今回は、9章の前半を検討する。
Society5.0時代で、教師はどうなるのか、どうあるべきなのかという内容である。巷では、シンギュラリティ時代が到来すると、教師はいらなくなるのか、というような話題が深刻に議論されている部分があるが、ここには、そういう問題意識はないようだ。あくまでも、前向きに、新しい変化に対応していくべきものとして描かれている。その前向き姿勢は、私も賛成であるが、書かれていることは、あまり現実的とはいえない。何しろ、教師になにもかも押しつけている現状こそが、学校のブラック化を招いているのに、まだまだ教師に、Society5.0時代に相応しい資質を、付加的に求めているのだ。
「9 Society5.0時代における教師及び教職員組織の在り方について」という題がつけられ、最初に、(1)基本的な考え方という部分がある。簡単に要約しておくと
・教師に必要な能力・資質は、使命感、責任感、教育的愛情、専門的知識、実践的指導力、総合的人間力、コミュニケーション能力、ファシリテーション能力である
・これを踏まえて、アクティブ・ラーニングの視点に立った授業改善、ICTを用いた指導法が加えられる
・変化を前向きに受け止めていく必要。ICTを活用しながら、児童生徒の個別的最適な学びと、協同的な学びを実現すること
・教師自身が新しいことを学び続けること
・教職大学院が、最新の教育動向に対応できる実践力を育成する役割を担う
・学校は、均一な集団ではなく、多様な人材との連携を強化し、組織内にとりいれることで、社会のニーズに対応しつつ、高い教育力を組織となる
こういうことが実現すれば、いいには違いない。また、こうした教師に担任してもらえた子どもは、ラッキーというべきだろう。しかし、中教審委員としてこの議論に参加してひとたちは、自分たちが、こうした資質を十分にもっていると自認しているのだろうか。これは、まるでスーパーマン/ウーマンではないか。最初の教師の能力資質の部分だけでも、すべて備えている教師がいるとしたら、かなり驚きだ。更に、ICTに習熟し、個別・最適、かつ協同的な学びを実践して、新しい動向に対応できるというのだから、私は、かなりの確信をもって、中教審の委員も、そんな能力資質をもっていないと断言できる。ひとが行うことに関する計画は、やはり平均的なひとでも可能なように作成されるべきではないだろうか。
そして、教師としての能力・資質だけではなく、組織まで多様な人材を、しかも外部から導入して、協同していく必要があるというのだから、無理なことを求めているとしか言いようがない。
次に、そのなかでもICTの活用に関する提言である。
(2)教師のICT活用指導力の向上方策
スローガン的な内容は除いて、方策に絞ると、次のようになる。
・大学の教員養成課程にICT活用を学ぶことがはいっている
・ICT活用指導力を確実に身につけられるようなコンテンツを国が作成している
・教員養成で各教科においても、ICTの活用ができるように、模擬授業や演習をもうける
・教育委員会が研修プログラムを作成実施
養成課程で、しっかり教育しておくことは必要だろう。私は、教師に求める能力と資質は、教える教科についての専門的な知識・能力と、子どもが好きであることのふたつで十分だと思っている。これがしっかりしていれば、あとは最初は不十分でも、次第に形成されてくるものではないだろうか。私は、一般的なICTの活用については、教師が自由に活用することを認めておけば、必要なことは学ぶだろうし、こうした領域は、子どものほうが先にいくものだ。だから、教師には、柔軟な対応を求め、そして、専門的な指導員を適切な数と形で配置して、教師が必要なときに指導を受けられるような組織的なバックアップこそが必要なのだと思う。
そして、教員組織の在り方だ。
(3)多様な知識・経験を有する外部人材による教職員組織の構成等という部分
・学校は均質な人材による組織ではなく、多様性と柔軟性のある組織になるべき
・学習指導要領の「社会に開かれた教育課程」の実施のために、地域の人材を活用し、社会と連携しながら実現する
・社会教育士との連携
・外部人材の活用のための多様なルートの確保と、多様な人材が参画できる柔軟な教員組織の構築
・教科に関する科目を修得済の者が、一年で教員免許を取得できる課程を、一年以上で可能にするように柔軟にする
・10年の特別免許状を、もっと短期で設定できるようする
この答申は、至るところに矛盾があるのだが、ここでも明確である。学習指導要領で規定される教育内容や方法の縛りと、多様性と柔軟性がある教育とは、両立しないのは明らかである。しかも、外部人材を登用することになれば、地域の人材はそれこそ多様なのだから、確かに多様な教育が実現するかも知れない。しかし、そうしたことを、どれだけ許すように、学習指導要領がなっているのか。せいぜい、教育委員会や校長の許可する、制限つきの多様性になるに違いない。そして、一時的な外部人材の活用に留まらず、教員組織に参画できるようにするというのだから、参画している外部人材によって、学校の教職員組織の構成がかなり多様になる。それを本当に許すのだろうか。
許すのならば、それは、大いにけっこうなことだと思うが、そのためには、教育課程の自由度を最大限高める必要があるのだ。(次回は学校運営や学校施設の検討となる)