に大きくマイナスになっている。これは、私自身の経験を考えても、かなり深刻である。言語は、基本は音声による表現手段であり、音に対する感性を磨く必要がある。小さな子どもが、外国に移住すると、すぐにそこの言語を覚えるというのは、言語を音として使っている段階で、まだ文字を習得していないことも、原因のひとつである。漢字学習は、多くが書けるようにする作業だから、一生懸命に繰り返し書く練習をする。そういう習慣で漢字を覚えていくために、英語なども書いて覚えるよう習慣が身についてしまうのである。さすがに、現在の学校では異なっているかも知れないが、私の時代はそうだった。これは、英語を学ぶ障害になったことは否めない。言語は音なのだということに気づいたのは、ずっとあとのことだった。しかし、日本語の現状からみれば、漢字学習をしなくてもよいということにはならない。ただし、最も大きな負担である「書く」ことからさえ解放されれば、かなり漢字学習の負担は軽くなる。ワープロソフトを使って書くことが一般的になっている現在では、漢字を実際に書くことは稀になっている。だから、読みさえ覚えればいいのだとして、最低限の教育目標として「読み」に限定することは可能だろう。書くことができるようにする漢字は、極めて限定して、残りは読めればよいということにする方向性は、十分にありだと思っている。最も書くことはできないが、読むことはできる、ということが可能なのかは、そういう教育が実施されていないので、自信をもっていえないことは、認めざるをえない。
また、最低限の漢字を書くのは、手先の技術として学ぶ価値はあるとも考えられる。ということで、私自身は、第二の立場に近いと考えている。
最後に、もし漢字を廃止すると、「かな」になるのか、「ローマ字」になるのか。
田中氏は、ローマ字論のようだ。
げんごがくしゃが かたる かんじぶんめいろん たなかかつひこ ちょ
Gengo Gakusya ga kataru kanji bunmeiron Tanaka Katsuhiko cho
どちらが読みやすいだろうか。かなで書く場合には、適宜空白をいれる必要があるとされるが、田中氏は、「かな」が分析的でないと指摘している。音は、拇印と子音があるが、表音文字の多くは、母音を表わす文字と子音を表わす文字が分かれている。その組み合わせによって、音を表現する。ローマ字はそうだし、ハングルも同様だ。この方が文字の種類が少なくて済むし、また、多くの音を指定することができる。だから、アルファベットは26字しかない。ところが、「かな」は、母音と子音が組み合わさったかたちでの一音を表現しているので、音の数だけ文字が必要になる。だから50近くある。それにも関わらず、かなでは正確に表わすことができない音が少なくない。 ti tu などは「かな」には存在しない。確かにローマ字のほうが優れているのかも知れない。