教育実習の授業をみて 学校文化への疑問

 今、教職課程を履修している4年生は、多くが教育実習の期間中だろう。今週2人の実習の授業を見にいった。いろいろと考えたところがあるので、それを書いてみる。しかし、以下の文章は、今週見た実習生の授業に対する評価ではない。むしろ、普段から感じている日本の学校教育の「教え方」に対する疑問に関するものである。それが現われていたということだが、それは、ほとんど日本の学校教育文化ともいうべきものであり、その授業の欠点と認識されるものではない。授業そのものは、学生としてはとてもよかったと思うし、子どもたちもよく反応していた。
 まず「国語」。国語の授業では、決まったパターンがあるようなのだ。新しい文章にはいると、まず全文を読む。そして、新しい漢字を書き出して、読みと意味を確認する。意味のわからない言葉を辞書で調べる。次に、段落分けをする。それから、分けた段落にそって、文章の解釈をしていく。もちろん、みながこのように統一されているわけではないだろうが、多くのパターンがこのようになっていると思われる。
 実習の授業は、「段落分け」だった。そして、私が普段から最も疑問に思っていることが、この段落分けのやり方なのだ。 “教育実習の授業をみて 学校文化への疑問” の続きを読む

グレータ・トゥンベル 気候変動デモで数々の栄誉

 何度か紹介したスウェーデンの少女グレータ・トゥンベルが、またスウェーデンの新聞で扱われているので、紹介をしたい。
 日本でも、いくつかの新聞で紹介されたが、気候変動に関するパリ条約を、きちんと履行しようとしない政治家たちに抗議して、昨年からグレータが始めた運動が、世界に広まって、いまでも、勢いという点では弱まっているが、むしろ大人にも影響して、確実に定着しつつあるといえるものである。
 記事は、För ett år sedan gjorde hon debut som debattör i SvD. Nu är Greta Thunberg världskändという題で、説明を加えながら、グレータの発言やインタビューを載せている。Svenska Dagbladet の2019年6月3日付け、筆者は、Henning Eklundである。
 昨年5月31日に、はじめてこの新聞に登場したという。

 「みなさんが、何をして、何をしないかが、私たちの孫や曾孫たちに影響を与えるのです。おそらく彼らは、何故しなかったのか、何故知っているのにしなかったのか、という問いかけをするでしょう。」 “グレータ・トゥンベル 気候変動デモで数々の栄誉” の続きを読む

学校教育から何を削るか12 教師の階層性

 教育行政学では、古典的な論争として「重層構造論」と「単層構造論」というテーマがある。古くは、東京教育大学の伊藤和衛が前者、東京大学の宗像誠也が後者の代表的な論者だった。今は、法的に前者が規定されているから、表立った論争はほとんどないようだが、理論的な問題としては厳然として残っており、後者の立場にたつ者からみれば、改革の必要性が大きい課題となっている。
 端的にいえば、「重層構造論」とは、校長をトップとして、教師が階層的に位置づけられ、ラインの命令系統で仕事をすることが、最も学校の目的をよく達成できるとする論である。それに対して、「単層構造論」とは、校長以外の教師はすべて平等な立場であり、係やその責任者は随時交代して行うのが、学校として最もよい教育ができるとする論である。
 教育組織として見れば、単層構造論が正しい。単純に、学校の主要な構成員である教師は、みな同じ仕事をしているからである。つまり、基本的に、自分の教えるべき教科について教え、担任としての役割を果たす。このふたつの機能において、新人もベテランもなんら変わらない。 “学校教育から何を削るか12 教師の階層性” の続きを読む

川崎事件を考える 「一人で死ね」論争、藤田提起に関して

 川崎での事件は、教育学の人間としては、何よりも、登校中であり、しかも、最も安全な登校方法であるとされてきたスクールバスに関連して起きたこと、更に、学校関係者が警戒し、何人か保護者もいた中で起きた事件であるという点が、最大の考察課題となる。しかし、ここまで瞬間的ともいうべき短時間で犯行をされては、対応を考えることも難しい。これは対応のしようがないという人も少なくなかった。当日見守るためにそこにいた人もいるということであれば、(まさかあのようなことが起きるとは思っていなかったので、警戒をしたわけではないのだろう。)武器をもつわけにはいかないから、学校のように、刺股でももち、全方位を見守っているしかないのかも知れない。警官に見回ってもらうことができれば、ベストだろうが、「警官見回り中」との看板を立てておくというのも、若干の抑止にはなるかもしれない。
 この点については、別途考察したいので、今回話題になっている件について書きたい。
 川崎での事件をきっかけに、「一人で死ね」という書き込みがSNSに殺到し、それに対して、藤田孝典氏が、制止する書き込みをヤフーにしたことで大論争になっている。当初2チャンネル等での議論(圧倒的に、「一人で死ね」派が優勢)、ワイドショーでのやりとり、そして、新聞やブログでの多少落ち着いた記事と移ってきた。
 私は、「一人で死ね」「巻き込むな」という感情はもちろんもっているが、それを生の形で表明しようとは思わない。もっと事態を分析したいと考える。他方、藤田氏のような書き方にも、違和感がある。 “川崎事件を考える 「一人で死ね」論争、藤田提起に関して” の続きを読む

『教育』を読む2019.6 市場化する学校4

 前2回は、かなり批判的な検討になったが、今回は、ほぼ全面的に賛成である。取り上げるのは、
 錦光山雅子「家計を直撃する『学校指定物品』制服報道からみえた消費者問題」
 中村文夫「激化する格差の連像 家庭と地域の経済格差と教育」である。
学校指定の曖昧さ
 錦光山氏はジャーナリストで、制服等にかかる費用と、指定に関わる問題を明らかにしている。氏がこうした問題に関心が向くようになったのは、2014年9月24日に千葉県銚子市で起きた母親が中2の娘を殺害した事件であるという。母親の非正規労働、児童扶養手当、元夫からの養育費(遅れがち)でかろうじて生活をしていたが、中学入学に際して必要とされた費用を、ヤミ金融からの資金でしのいだが、取り立てで家計が崩壊し、公営住宅を強制退去させられる日、娘を殺害したという事件である。年収は100万円程度で、市も生活の困窮状況は把握していたようだが、生活保護の申請については、用紙をわたすのみで、説明などはあまりしなかったとされ、また、公営住宅の家賃については、減免措置があるのに、それを知らせなかったとされている。もし、減免されていたら、この悲劇は起きなかったし、また、それほど滞納していたわけでもないことがわかっている。 “『教育』を読む2019.6 市場化する学校4” の続きを読む