『教育』2021年7月号を読む 人材育成は大学教育の役割ではないのか

 『教育』7月号は、第一特集が「大学はどこへ向かうのか」となっている。そして、最初に、基本命題を書いたような文章があるのだが、疑問が出てくる。それは後回しにして、まず書かれていることを箇条書きで整理しておきたい。
 
・21世紀の20年間は、内発的ではなく、外圧による大学改革の時代だった。
・国公立大学の法人化は、大学の自治を解体し、教育・研究の在り方を大きく変えた。
・産・官・学連携は当たり前のことになった。
・役にたつかどうかが、価値を決定し、学問の自由とは相いれない
・この状況をもっとも反映しているのは、教員養成の分野であるかもしれない。
・実務家教員の採用強制など、大学教育への直接的な介入はあとを絶たない。
・大学版学習指導要領である教職課程コアカリキュラムが自由を脅かしている
 
 内発的か外圧かというのは、いろいろな考えがあるかと思うが、決して、大学改革は外圧だけだったとは思わない。大学にとって、改革の必要性を最も強く感じさせたのは、とくに私学では、少子化による大学全入状況だった。端的に「大学冬の時代」と言われ、応募数が大きく減少すれば、存立そのものが危うくなるわけだから、大学もかなり一生懸命、改革に努力したはずである。私の勤務校でも、短大はつぶれてしまったし、専門学校もつぶれた。それらを4年制に吸収する形で改革を行ってきたわけだ。これは、純粋に内発的であったと断定はできないが、少なくとも外圧とはいえない。

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『検証全国学力調査』(教科研)出版記念研究会に出席して

 この本の読書ノートを書いたので、こうした研究会には出席しなければいけないと思い、参加した。Zoomを使ったオンライン研究会で、30名程度が参加していたようだ。基本的には、教科研のひとたちなので、この著書に異論を唱える議論はもちろんないのだが、ひとつ非常に重要な指摘があって、私も教えられるところが大きかった。
 それは、全国学力調査は、学力調査と同時に、学習状況調査を行っており、学校でどのような指導をしているか、あるいは、家庭でどのような学習をしているか、また、さまざまな家庭内の条件などが調査されていて、これは不可分の関係になっており、どのような指導や家庭学習をしていると、どういう問題への正答率が高いか、などという統計もだされる。これは、学校での指導や家庭での親に対するコントロールであって、その点での検討が必要であるのになされていないという、この本に対する批判的なコメントだった。確かに、そういう側面があるだろう。もっとも、点数や順位ほどに、現場の教師に、そうした指導方法、学習方法の指摘が浸透しているかどうかは、かなりあやしいとは思うが、教育委員会や校長の指導によって、少しずつ浸透することは間違いない。

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『教育』2021.4号を読む 教科外担任について

 『教育』2021年4月号に、鈴木大裕「学校における免許外担任の解消を求めます!」という文章がある。鈴木氏は、土佐町の議員をしており、町議会で、上記のような要求を町長に対してぶつけたということだ。土佐町では、長年、美術の専科教員が配置されていないことを踏まえてのものだ。
 鈴木氏は、専門の美術の免許をもった教員がいないことは、子どもの学習権を保障していないのではないか、と町長に迫った。町長は、複数校兼務の担当も含めて、配置してもらうように努力するという回答を引き出した。
 一条校では、正式な免許をもった教師だけが、授業をすることができる。しかし、どうしても、正規の教師を確保できない場合もある。日本のような豊かな国と思われ、かつ教育に熱心な国では、あまり意識されないが、実は、正規の免許をもった教師を配置することができなくて、免許をもっていない教師が教えていることがある。もちろん、まったく免許をもっていない教師が教えることはできないが、異なる教科の免許をもっている場合には、特例として、一年を限度として、多少の講習を受けた上で、自分の免許とは異なる教科を教える事ができることになっている。文科省は、原則として好ましくないとして、削減に努力しているというが、文科省のホームページによれは、平成30年に、約1万人の免許外教師が存在している。少ないとは言えない。

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『教育』2021.3号を読む 「ジェンダー平等教育をすすめるために」3

 多くのひとにとっては、既に解決済みの問題だろうが、自分の考えを整理するために、もう少し続ける。今回は、ジェンダー問題のひとつである選択的夫婦別姓をとりあげる。前にもとりあげたが、今回は、反対の論理の検討に絞って考えてみる。対象は、国会に提出された「選択的夫婦別姓の法制化反対に関する請願」である。実際に、参議院のホームページに掲載されている。
 まず請願書の要約をそのまま引用する。 
 
選択的夫婦別姓の法制化反対に関する請願
要旨
 家族が同じ姓を名乗る日本の一体感ある家庭を守り、子供たちの健全な育成を願う。
 ついては、民法改正による選択的夫婦別姓制度の導入に反対されたい。

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『教育』2021.3号を読む 「ジェンダーの平等教育をすすめるために」(続き)

 前回は、婚姻の形態は文化によって異なることを書いた。しかし、婚姻によって生じる利益は、それほど違いはないように思われる。LGBTsの婚姻を、当事者たちが何故認めてほしいと思うかは、社会が認めている婚姻による利益を、LGBTsが共同生活をしている場合には、認められないからである。では、一般的に、婚姻によってえられるものとは何なのか。同性婚によるメリットの一覧表は、いくつかのサイトで見ることができるが、https://lgbt-life.com/topics/superally18/ で上げられているものを確認しておこう。これは、要するに、現在認められている婚姻によってえられるメリットのことである。
・遺産相続
・配偶者控除
・養子
・離婚における慰謝料、財産分与
・病院での面会
・福利厚生
・配偶者ビザ
・企業内の処遇
 サイトによって項目は異なっているが、要するに、婚姻が法的に成立した場合に、社会的なシステムとして、さまざまなメリットがあるのが実情である。LGBTsに限らず、事実婚の場合には、こうしたメリットがかなり限定され、LGBTsの婚姻は、当然、現在のシステムでは大きく制限されることになる。しかし、ともに生活し、継続していこうと考えているカップルであれば、こうしたメリットを最大限保障していくことが、望ましいことはごく当然のことと思われる。男女のカップルのみに認めるというのは、合理的であるとは思えない。

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『教育』2021.3号を読む ジェンダーの平等

 『教育』2021年3月号の第二特集は「ジェンダー平等教育をすすめるため」で、理論的な論文2つと実践記録がいくつか掲載されている。実践記録は、私としては学ぶ材料なので、特別な場合を除いてコメントすることはない。この特集については、論文的な文章について、若干の疑問を感じる。その点を、羅列的になるが、書いておきたい。
 この特集で、最も不満なのは「ジェンダーの平等」とは何かという点について、コンセンサスがあるという前提があるように思われることである。そして、その前に、実は、特集名を知らされて原稿依頼がなされているはずであるが、必ずしも、ジェンダーに関する文章ばかりではない。性教育やセクシュアリティに関する文章もある。
 私が学生時代や若いころには、sex gender sexuality などを区別して議論するとはいうことはなかったが、いまでは、gender を性についての社会的現象(男らしさ、女らしさ)、sexを生物学的な性、sexuality を性的指向性というように区別して議論するようになっている。ただし、私はそうした専門家ではないので、その使い方が広範囲に受けいれられているかについては、自信がない。とりあえず、上記の意味区分に従っておくことにする。

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『教育』2021.1号を読む 久冨善之「教育実践と教育的価値」を読んで思うこと--学校選択の議論と教育社会学

 本論文は、教育科学研究会教育学部会11月例会での報告に基づくものである。当初、例会での報告表題は「教育社会学と教育実践の不幸な出会い」というものだったと記憶するが、当日になって変更になった。内容が全く変わったわけではないだろうが、多くの部分が削除されたと思われる。私自身は、本来の題目での報告を大いに期待したので、少々がっかりした。つまり、教育社会学が教育実践を扱う困難さについて、掘り下げた報告があるかと思ったのである。というのは、私自身が「教育行政学と教育社会学の不幸な出会い」とでもいうべきことを体験したことがあるからだ。『教育』の本文の検討前に、その点について予備的にまず書いておきたい。本論の検討は、すこし間をおくことになる。
 私の理解では、教育社会学は、教育学全般のなかでは、多少特異な位置を占めていると思う。教育学は、教育価値を前提にした学問だが、教育社会学は、教育価値については、少なくとも科学的方法として、相対化すると、私は理解しているからである。私自身、教育社会学の熱心な学徒ではなかったということもあったかも知れないが、ある時点まで、教育学と教育社会学との相違について、あまり意識していなかった。それを強く意識せざるをえなくなったのは、学校選択問題が生じたときである。2000年前後に東京を中心として、学校選択制度を導入する政策動向があった。そのとき、教育学者にも、賛否両論あったのだが、そのときに、面白い対照に気づいたのである。私は教育行政学の専門で、教育行政学専攻を出たのだが、私の年齢の近い元同僚たちは、多くが学校選択制度の賛成派だった。黒崎勲、三上和夫、村山士郎氏らと私である。佐貫氏のような反対派ももちろんいたのだが。それに対して、教育社会学の人たちは、私の知る限り全員反対派だった。久冨氏もその代表的な論客だった。なぜこのような対立的「傾向」が生じたのだろうか。これが、先述した「不幸な出会い」である。

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『教育』2020.12号を読む 児美川氏の教師のハイブリッド教育評価

 児美川孝一郎「公教育のハイブリッド仕様へ?--自己責任化する学びと教師の働きがい」は、「コロナ禍の今、教員の働き方を問う」という特集の最後に置かれた、いわば教科研的立場の整理という風に読むことができる。おそらく児美川氏は教科研のなかで、最も重要な論客の一人であり、若い世代の教師や研究者に対するリーダーとして活躍している。「教育を読むfacebook」で、1月に重要な講演を行うことが予告されている。そのこともあるので、私としては、この児美川氏の文章については、厳しい見解を表明しておきたいと思う。最近の『教育』を読んでいて、教科研内部には、あまり議論が行われていないように感じる。常任委員会等ではあるのかも知れないが、少なくとも、『教育』の論文では、何か同一方向をみんなが向いている感じがするのである。しかし、本当にそれでいいのだろうか。少なくとも研究者の間では、もっと闊達な議論が行われないと、難しい今後の動向に対する適切な評価と展望は出てこないのではないだろうか。そう考えて、児美川論文には、率直な批判を書かせていただくことにする。期待するからである。
 
 基本的に、彼の見解は肯定できない。後述する児美川氏の論は、普段からICTの活用に消極的であったことが、反映していると考えるからである。しかし、教育学の研究にとって、ICTを最大限活用することは、不可欠のことである。もちろん、活用の仕方は人それぞれだろうが、もし、児美川氏が勤務校における教育活動で、大いに活用してきたのなら、おそらくこの論文で書かれているような立論にはならないと、私は思う。

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『教育』2020.12号を読む 優生思想の克服のために1

 『教育』12月号の第一特集が「優生思想をこえる」である。やまゆり園事件の判決をきっかけに、植松被告の考えである優生思想を、ナチスの思想とだけみるのではなく、現代社会に深く浸透した思想や価値観に関わる課題として引き取ろうという視点で、特集が組まれたということだ。優生思想とは、人間の存在と人格の「全体性」に対して、「役に立つ」「生産性」の有無という「部分」のみをもって価値を計ろうとする思想と定義している。以後、個別の論考に対して考察をすることにして、今回は、特集全体に対する感想と疑問を書いておきたい。
 個々の執筆者には、多少の差異があるが、だいたいにおいて、どんなに重い障害をもっていても、「生きている価値」があり、それを否定した植松の行為を批判する構造になっている。ただし、思想的吟味ということになると、全体が、被害者の立場、つまり、障害をもった弱い立場から論じているので、そこからはみ出す論点については、あまり掘り下げられていないか無視される。そこが残念である。
 まず何よりも、どんな人でも生きる価値があるとするならば、死刑判決を受けた植松については、どうなのだろうか。もし、本当にどんな人でも生きる価値があるならば、彼への死刑判決は批判されていなければならない。何ら触れていないので、おそらく、死刑判決は是認されているのだろう。しかし、死刑を是認すれば、「生きるに値しない人間は存在する」ことを認めることになる。何度もブログでも書いているように、私は死刑否定論者ではないので、極論としては、生きるに値しない人間が存在することを認める立場である。

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『教育』2020.11号を読む 菅間正道「リアルな学び/交わりとオンラインをめぐる一考察」(2)

 
 
 もう少し、「身体性・直接性」「偶発性」「根源的応答性」について、考えてみよう。
 「授業はリアルだ」という感覚から、こうした概念を考えたというから、「身体性・直接性」は、実際にひとつの場所に居て、一緒に学ぶことをいうのだろう。貴戸理恵氏の「(オンラインは)可能。ただし対面とは別のかたちで。その一方でやはり『対面には及ばない』と感じる点もある。それは『余白』と『身体性』が失われることだ」という文章を引用していることでわかるように、要するに、対面であることが、授業にとって、不可欠ではないが、極めて重要だと主張している。もちろん、教育効果として、対面であるほうがよいには違いないが、結局は、「極めて重要」だという主張が、結局、「不可欠」だというように傾いていくのである。その立論として、菅間氏は、ふたつのことを書いている。
 ひとつは、生き物であるわれわれは、べたべたの濃厚接触のなかで生まれ、死んでいく。だから、オンライン保育やオンライン介護は決して可能にならないという。しかし、オンライン保育やオンライン介護が可能でないのは、身体的「世話」という部分があるからで、そのことが、生き物であるわれわれが濃厚接触(身体性)が教育において不可欠であることにはならない。また、部分的には、オンライン保育やオンライン介護も可能である。それはオンライン診療が可能であることをみてもわかる。保育者や介護士が、対応困難になったときに、より専門的な知見をもった人に、オンラインでアドバイスを受けつつ業務を進めるようなことは、十分にありうる。

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