私は、経済が専門ではないし、あまり経済情勢に関する記事を熱心に読む方ではないので、あくまで素人の感覚に過ぎないのだが、新型コロナウィルスによる経済的打撃をどう打開するのか、という議論には、どうもピンとこないものが多い。
まず消費税の引き下げ、あるいは撤廃などの消費税関連、また、仕事を休んだことに対する給与補償、そして、消費を拡大するための国民への給付金などがでている。どれも、消費がすっかり冷え込んでしまっているので、なんとか消費を増大させることが意図されている。
ところで、現在起きている経済の停滞現象は、お金が足りないことになって、消費が低迷しているわけではなく、何よりも、新型コロナウィルスの感染を防ぐために、催し物の中止、人の移動が事実上制限されるために、観光にかかわる交通機関(飛行機)などの利用が極度に減少、部品工場が国際的レベルで停止しているので、サプライチェーンが寸断されての生産困難、学校の休校で親が仕事を休まざるをえない、等々によって起きている。端的にいえば、新型コロナウィルスの感染がおさまって、あるいはおさまらなくても、拡大を防ぐ有効な薬、あるいは社会システムが見いだされ、止まっているサービス業や工場生産が再開されなければ、復興はできないのである。 “経済対策に納得できないものが多い” の続きを読む
月別: 2020年3月
読書ノート『フルトヴェングラー』脇圭平・芦津丈夫
表題の『フルトヴェングラー』(岩波新書)を読んだが、本稿は、その紹介とか音楽論的な批評ではない。チェリビダッケについて何度か書いたので、どうしてもフルトヴェングラーについて触れざるをえなくなった。チェリビダッケは、フルトヴェングラーがナチ協力の嫌疑で裁判にかけられて、演奏を禁止されていた時期に、代役としてベルリンフィルを指揮していた。フルトヴェングラーが復帰してからも、フルトヴェングラーが死ぬ直前まで、一緒にベルリンフィルの指揮者であったが、フルトヴェングラーが終身常任指揮者になったとき、チェリビダッケも同時に指揮者になることを望んだようだ。が、オケとチェリビダッケの関係が決裂し、チェリビダッケが去ったことによって、その後ただ一度の例外を除いて、ベルリンフィルとチェリビダッケは関係をもつことはなかった。ただ、フルトヴェングラーとの関係は、その決裂後直ぐにフルトヴェングラーが死んだために、壊れることはなかったようだ。チェリビダッケは終生フルトヴェングラーを尊敬し続けたと思われる。 “読書ノート『フルトヴェングラー』脇圭平・芦津丈夫” の続きを読む
オリンピックそのものをやめよう
オリンピックの雲行きが怪しくなってきた。むしろ、多くの人がオリンピックを予定通り開催するのは、無理ではないかと思い始めている。アスリートたちですら、予定通り行うと宣言したIOCに抗議をしている。もともと、無理なオリンピックだったのだと思う。このブログで何度か書いたように、私はオリンピック反対派である。オリンピック招致を、熱心に政治家や東京都が行っている時期に、実は、世論の多数は、オリンピック招致に反対だったのだ。特に、東日本大震災が起きてからは、オリンピックどころではないだろうという意識が大半だったといえる。そのことを、大人の世代なら忘れていないだろう。 “オリンピックそのものをやめよう” の続きを読む
親を自宅で看取ることの「覚悟」とは
「『呼吸が止まっても救急車を呼ばない』親を自宅で看取る側の覚悟」という「女性セブン」の記事が掲載されている。https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200317-00000005-moneypost-bus_all
ずっと以前から、ボケても病院にいれないで、と何度もいわれていた娘が、在宅医療を利用して、自宅で看取ったという話である。ただ、記事によれば、在宅医療を知って、大学病院を退院し、自宅に連れ帰ったとあるから、それまでは入院していたのだろう。
そして、25年間在宅医療に携わってきた院長が、「最後まで治療する大学病院よりも、在宅は圧倒的に平穏死を迎えやすい。終末期には食べられなくなるのが自然だが、病院では点滴をするので苦しくなる」と語っている。
もっとも、誰でも平穏死を迎えられるわけではなく、いざというとき、親族が救急車を呼んでしまうこともあるという。そして、よい在宅医を探すことが重要という結論になっている。
このようなことは、もちろん確かだろう。しかし、いかにも予定調和的な文章で、そうはいかない場合も少なくないことを、きちんと書き、多様なあり方のなかで、普段からとるべき道を考え、そのために何をする必要があるのかを準備する必要があるとしなければならない。 “親を自宅で看取ることの「覚悟」とは” の続きを読む
大学蔵書の廃棄 場所がないときはどうすればいいのか?
朝日新聞2020.3.17に、「『大学蔵書を大量廃棄』梅光学院に作家ら106人抗議」という記事がでている。山口県下関にある梅光学院大学が、図書館の蔵書を廃棄していることに、作家たちが抗議しているという記事だ。
記事によれば、大学は、36万冊の蔵書があるが、7年前から25000冊減っているという。「梅光学院大学図書館を守る会」という団体が、抗議しているわけだが、おそらくその団体の話だろうと思うが、
・大学の研究論文や調査報告書を掲載した紀要7-8万冊がすべて廃棄されている。
・資料価値のある新聞縮刷版や辞書辞典類、図録、江戸後期の和古書などの廃棄を確認。
ということのようだ。そして、記者会見で、「本は大学だけのものではない。日本の歴史が詰まっている。電子書籍もあるが図書館という根本のところで紙で所蔵しないのは問題だ」と指摘したという。そして、中原館長自身が、「図書館は未来の読者への責任を負っており、無秩序な廃棄はやめるべきだ」と述べたという。
さて、この記事をみて、みなさんはどう思うだろうか。 “大学蔵書の廃棄 場所がないときはどうすればいいのか?” の続きを読む
「宿題」というテーマから考えること
『教育』を読むということで、今月号の特集テーマである「宿題」についての文章の検討をした。せっかくなので、私自身の考えや体験を書いてみたい。
宿題をだすことの意味は、いろいろあるのだろうが、大学でも宿題をだす教師はいるし、私自身、かつて、非常にきつい宿題をだしていたことがあった。また、定年まで、教科書を自分で作成して、それを事前に読むことは、日常的な授業での課題としていた。明確な宿題ではないが、似たようなものだったろう。ただし、提出などはもちろんないのだが。
かなりきつい宿題については、「最終講義」のなかで若干触れているが、再度紹介する。大学の一年生が主に受講する「生涯教育概論」という授業で、「自伝」を書かせていたことだ。年間の宿題として出し、主に夏休みなどに書くようにさせていた。秋になるとぼちぼちだしてくるので、今考えると、書く方もずいぶん大変だったろうが、読む自分もずいぶんと大変な作業をしていたことになる。間違いなく、これは全部読んだ。レポート用紙20枚が最低基準であり、それ以上いくら書いてもいいということにしていた。この宿題を最初の授業でだすと、当然驚きの声があがるのだが、実際に書き始めると、だんだん興味深くなるようで、40枚くらい書く学生もたくさんいた。 “「宿題」というテーマから考えること” の続きを読む
『教育』2020.4を読む 宿題を考える2
研究者とジャーナリストの次に、小中の教師と保護者、塾の運営者の宿題論が続く。
まず、中学教師の柳井良壽氏の「子どもの学びを励ます」は、朝授業のために教室に入ると、前の時間の教師だろうか、宿題を忘れた生徒を叱っている場面に出くわす。宿題を忘れたケン→明日やってきて、朝一番に提出すると約束→してこなかったので叱責という状況だった。そして、その教師は、「約束を守れない人は人から信頼されない」「友達がいなくなる」といって説教する。
しかし、柳井先生は、このやりとりに違和感を感じているようだ。宿題を提出できない生徒はいつもいる、子どもの生活が忙しすぎる、自分の時間をもっていない。こういう状況で宿題などできない生徒がいても、仕方ないのではないか。
宿題などださなくても、勉強してくる主体的学びができたらいいのに、と他の教師に語ると、そんなの理想だよと一蹴される。 “『教育』2020.4を読む 宿題を考える2” の続きを読む
チェリビダッケのリハーサル3
チェリビダッケは、映像などを見れば見るほど不思議な人物に思えてくる。そういう意味では、カルロス・クライバーと双璧だろう。クライバーは、父親の反対を押し切ってまで、指揮者になったのに、指揮することを拒むような指揮者になっていった。小沢征爾は、クライバーのことを、「彼は、いつも、予定された演奏会を、どうやったらキャンセルできるか、その理由を探していた」と述べている。本当にささいなことで、キャンセルしている。ベルリンフィルを初めて指揮することになっていたときに、「新世界交響曲」の楽譜を、新しく買ってほしいと事務局に注文を出し、新しい楽譜に、自分の注意書きを転記してほしいのだと言い添えた。ところが、事務局では、その要求に応えるには時間がかかりそうだということで、いつも使っている楽譜(パート譜のこと)にある書き込みをきれいに消し去って、とりあえずきれいな状態にしていた。ところが、早めにやってきたクライバーは、そのパート譜を見たとたんに、新しくないではないかと憤って、そのまま帰ってしまったというのである。予定通り、演奏旅行から帰って、練習会場にやってきたメンバーを待っていたのは、指揮者がいない状況だった。そうした事態を引き起こした事務員は、カラヤンに、このような対応で間違っていたかと質問したところ、カラヤンは、まったく問題なかったはずだ、パート譜はきれいになっているし、と答えたそうだ。次にクライバーが指揮することになったときには、この事務員を、クライバーから目につかないところに退避させたという。 “チェリビダッケのリハーサル3” の続きを読む
『教育』2020.4号を読む 宿題をどう考える
『教育』4月号の第二特集が「たかが宿題 されど宿題」となっている。宿題は、教師にとって非常に悩ましい対象だろう。宿題などださなくても、子どもたちみんなが必要な家庭学習をきちんとやって、学力が確実についていけば、理想的だ。しかし、現実はそれにはほど遠いのだから、宿題をださなければならない気になるし、また、家で勉強するように、たくさん宿題だしてくださいという親もいるだろう。そうすると、子どもにとっては重荷になるわけだから、「何故宿題だすの」という疑問もだされて、それに答えなければならないし、また、だして来ればそのチェックも必要だ。ださない子どもには、催促もしなければならないだろう。子どもにとって重荷であるように、教師にだって重荷であることに変わりはない。
この特集の最初に、編集部の書いた文章が掲載されており、そこには、「させられる教育という言い方に収斂しない、学習としての宿題について問い返してみたい。」と書かれている。しかし、興味深いことに、最初に書かれている丸山啓史氏の「宿題のどこが問題か」と杉原里美氏の「家庭を巻き込む親子参加型宿題-家庭教育の推進を背景に」のふたつが、宿題に極めて否定的な立場から書かれており、そのあとの5つの文章は、宿題に疑問をもちながらも、積極的な意味の模索も感じられる。丸山氏は、大学の教師であり、杉原氏は、朝日新聞の記者である。そのあとは、教師、親、地域活動家である。 “『教育』2020.4号を読む 宿題をどう考える” の続きを読む
神戸教師間いじめの起訴 「寛大」には疑問
神戸新聞2020.3.122に、「教員間暴行の加害教員4人、なぜ起訴されなかった? 兵庫県警内でも意見割れる」という記事が載っている。昨年の教育界での事件として話題となった、教師が教師に継続的ないじめ行為をしていた事件で、警察内で扱いに関して意見が分かれ、「起訴猶予」を求める「寛大」という処分意見が付されて、送検されたようだ。刑事罰を課すべきであるという世間の意見が強かったが、「物的証拠が乏しい上に4人の加害の意識は薄く、2人は職を失った」というのが、その判断の根拠とされる。
被害教員は、100項目にわたるハラスメント行為を訴えたが、加害教員は、「ふざけ合いの延長だった」と犯意を否定し、「動画以外の明らかな物的証拠がない」と立証の難しさをあげたとする。より厳しい措置を求める捜査員もいた。
これに対して、逆といえる処分もあった。一般的に公務員が犯罪の疑いをもたれたとき、刑事処分が決定されるまでは、「推定無罪」が適用されて、実際の仕事を解かれることはあっても、正式な処分はくだされない。しかし、この事件では、処分を待たずに、懲戒処分がくだされている。それに対して、弁護士から不当であるとの申し入れもあった。 “神戸教師間いじめの起訴 「寛大」には疑問” の続きを読む