『教育』2021.4号を読む 教科外担任について

 『教育』2021年4月号に、鈴木大裕「学校における免許外担任の解消を求めます!」という文章がある。鈴木氏は、土佐町の議員をしており、町議会で、上記のような要求を町長に対してぶつけたということだ。土佐町では、長年、美術の専科教員が配置されていないことを踏まえてのものだ。
 鈴木氏は、専門の美術の免許をもった教員がいないことは、子どもの学習権を保障していないのではないか、と町長に迫った。町長は、複数校兼務の担当も含めて、配置してもらうように努力するという回答を引き出した。
 一条校では、正式な免許をもった教師だけが、授業をすることができる。しかし、どうしても、正規の教師を確保できない場合もある。日本のような豊かな国と思われ、かつ教育に熱心な国では、あまり意識されないが、実は、正規の免許をもった教師を配置することができなくて、免許をもっていない教師が教えていることがある。もちろん、まったく免許をもっていない教師が教えることはできないが、異なる教科の免許をもっている場合には、特例として、一年を限度として、多少の講習を受けた上で、自分の免許とは異なる教科を教える事ができることになっている。文科省は、原則として好ましくないとして、削減に努力しているというが、文科省のホームページによれは、平成30年に、約1万人の免許外教師が存在している。少ないとは言えない。

 また、まったく免許をもっていないひとが、認定されて特別免許状を交付され、10年間教職につくことができるシステムもあるから、正規の免許をもつ教師だけが教育をするというのは、かなり実態とは異なるともいえるのである。そうした事態をどう考えるかは、単純ではないように思う。
 
 鈴木氏の提起は、もちろん、原則的に正しいと思うが、私は、もう少しいろいろと考える余地があると思っている。
 本当に、中学の段階で、免許をもった美術教員による教育が、教育権を充足する上で不可欠なのだろうか。もちろん、ある学校には、専科の美術教員がいて、ある学校にはいないというのは、不平等であることは確かだ。しかし、全国津々浦々美術教員を配置しなければならないというのは、教育行政上は、かなり窮屈である。
 他に例えば体育の教師といっても、実は、それぞれ専門が異なる。水泳が専門の教師と、体操が専門の教師、あるいはサッカー、野球いろいろなスポーツがあるが、それぞれ専門としてはかなり違う。バレーボールの専門家が、いくら体育の免許をもっているとしても、水泳の専門的な指導が可能かどうかはかなり怪しい。そういう意味で、ある学校には、サッカー専門の体育の教師がいるが、別の学校には、バスケットボールの教師しかいない。その場合、後者の学校に入学して、ぜひサッカーをやりたいという生徒にとっては、やはり、専科の教師はいないに等しいことになる。
 美術の教師だって、本当に得意なのは、かなり多様性があるはずである。絵画、彫刻、模造、写真等々あるし、絵画だって、いろいろな技法がある。中学生を教える程度なら、あまり高度なことは求めないというのであれば、別に専科の教師でなくてもいいかも知れない。あるいは、地域のひとのなかで、美術に得意なひとがいれば、そのひとたちに随時依頼をするという手段もある。そして、土佐町の町長が複数兼務の教師を探すといっているように、必ずしも、その学校の専任でなくてもいいかも知れない。美術教育の免許をもった教師がいなくても、本物の画家や彫刻家などが、その地域にいれば、たとえ免許をもっていなくても、指導をしてもらうことは、決して否定的に考える必要はないとも思われる。
 
 更に、そもそも美術が中学で本当に必修として必要なのだろうか、という点も、私には、疑問なのである。実際に、高校になると、芸術科目として、音楽、美術、書道などが選択科目になる。中学でも、選択でいいのではないかとも言えるのである。個々の能力や資質を伸ばすという観点からみれば、必修科目はできるだけ少ないほうがよい。美術や音楽は、それが好きな生徒には、学ぶことの喜びが多いと感じるかも知れないが、あまり好きではない生徒にとっては、かなり苦痛な時間なのではないだろうか。市民として、社会に出たときに、好ましい資質にはなるだろうが、生きていく上で不可欠の資質ではない。私自身、図画工作や美術は、学校教育の中で、最も実りの少ない科目であって、いまでも、ほとんど関心がないし、一生懸命学ぶことはなかったということで、こまったと思ったことはない。音楽は、とても好きで、いまでも市民オーケストラで演奏しているが、別にこれがないと生きていけないわけではない。生活に潤いを与えてくれることは確かだが、音楽がなければ、他にものに潤いを求めるだけのことだ。もちろん、音楽や美術が、生活のなかで切実な意味をもつひともいることは間違いない。しかし、それはひとによって異なるものだ。
 私の教育観では、全国津々浦々美術の専門教師を配置するよりは、むしろ、芸術科目などは選択にして、生徒が自由に学ぶ余地を拡大したほうがいいのではないかと思うのである。美術を学校で学びたい生徒は、美術の先生がいる学校を選択できる、というシステムがあれば、問題はないのだ。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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