読書ノート『フルトヴェングラー』脇圭平・芦津丈夫

 表題の『フルトヴェングラー』(岩波新書)を読んだが、本稿は、その紹介とか音楽論的な批評ではない。チェリビダッケについて何度か書いたので、どうしてもフルトヴェングラーについて触れざるをえなくなった。チェリビダッケは、フルトヴェングラーがナチ協力の嫌疑で裁判にかけられて、演奏を禁止されていた時期に、代役としてベルリンフィルを指揮していた。フルトヴェングラーが復帰してからも、フルトヴェングラーが死ぬ直前まで、一緒にベルリンフィルの指揮者であったが、フルトヴェングラーが終身常任指揮者になったとき、チェリビダッケも同時に指揮者になることを望んだようだ。が、オケとチェリビダッケの関係が決裂し、チェリビダッケが去ったことによって、その後ただ一度の例外を除いて、ベルリンフィルとチェリビダッケは関係をもつことはなかった。ただ、フルトヴェングラーとの関係は、その決裂後直ぐにフルトヴェングラーが死んだために、壊れることはなかったようだ。チェリビダッケは終生フルトヴェングラーを尊敬し続けたと思われる。
 フルトヴェングラーについて、簡単に紹介しておくと、1886年ベルリンに大学教授の子どもとして生まれ、早くから天才といわれていたが、36歳でニキシュのあとをうけて、ベルリンフィルの常任指揮者となり、ナチとの関連でわずかな不在時期があるが、終生その任にあった。多くの評価で、20世紀最高の指揮者といわれている。「楽譜に忠実」という演奏スタイルではなく、作曲家が真に意図したことを表現する指向性をもった指揮者だった。ただし、ステレオ時代になる前になくなったので、現在残されている録音は、すべてモノラル録音で、鮮明とは言い難い。
 今回は、この書物の次の文章に疑問があるので、その検討を行いたい。
 「ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは途方もなく純粋な人間であった。この純粋さは、芸術の真正さを信じ、これをどこまでも貫こうとする彼の一徹な心情にもつながる。・・彼はトスカニーニの『ナチの国で指揮する者はすべてナチだ』と決めつける攻撃に対し、毅然として『芸術は政治に支配されない』と反駁している。・・・フルトヴェングラーは、ずっと後の時代、ナチスの非道ぶりが覆い隠しようもなくなった時代まで、人間本性の善と純粋さを信じ、寛容の立場を貫こうとしていた。それは恐るべき偉大さでもあるが、そこに底抜けのオプティミズムと政治感覚の欠如を指摘されたとしても無理からぬことであろう。」
 フルトヴェングラーは、本当に純粋で、政治感覚がなかったのか。ナチのドイツに留まったのは、純粋さと政治感覚の欠如が原因だったのか。
 ナチスの体制で活動していた芸術家たちの身の処し方には、いくつかあった。まずユダヤ人であったために、亡命を余儀なくされたひとたち。ワルター、クレンペラーなど多数いる。ユダヤ人でない人の少数が、ナチを批判する立場から亡命したり、あるいは外国に移住してドイツを去った。指揮者ではカルロス・クライバーの父親のエーリッヒ・クライバーが代表的な人だろう。作家ではトマス・マンがいる。ドイツ人の多くの音楽家や作家は、ドイツに留まって活動を継続した。そのなかには、新たに地位をえるためには、ナチス党員になることが必須であったので、党員になり、戦後ずっと批判され続けたカラヤンなどがいるが、既に地位を得ていたひとたちは、党員になることはなかった。多かれ少なかれ、ナチスの宣伝に協力させられることになった。そのもっとも代表的な人物が、フルトヴェングラーだったわけである。フルトヴェングラーのような大物であれば、当然アメリカに亡命しても、歓迎され、より豊かな富をえることが可能だったろう。にもかかわらず、ドイツに留まり、そして、ナチスが積極的にフルトヴェングラーを利用した。ユダヤ人音楽家をかばったり、あるいは亡命を助けるなどの活動をし続けたことは事実であり、決して、心からナチスを受け入れていたわけではない。私は、ナチ協力という理由で、フルトヴェングラーを非難するのは、実際にそうした状況におかれたわけでもない「安全圏」からの批判であると思う。
 また、フルトヴェングラーが、まったく政治的なことがわからず、純粋に芸術の価値を信じていたために、自分のやっていることがわからなかったというのも、事実ではないと思う。やはり、どんなに酷い政治であっても、ドイツのひとたちのために音楽を届けたいという気持ちと、確かにユダヤ人を救う力があるのは自分だという自負はあったのではないか。ワルターもずいぶんと助けられたはずである。そういう努力があったからこそ、戦後になって、ナチ協力を過度に責められたことに対して、怒りを感じたのだろう。特に、シカゴへの客員の際、アメリカのユダヤ人音楽家たちの猛反対によって、客員が妨害されたことはショックだったようだ。自分が援助したユダヤ人音楽家もそこに加わっているではないかと。ただ、その反対活動に加わらなかったワルターに、フルトヴェングラーは救いを求めたが、そこに表現されたフルトヴェングラーの認識に、ワルターは冷やかな反応をしていることも事実だ。
 戦時中のフルトヴェングラーの生き方やナチスとの付き合いについては、自分の自由になるわけではなく、かなりが強制されていたから、強くその責任を問うことはできないと思うが、まったく自由になって活動を再開した戦後の行動をみると、私は、フルトヴェングラーが純粋で非政治的な人物とは思えないのである。そもそも世界のトップオケに終身で、音楽監督を勤めることが、非政治的な人物にできることだろうか。
 実際に、フルトヴェングラーは、人生の初期と、晩年に、極めて純粋とは言い難い動機で、政治的ともいうべき振る舞いをしている。ニキシュが死んだとき、後任は、多くの人がワルターだと思っていた。当時ワルターは、ドイツ人指揮者として、もっとも活躍していたし、フルトヴェングラーは非常に若かった。他に候補がいなければともかく、有力なワルターという働き盛りの優れた指揮者がいるのに、まだ経験が浅い、30代半ばの人物が選ばれるのは異例である。具体的にはわからないが、フルトヴェングラーがかなり「運動」をして、常任の地位を得たといわれている。フルトヴェングラーの父はベルリン大学の有名な教授で、おそらく様々なつてがあったろう。そういうところに働きかけたのではないだろうか。そのことを非難するつもりはないが、少なくとも、かなり政治的な動きができる人であることがわかる。
 そして、問題は戦後である。
 フルトヴェングラーと同様に、ナチの関係が問われたカラヤンは、公式の演奏会を行うことが禁止されたが、EMIのワルター・レッグがカラヤンの才能にほれ込み、レコーディングなら禁止されていないという理屈で、盛んにウィーンフィルを使った録音を行うことができた。フルトヴェングラーより一足先に、演奏活動を再開することができたのである。そして、遅れて復帰したフルトヴェングラーは、カラヤンに対する執拗な妨害活動をすることになる。(続く)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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