教育学を考える20 主体性・主体的の考察

 最近、ある場で「主体的・主体性」の教育における意味に関する議論をした。少し整理してみたいので、ここで考察することにした。
 「主体的・対話的」な教育が必要であると、近年文科省などが強調している。戦後の文科省の歩みをずっとみている人間にとっては、文科省がいうことには、とりあえずフィルターをかけて、注意しなければならないという意識がある。特に、21世紀にはいって、「ゆとり教育」をやめ、学力推進的な方向をとったあとは、実際に、主張していることと、その結果にかなりの矛盾、ちぐはぐさが生じている。「いじめ防止対策推進法」が制定されてから、逆に、いじめによる自殺などが多数起きている。学力推進策に転換したにもかかわらず、必ずしも、PISAなどでも以前の好成績をキープしているわけではない。文部省が文部科学省になって、大学政策を熱心にやりだしたが、日本の大学の国際ランクはさがり続けている。
 つまり、実際には、「いいことをいっているような感じだが、その結果は逆だ」というような事態が少なくないのである。そういうなかで、文科省が推進しようとしている「主体的・対話的」授業に対する疑問が生じるのも、当然というべきだろう。そういうときに、こうしたあいまいな概念は、教育学として不要であるという意見が提示されて、議論になったわけである。

 では、主体性・主体的は、教育という行為において、どのような意味をもっているだろうか。
 それは、どのような人間に育ってほしいかという、人間像に関わっているだろう。自立的な、しっかりとものごとを考え、また、自分のすべきことを自覚して、成果をあげることができる人間を想定するならば、主体性や主体的という概念は、教育の中心的な位置を占めるに違いない。しかし、逆に権威や権力に従順な人間を育てたいと思っている場合には、主体性などは、認めない概念になるだろう。
 民主主義がきちんと機能する社会や、それを支える人間を育てたいと思えば、主体性は不可欠の人間の資質であり、主体性を育てる教育を実践しなければならない。残念ながら、現在の義務教育という制度は、その成立の事情からも、従順な人間を育てることが必要であるという背景をもっていた。義務教育制度を成立させた社会的要因は、第一に、徴兵制であり、第二に大工場制である。兵隊はいわずもがな、大工場で働く労働者も、規則に忠実で、いわれることを素直に実行することが求められた。戦後でも、そうした従順な人間を育てるような仕組みが、学校教育には至るところに用意されている。
 たとえば、朝礼とか朝会という儀式があるが、たいていは週1くらいで、校庭や体育館に集まって、校長の訓辞がある。問題は、その往復で、私が子どものころは、まるで軍隊的な行進で往復しなければならなかったし、今でも、教室から並んでの往復のときに、列が乱れていると叱られたり、やり直しをさせられたりするという学校があると聞いた。
 学習にしても、個々人の理解度を無視した指導などは、近年はあまりみられないかも知れないが、それでも、学ぶ内容そのものが、しっかりと決められている。このような通常の日本の学校教育は、主体性を尊重などしていないし、また、主体的な学習を保障してもいない。そこに、対話的な手法を取り入れろといっても、教師の主体性を十分に認めていない体勢のなかで、教師が子どもの主体性を尊重した実践が十分にできるはずもないのである。
 コロナ禍で、政府がうち出す自粛に、罰則がなくても従うというのは、そういう教育のいい結果ともいえるが、ブラック労働にもいやいやながら従ったりする面は、マイナスの結果だろう。やはり、通常の意味での主体的姿勢や主体性を育てることは、民主主義社会においては、絶対に必要であるように、私には思うのである。
 
 では、主体性・主体的にネガティブな見解は、どういうものか。(もちろん、主体性そのものを好ましく思わない見解は除く。)
 主体的であることを尊重しつつ、実際には、教師が望むことを忖度して、それを主体的に実行するような子どもを育てていることが多いし、そうならざるをえないというものだった。これは、教育という行為の本質的矛盾をついた言葉であるともいえる。決して無下に否定できないものだ。教育は、教師が生徒に教える行為である。もちろん、その結果として生徒が自立していくことを目標にするのだが、しかし、そのように指導することは可能なのだろうか。
 この矛盾を最も強く意識して、教師が指導しないことによって、生徒が自立することを可能にしようとしたのが、しぱしば言及するサドベリバレイ校の教育である。サドベリバレイ校では、子どもは、100%の自由が保障されている。というより、自分の行動は、自分で決めなければならない。誰も、当人の要請なしに、指示することはない。もちろん、援助がほしいときには、子どもはだれかにそれを求める。スタッフでもよいし、年上のだれかでもよい。契約を結んで、必要な援助、多くは授業という形を受けることは可能である。NHKの紹介の映像では、家をたてる授業を受けたいと考えた生徒たち数人が、スタッフと交渉して、先生を雇ってもらうが、材料費などを捻出するために、いろいろな工夫をして資金は自分たちで得ていた。NHKのスタッフが、学校から資金を援助してほしいと思わないのかと聞くと、「社会では、必要な資金を自分で稼ぐではないか」と中学生くらいの女子生徒が答えていたのは印象的である。
 別の印象的な例をもうひとつ紹介しよう。
 ある小学生くらいの生徒は、毎日毎日釣りばかりしていたという。雨の日も風の日も、雪の日も決してやめることはなかったのだそうだ。サドベリバレイ校の最初の学校は、富豪の別荘を借りたもので、広大な敷地のなかに、森や池があって、釣りをするには、非常に好都合な環境なのだ。親は、それを知っているので、保護者との面談で、父親がやってきて、「うちの子どもは勉強しているでしょうか」と質問するが、責任者のグリンバーグ氏は、「ええ、ちゃんと勉強しています。毎日釣りをしていますが、天候の観察や、天候の具合で魚がどうなるか、また、森や池の変化なども観察している、そして、いつも友達がやってきて一緒に釣りをして、教えてあげたり、会話するなかで、いろいろなことを学んでいる」と説明した。十分に納得しないまま帰宅するのだが、そういう生活を4年間続けたそうだ。ところが、中学の年齢になると、突然釣りを完全にやめて、今度はコンピューターに熱中するようになった。毎日コンピューターに向かっている。そして、高校生の年齢になったときに、企業を設立して、経営に乗り出した。卒業後は大学に進学せず、その企業の育成に専念し、企業家として成功したのだという。
 サドベリバレイ校では、このように、すべてのことを自分で決めて、必要であれば協力関係を築いて、何事かをなし遂げていく。やりたいことを徹底的にすることで、自分が本当にしたいことを見つけ、そこに向かって進んでいく意欲と勇気を獲得していくわけである。このような主体性であれば、教師の忖度とは、まったく無縁な主体性といえるだろう。しかし、通常の学校でこのような教育をするわけにはいかない。基本的に、教師が教えるシステムになっているのが、現代の学校であることにかわりはない。
 
 他方、次のような意見もあるだろう。忖度というと言葉は悪いが、相手の気持ちを推し量り、理解するということは、重要な資質であり、能力ではないか。だからこそ、コミュニケーション能力も必要となる。だから、教師の気持ちを理解して、それを踏まえて行動するというのは、決して間違っていない。
 それに対しては、当然、「いや、自分の気持ちとそわないのに、教師の気持ちを推し量って、教師に合わせることばかり考えている、あるいはそういう姿勢が身についてしまうとしたら、それはやはり、忖度ではないか」という意見もあるだろう。
 結論的にいえば、基本的には、主体性・主体的ということは、教育の重要な目標であるが、それは、教師が、主体性を育てようと指導すればするほど、実は主体性を阻害するという側面もある。だから、そのことを常に自覚しつつ、子どもの主体性を尊重する姿勢を貫くこと、自分を曲げて教師に合わせるのではなく、自分の見解をはっきり述べるように指導していくことが必要だろう。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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