もう少し、「身体性・直接性」「偶発性」「根源的応答性」について、考えてみよう。
「授業はリアルだ」という感覚から、こうした概念を考えたというから、「身体性・直接性」は、実際にひとつの場所に居て、一緒に学ぶことをいうのだろう。貴戸理恵氏の「(オンラインは)可能。ただし対面とは別のかたちで。その一方でやはり『対面には及ばない』と感じる点もある。それは『余白』と『身体性』が失われることだ」という文章を引用していることでわかるように、要するに、対面であることが、授業にとって、不可欠ではないが、極めて重要だと主張している。もちろん、教育効果として、対面であるほうがよいには違いないが、結局は、「極めて重要」だという主張が、結局、「不可欠」だというように傾いていくのである。その立論として、菅間氏は、ふたつのことを書いている。
ひとつは、生き物であるわれわれは、べたべたの濃厚接触のなかで生まれ、死んでいく。だから、オンライン保育やオンライン介護は決して可能にならないという。しかし、オンライン保育やオンライン介護が可能でないのは、身体的「世話」という部分があるからで、そのことが、生き物であるわれわれが濃厚接触(身体性)が教育において不可欠であることにはならない。また、部分的には、オンライン保育やオンライン介護も可能である。それはオンライン診療が可能であることをみてもわかる。保育者や介護士が、対応困難になったときに、より専門的な知見をもった人に、オンラインでアドバイスを受けつつ業務を進めるようなことは、十分にありうる。
もうひとつは、斎藤環氏の文章が、菅間氏の要約で紹介されている。斎藤氏の文章は、「人は人と出会うべきなのか」という題だが、https://note.com/tamakisaito/n/n23fc9a4fefec 菅間氏の注では、「人と人は出会うことができるのか」となっている。菅間氏の題名の文章は見つけることができなかったので、おそらく菅間氏の書き間違いだろう。
少々長くなるが、菅間氏による斎藤論文のまとめをそのまま引用しておこう。
『「人と人が出会う場合、完全な対等性を実現するのは不可能である。”他者に対する力の行使”ということを暴力と言うなら、暴力抜きに人は人と出会えない。欲望は他者不在状況では立ち上がらない。出会い抜きに関係性は成立しない』。それらを総称して「臨場性」というのである。」
この引用だけみると、少し違和感がある人が多いのではないか。「暴力抜きに人は人と出会えない」などという文章が、何故、菅間氏の文章のなかに、引用される必要があるのか。私も、不思議な気がしたので、斎藤氏の文章を読んでみた。そこで、題名の違いにも気づいたのだが、やはり、斎藤氏の文章の意図は、菅間氏がいわんとしていることとは違うように読める。実際に人と人が出会うこと、臨場性を述べているという点では、菅間氏が誤解しているわけではないが、斎藤氏は、引きこもりのように、人と出会うのが恐ろしいという感覚をもった人に、精神医として何が必要かを考察している。だからこそ、「暴力」という言葉が使われている。人との関係は、決して「平等」ではなく、出会いによって生じる間には、必ず力の行使がある。だから恐ろしいのだ。また、引きこもりが長くなると、欲望がなくなってしまうことでわかるように、欲望も人との関係がないと生じないのだという。斎藤氏がいっているのは、人と会うことを拒否している引きこもりのような人に、でも何故人と出会うべきなのか、そこは暴力の存在する怖いところかも知れないが、それでも、人間的であるためには、人との関係性が必要なのだということだ。逆にいえば、その裏返しとして、人と会わない自分の存在が前提されている。
しかし、学校教育にとって、「会う」ことは通常であり、休暇という突発的な例外によって、「会えない」という現実を押しつけられ、会えるようになれば、ごく自然に再会して、自然に関係性が生まれるのが、学校である。殊更に「臨場性」などを強調する必要はないのだ。もし、菅間氏が、この斎藤氏の文章から学びとろうと思うなら、関係性をもたないで引きこもっている人もいるという前提で、「学校教育」の場面を想定すべきである。
前回の最初に書いたことから敷衍すれば、「教師が教えることで学ぶ」というのは、一部であるということだ。本来学びで最も重要なことは、「自分の意志で学ぶ」ことである。人は多様な手法、場で学ぶし、環境、好みも千差万別である。同じ学校の同級生であっても、家庭環境として、自分のパソコンをもち、家に蔵書がたくさんあって、親も子どもの自主性を尊重しつつ、いつも相談にのれるという子どもと、パソコンもインターネット接続もなく、本は漫画ばかり、親は仕事で忙しく、子どもの相手をすることもないし、暴力的で体罰をするなどという環境の子どもとでは、まったく、学ぶ状況が異なる。だから、個別対応が必要なわけだが、それは、教室のなかだけでは十分な個別対応は不可能だろう。学校以外での学びに、配慮することは可能だし、できるだけのことはする必要がある。
それには、学び方の多様性を常にに考えていなければならない。「身体性」「直接性」「偶発性」が重要なんだ、というところで満足したら、個別対応を見つけることができなくなる。あるいは、その必要性を認識できなくなる。
オンラインだと、「交わり」「臨場性」が不完全だという。しかし、完全な「交わり」「臨場性」などというものがあるわけでもない。人と人の交わりは、直接的なものもあるし、手紙、メール、電話等様々な形態があって、その複合的なものとして、交わり全体がある。メールが間接的だから、真の交わりではないというようなものでもない。逆に、斎藤氏がいうように、交わりそのものが恐怖であったり、その暴力性に耐えられない者もいる。
直接性というものの在り方も変化している。バーチャルは、リアルではないと一般的にはいえるが、eスポーツをやっている人にとっては、バーチャルこそリアルな世界と認識しているかも知れない。宇宙空間などはリアルだが、一般の人にはバーチャル的な感覚でしか捉えられない。
いつも電話で励ましてくれて、心が通いあっている人と、教室で自分をいじめている人間とで、「直接性」は教室だが、それが肯定的な関係とはいえない。
まとめておこう。
「身体性」「直接性」「偶発性」「臨場性」は、確かに、だいたいにおいて肯定的な価値だろうが、絶対的なものではないし、マイナスに働くこともありうる。そして、重要なことは、それらに当てはまらない学び方もたくさんあることを自覚している必要があるということだ。そして、実際に、不登校などの教育保障を実践するには、そこに囚われてはならないことは明らかだ。
強制措置によって、オンライン教育を余儀なくされ、その可能性をそれなりに自覚したとしても、やはり、リアルな授業がよいというところに落ち着くのは、自然な感情かも知れない。しかし、様々な環境にある子どもたちの教育保障を実践していれば、オンライン教育に限らず、様々な手法(引き出し)を駆使して、それぞれの個別の事情に応じた対応が可能であるはずであり、オンライン教育は、そのなかでも大きな可能性をもっているはずである。通常の教室に来られる子どもたちを相手にした授業が復活して、「ああ、やはりリアルな授業が大切だ、身体性・直接性が必要だ」といって、そこに、感覚的にも収斂して戻っていくとしたら、それはあまりに固定的な発想であって、実は、子どもたちが切実に求めているものを無視し続けることにならないのだろうか。