オリンピックの雲行きが怪しくなってきた。むしろ、多くの人がオリンピックを予定通り開催するのは、無理ではないかと思い始めている。アスリートたちですら、予定通り行うと宣言したIOCに抗議をしている。もともと、無理なオリンピックだったのだと思う。このブログで何度か書いたように、私はオリンピック反対派である。オリンピック招致を、熱心に政治家や東京都が行っている時期に、実は、世論の多数は、オリンピック招致に反対だったのだ。特に、東日本大震災が起きてからは、オリンピックどころではないだろうという意識が大半だったといえる。そのことを、大人の世代なら忘れていないだろう。
メディアは当初から、オリンピック招致のひとつの主役だった。しかし、メディアと国民の意識の乖離ともいうべき現象が、鮮明にでたある場面を、私はよく憶えている。安倍内閣に批判的な傾向が強かったために、強引に番組をなくされてしまった「荒川強啓デイキャッチ」という番組があった。安倍批判をしているラジオ番組でも、オリンピック招致には熱心だった。あるとき、国民の願いでオリンピックを、というようなキャンペーンの一環として、番組で意見聴取をした。そして、多数の賛成、期待のメッセージが寄せられると思いきや、反対派が多数を占めた。その結果を報道するとき、荒川強啓氏は、いかにも苦虫をつぶしたような声で、反対の声が多くなりましたといって、そのまま話題を打ち切ってしまったのである。いつごろかは忘れてしまったが、もちろん、まだ招致が正式に決まる前のことだ。これが、国民の声だったのである。そのことを忘れるべきではない。
東京オリンピックは、招致の段階から、いかにもおかしなものだった。なんといっても、福島原発事故の始末がまったくつかない段階で、国際的危惧があったが、安倍首相が、「原発は完全にコントロールされている」と、堂々と演説したわけだ。これを聞いて、国民のほとんどはびっくりしたはずである。今だって、コントロールされていないことは、周知の事実だ。汚染水がいよい貯蔵するスペースがなくなって、なんらかの形で対処しなければならない限界に来ている。そして、政府としては、薄めて海に放出する方法をとるのだろうが、さすがにオリンピック前に実施することはできないので、オリンピックが済んだら、どんどん海に放出するに違いない。オリンピック招致の段階では、汚染水がこのようになることは、想定していなかったのかも知れない。少なくとも内閣の構成員は。
もうひとつの驚くべき発言は、当時の猪瀬東京都知事が、「福島は東京から200キロ離れているので安心です」と述べたことだ。これも心底驚いた。まともな人間がいうことだろうか。
こんな演説ばかりではなかったが、とにかく、このふたつの発言は、あまりの良識のなさで目立った。
招致が決定してからも、迷走が続いたことは、多くの人が憶えているだろう。エンブレム問題、会場問題、国立競技場の費用問題、そして、築地からの移転問題等々。
さらに、実際に行われたとしても、夏の暑さ問題で、危険なことが起きうることは、充分に予測されている。心配なのは、決してマラソンと競歩だけではないのだ。暑さ問題は、日本人なら誰だって危惧することだ。今よりずっと涼しかった前回の東京オリンピックですら、暑いという理由で、10月開催だったのである。10月体育の日(かつては10日に固定されていた)が、1964年のオリンピック開催の日だったことは、周知のことだろう。当時よりも夏場は5度くらい暑いのだから、「日本の夏は温暖でスポーツに適している」などというのは、よくもいえたものだと、逆に感心してしまう。
さて、では、何故これほどまでにオリンピックをやりたいひとたちがいるのだろうか。それは、オリンピックが明確に、ある種の分野のひとたちにとっての大きな利権だからである。建築業界、メディア、政治家、そしてスポーツ選手やその関連企業、観光等々。そうしたことの細かなことは、今回は述べない。今進行している事態とオリンピックをどう考えるか。
当初厚労省に、新型コロナウィルス対策を丸投げしていたような安倍首相が、突然、全国の小中高の学校を休校にするようにいったのは、IOC委員のなかの有力者が、東京オリンピックの非開催の可能性を発言したことのショックであったことは、今では否定しようがないだろう。あれから、とにかく、まるで違う人物のように、表面的には熱心に取り組むようになっている。支持率の低下とオリンピックへの対策が必要だと自覚したからだろう。もちろん、学校の休校措置は、ありうることであり、それ自体が間違っているわけではない。しかし、それを命じた動機と、まったく準備もせずに発作的に言い出したことが、本当に情けないことだ。充分考えもせずに、とにかく「やっている感」を出すための方策であったことは、記者会見で、事実上質問を許さず、逃げるように引き上げたことでわかる。準備なしに行った休校措置の経済的マイナス、そして、安請け合いしている感じの補償で、今後大きな困難が起こるだろう。
また、IOCの会長は、安倍首相よりも頑固に東京オリンピックの予定通りの開催を主張している。それは、予定通りに開催しないと、IOC予算の多くを占めるアメリカテレビの放映権料がはいらないからだろう。たとえば10月に延期すれば、アメリカのテレビ局が、大幅に放映を削減し、IOCに放映権料が減額されてしまうから、彼らにとっては、年内延期は不可能なのだ。
考えてみれば、こんなことで動かされるオリンピックなるものが、本当に必要なのだろうか。オリンピック自体が、ロサンゼルス大会以後、商業主義に変化し、その性格がまるで違うものになった。以前は、もっとこじんまりとしたものだったし、テレビ放映によって、競技の時間が左右され、選手にとってはかなりきつい時間帯に試合が行われるなどということは、かつてはなかった。オリンピックは、「映画」として撮影され、各国で上映されるものだった。だから、国際的なスポーツの大会であったにせよ、世界中で同時に観戦するような放映はなく、観戦する人は、実際にそこにいる観客だけという、実施形態は主催地でのローカルな競技大会だった。今や、利権構造は、いろいろなところに及んでいる。たとえば、競技場については、かなり厳しい「規模や施設」に関する条件がつけられているようだ。だから、前回の大会で使用した会場は、その基準にあわないために、そのままでは使えない。だから、建て替えたり、新築しなければならない。だから、経済的に豊かな国しか開催できず、立候補の都市も非常に減っている。
あらゆる生物に「死」があるように、社会的な制度や催しにも、終わりがあるのではないか。「死」は決して、その生物が全体としてなくなるわけではなく、新しい生命に転化していくことであるように、制度も新しくなる必要がある。オリンピックもそういう時期なのではないだろうか。以上書いたようなオリンピックへの疑問よりも、もっとも強い疑問は、スポーツが国家を代表するものとして、競われることである。以前、「日の丸のために競技をしているわけではない」といって、散々叩かれたアスリートがいた。しかし、本音は、多くのオリンピック選手がそうなのではないだろうか。スポーツは、個人が自己の限界に挑む営みであって、何か他のもののために行うものではない。また、それを見る側も、そうした極限的な技を見ることの感動を求めている。スポーツの国際大会は、多くが「国家」を背負っているわけではない。国家を背負うことによる歪みを、いろいろと感じる。
オリンピックそのものへの疑問を、もっと追求していきたいと考えている。