カテゴリー: 教科研『教育』を読む
『教育』2020.10号を読む 山本宏樹「インターネットを生きる子どもたち-その保護と教育」
山本宏樹氏の「インターネットを生きる子たち-その保護と教育」を取り上げたい。
一読して、正直なところ、憂鬱な気分になった。ここに書かれていることは、間違っていない。子どものネット利用に関して、様々な数値が書かれているが、そういう調査があるのだろう。ネット利用の光と影についても、例が出されている。これも、そういう事実があるのだろう。そして、終りのほうに、優れた実践が書かれている。
では、何故憂鬱な気分になるのか。
間違ってはいない「事実」が書かれ、優れた実践が紹介されているからといって、適切な方向性が示されるわけではないという、極めて典型的な文章だからである。私の知人は、こうした文章は、ICT活用に対するラッダイト運動だと評している。私は、そこまで言う気持ちはないが、しかし、いいたくなる気持ちはわかる。 “『教育』2020.10号を読む 山本宏樹「インターネットを生きる子どもたち-その保護と教育」” の続きを読む
『教育』2020.9号を読む 神代健彦「『能力と発達と学習』をゆっくり読む」の検討
『教育』2020.8号を読む 荒井文昭「現場で決める--教育の自由を支える民主主義のかたち
『教育』2020.8号を読む 戦争の社会認識を育てる実践
今回取り上げる文章について、かなり批判的色彩が強いが、実践そのものを否定しているわけではなく、優れたものだと考えている。批判はあくまでも、価値ある文だと思うので行うものであることを、最初に断っておきたい。
中山京子「教師の社会認識を育てる--海を越える取り組みから」を取り上げる。中山氏は、小学校の先生を11年やったあと、大学で教職課程担当の教員をしている。中山氏の文は、教職をとる学生に対する採用試験の学習と大学の学問との関連、日米の教師で英語でのパールハーバーとヒロシマを考えるワークショップ、グアムへのスタディ・ツアーに関する三つの柱で構成されている。それぞれ興味深い提起がなされているように思われる。しかし、それぞれに若干の疑問も感じるのである。 “『教育』2020.8号を読む 戦争の社会認識を育てる実践” の続きを読む
『教育』2020.8号を読む 佐久間建ハンセン病学習
特集1の「社会の課題に向きあう教師たち」の最初の文は佐久間建「教育実践から社会認識へ--ハンセン病人権学習を進めるなかで学んだこと」で、筆者は小学校の教師で、『ハンセン病と教育』という著書がある。
佐久間氏がハンセン病と出会ったのは、勤めた小学校の近くにハンセン病施設があったからだ。1993年のことで、96年に廃止された「らい予防法」がまだあったので、「おばあちゃんが全生園にいってはいけない」と言われている子どもがいたそうだ。
ハンセン病はかなり古い時代から知られていた病気で、聖書などにも出てくるそうだが、感染力は極めて弱く、それほど恐れられていた病気でもなかった。この文章では触れられていないいが、社会的な差別の対象になったのは、明治時代からである。歴史的に有名な人では、関ヶ原合戦で最も奮戦して敗れた大谷善継がいる。殿様だったということもあるだろうが、尊敬され、高く評価された戦国武将だった。つまりハンセン病が大名として活動することの妨げにはならなかったわけである。 “『教育』2020.8号を読む 佐久間建ハンセン病学習” の続きを読む
『教育』2020.7号を読む オリパラとナショナリズム2
昨日に続いて、今回は石坂友司氏の「オリパラが生みだすナショナリズムを考える」を考えたい。
石坂氏は、オリンピック・パラリンピックとナショナリズムの関わりについて、ポジティブな面もあると断りながら、ネガティブな部分を強調する形になっている。ポジティブ面はほとんど書かれていない。私には、スポーツがナショナリズムと結びつくことのポジティブな側面というのは、思いつかない。昨日書いた、当初のオリンピックの価値を見ても、むしろナショナリズムを越える部分に意味があるといえる。国籍を越えて讃えあうとすれば、オリンピックとしての感動的な場面となるだろうが、勝った相手が違う国籍であるから、祝福しない、あるいは逆に、自分たちの国が勝者になったからうれしい、というようなことは、そんなにポジティブな価値とは思えない。 “『教育』2020.7号を読む オリパラとナショナリズム2” の続きを読む
『教育』2020.7号を読む オリパラとナショナリズム1
7月号は、オリンピック・パラリンピックとナショナリズムの関係を論じた論考が二つある。 森敏生「オリパラ教育のあり方を再考する」と 石坂友司「オリパラが生みだすナショナリズムを考える」だ。前者が、オリパラ教育を基本的に推進する立場、後者が疑問を呈する立場で、方向性が異なった文章だ。『教育』としては、比較的珍しい現象で、私はとても好ましいと思う。教育科学研究会といえども、見解は多様でかまわないはずであり、異なった意見をぶつけ合うことで、新しいものが生みだされていくとしたら、教科研の発展のために、とてもいいことだと思う。
オリンピックがナショナリズムの高揚に、政治的に利用されていることは、疑いないところだ。オリンピックやスポーツの推進に、極めて熱心な人なら、それに疑問を感じないかも知れないが、私のような、スポーツ好きではあるが、あくまでも趣味だと思っている人間にとっては、過度のオリンピックの入れ込み、そして、それがナショナリズムと結びつくことについては、やはり、疑問を強く感じる。 “『教育』2020.7号を読む オリパラとナショナリズム1” の続きを読む
『教育』2020.7を読む ナショナリズムと歴史と教育3
いよいよ、ナショナリズムと能力主義を超える方法を探る部分になった。ナショナリズムは、国民に一定の居場所を提供するが、余裕がなくなると、容易に排外主義に転化してしまう。そうならないために、どのような原則が必要か。
佐藤氏は、まず、能力主義を乗り越える原理を探る。氏は次のように述べる。
「学校教育がその子ども一人ひとりの得意なことを見つけさせ、その能力を活かし発揮させるように導きその子たちに生きる自身をもたせることこそが、教育の原点ではないのか。そうした能力形成を軽視し、受験競争のための知識獲得だけに駆り立てることが、どれほど重要だというのであろう。」
そうした具体例として、電気製品の修理の技術をもっている、歌や踊りにみんなが驚嘆する、料理や大工がとてもてきぱきとできる、そういう生活能力が、学校教育をきっかけに発揮されるようになることを期待する。 “『教育』2020.7を読む ナショナリズムと歴史と教育3” の続きを読む
『教育』2020.7を読む ナショナリズムと歴史と教育2
前回は、津久井やまゆり園で殺傷事件を起こした植松聖に関する佐藤氏の分析に、多少の疑問を呈した。今回は、そこを引き継ぎつつ、次の部分に進みたい。
植松は、「経済発展に寄与しない人間は存在理由がない」ということで、殺傷事件を起こしたとされるが、それに対して、佐藤氏は、それが本当なら21世紀は恐ろしい世紀であるとして、そうした観念を生みだした「能力主義とナショナリズム」の批判に進むのだが、私は、そこで一歩留まりたい。もちろん、「経済発展に寄与しない人間」も完全に存在理由があるし、生存権が保障されるべきである。しかし、そのような確認で済ますことができない問題であるとも感じるのである。それは、私がオランダにいたときの経験から考えることだ。 “『教育』2020.7を読む ナショナリズムと歴史と教育2” の続きを読む