総務省行政文書雑感

 この話題は、前にも当の行政文書を読んで、思ったことを書いたのだが、そのときには、間もなく幕引きになると予想していた。しかし、今でもごたごたが続いている。小西議員は、政府が放送に介入することを批判する目的だったのか、文書を取り上げた意図が、定かでないのも疑問なのだが、放送介入問題はどこかにいってしまって、高市元総務大臣に焦点が完全に移っている。高市氏が、文書を捏造だと断言して、本物だったら、議員も辞めるなどと言ってしまったのが、紛糾の原因になった。師匠ともいうべき安倍晋三氏に見倣ったのかも知れないが、自ら招いた災難とはいえ、政治家としての欠点が、どんどん露になっている。小西が辞めるのか、高市が辞めるのか、ネットでは真っ二つに分かれているが、それは、あまり興味がない。不毛な論争は早めにきりあげてほしいところだが、吹き飛んでしまったことに、重要な課題や考えるべき点があるといえる。
 
 安倍氏の官僚を押さえつける力は大変なものだったのだなあ、といろいろな局面で感じるが、これもそのひとつだろう。総務省が、かつての総務大臣だった閣僚に、これほど手痛い仕打ちをするなど、安倍首相であれば考えられない。今は他の官庁の大臣とはいえ、閣僚が「捏造だ」といった文書を、「本物だ」と返したのだから、高市総務相(元)は、よほど官僚たちの信頼を勝ち取っていなかったのだろう。岸田総理自身が、自分の閣僚を庇わないのだから、一体誰に支持されているのだろうと、心配になってしまうほどだ。

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総務相行政文書 放送の中立性を考える2

 総務省文書が提起していることは、要するに、放送法の政治的中立に関する「解釈」を変更したかどうかである。そして、その変更を強権的に行なったかどうかも、問題となるだろう。
 文書を読む限りは、安倍首相(当時)の意向を受けた礒崎補佐官が、従来の「全体としての偏向」から、「単独の番組での偏向」も、中立性を侵すものだという解釈変更を、総務省に迫ったと読み取れる。しかも、かなり高圧的だった様子が、明確に読み取れるわけである。
 
 そして、高市氏との関連でいえば、高市氏が安倍首相と連絡をとったかどうかが、ひとつの焦点となっている。前回も書いたように、首相が押し進めようとしていることを、その対象官庁である総務省が抵抗していて、かなり煩雑なやり取りがなされているとき、総務相であった高市氏が、まったく関与していない、つまり、電話でも対面でも首相と話し合っていないなどということは、ありえないことである。「電話では話していないが、対面で話していた。だから、文書は正確ではない」などというのであれば、語るに落ちるということだろう。要するに安倍首相と意思疎通をしていたかどうかが、焦点なのだから。

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ガーシーと林外相 ネット社会における国会のあり方

 ガーシー議員が帰国せず、求められた国会での陳謝をしなかったことで、除名という処分にいこうとしている。つまり、国会議員は、日本にいて、国会審議に出席しなければならないという前提での処分である。常識的には、審議に参加しなければ、国民の付託に応えているとはいえないだろう。
 他方、まったく逆の事態が最近起きていたことも注意すべきだ。それは、林外相が、G20の外相会議に、国会出席を理由に欠席していたことだ。しかも、国会での林外相の答弁は1分にも満たないものだった。1分未満のために、世界の顰蹙をかってしまったのは、問題ではないかという批判があふれた。
 つまり、一方は国会を欠席していることによって、他方は国会出席を優先したことによって批判されているのだ。もっとも、ガーシーという人を、私はあまり知らないし、彼のyoutubeなどはみたことがないので、逮捕される危険とか、そういう事態についてはまったく理解していない。だから、そういうことはまったく切り捨てて、国会出席の問題、あるいは、国会議員とは何をするものなのか、という点にのみ絞って、しかも、ネット社会でそれを考えてみたいのである。

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総務省行政文書 放送の中立を考える1

 立憲民主党小西議員と高市大臣のやり取りとなっている、総務省の行政文書を全文読んでみた。もっとも、繰り返しが多く、その異同にはさして意味が感じられなかったので、ざっと読んだということだが。総務省のホームページにいくと、簡単に入手できるので、興味のある人は、実物をみるといいのではないだろうか。官庁と官邸は、こういうやりとりをしているのか、と理解できるが、なんと無駄なことに労力と時間をさいているのだろうと、逆に感心してしまう。
 話題になっているのことは、放送法の政治的中立として、ある番組では、一方の政治的立場のみを取り上げ、他の番組で、他の立場をとりあげれば、中立と認定できるのか、あるいは、特定のひとつの番組内で、ひとつの立場しか取り上げていない場合にも、中立を侵しているとみるとか、という問題を、延々とやっているわけだ。つまり、ある番組が、政府与党からみて、偏向番組だというだけでは、放送局の番組全体としてバランスをとっているということになると、その番組に圧力をかけること学校できないから、ひとつの番組だけで、バランスがとれていないときには、中立を侵している認定する、つまり、圧力をかけて「是正」させることができる、そういう目論見をなんとか通したい官邸と、総務省のやりとりが、何度も字句修正されながら、圧力を感じさせていくプロセスとみてよい。

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林外相のG20欠席 委員会の拘束も問題

 現在開催されているG20の外相会議に、日本の林外相が欠席したことが問題となっている。開催中の国会予算委員会への出席が理由だという。しかし、林外相の答弁が53秒だったことも、話題性を増大させているようだ。
 維新の会から、この欠席について問われると、岸田首相は、総合的判断から、外務副大臣を派遣するのが最適と判断したと、答弁している。野党からも批判が出ているというが、立憲民主党のホームページをみると、昨年からはっきりしていたG20の日程を十分考慮しなかったのか、という「日程調整のミス」という形での談話がだされている。共産党のホームページでは、この点についての見解は見当たらなかった。
 専門家も含めて、多様な見解がコメントされていたが、いくつか考えるべき点があるようだ。

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マイノリティ支援とカミングアウト (SOGI)

 LGBTや同性婚の主張に関して、大方同意できても、なんとなく細部で同意できない部分があることが多い。そのことは、これまで何度か書いてきたが、今回、かなり同意できる主張にであった。神谷悠一「「誰」から「何」へ 性的マイノリティ支援制度の課題と発展可能性」『マイノリティ支援の葛藤』明石書店所収)である。
 性的マイノリティ支援が進んだとしても、その目的に限定されている支援制度である場合、カミングアウト(自分が対象者であることを明示する)が必要となり、そのカミングアウト自体が不利をもたらすことが少なくない。だから、カミングアウトをためらって、結果として支援を受けられないことがある。そこをどう克服するかという問題について書かれている。

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ウクライナ支援へのポーランドの強固さ

 ウクライナへのロシアの侵略が始まって、際立っていることのひとつに、ポーランドのウクライナに対する支援の強さである。国境を接していることもあるが、ウクライナ避難民をもっともたくさん受け入れているし、また、ウクライナへの軍事支援についても、主導するような役割を果している。様々な武器がウクライナに、欧米から供与されているが、多くの場合に、より強力な武器をウクライナが求めると、アメリカやドイツは当初応じることに躊躇の姿勢を示す。それに対して、ポーランドがより積極的な支援を主張するという構図がずっと続いている。昨年の侵略初期では、ポーランドも米独の反対によって、提案を引っ込めることが多かったが、最近では、むしろ、米独の反対を抑えるように、自ら積極的に動いて、米独もそれに従うような場面が増えている。戦車の供与がそうだった。ポーランドは、欧米が「協議」をしている間に、戦車の操縦の訓練をウクライナ兵に対して行なっていたし、それを公言していた。それは、実際に欧米の多くの国が戦車供与を決めてから、実際に使用可能になるのを早める効果があった。

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成田氏の高齢者集団自決再論

 成田氏の高齢者問題を解決するためには、高齢者の集団自決しかないという提起が、国際的に問題になっているらしい。そして、そのことがまた日本での議論を再燃させている。そして、賛否両論、相変わらずの構図だが、成田氏擁護の側の議論のあまりに短絡的で視野狭窄的議論が顕著なので、再度書くことにした。
 
 まず、成田氏に限らず、高齢者は若い者に道を譲れという議論は、80歳を超えるような老人がのさばっていて、権力を発揮していることを非難している。しかし、実際のところ、そういう分野は、極めて少ないような気がする。そして、典型的には、政治の世界だろう。確かに、政治家は高齢者集団であり、かつ、活動力に疑問が隠せない人が、いまだに権力をもっているように見える。

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EUの死刑廃止=人権論の疑問

 宮下洋一氏と田原総一郎氏が死刑制度をめぐっての対談をしている。
「死刑を廃止した国でいったい何が起きているのか……日本の死刑について宮下洋一と田原総一朗が考える」https://news.yahoo.co.jp/articles/3d743a604b0111b9e75cc8155239eda6cad6b19b
 日本は、毎年アムネスティなどから、死刑制度があることが、民主主義の欠陥要素として批判されており、死刑が執行されると、その都度抗議がフランスから寄せられるという。EUに加盟するためには、死刑制度を廃止する必要があり、EUに加盟したいために、国民は死刑廃止を望んでいないが、政府レベルで廃止してしまうことがあるという。
 二人の基本姿勢は、死刑存続だが、執行しないというところのようだ。田原氏はそう明言している。

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東京23区区の大学が、地方就職促進条件にIT関連の増設

 
 政府が、東京都内は一切の大学新設・増設・定員増を認めない方針であったのを変更して、デジタル関係のみ期限付きで認めることになったと報道されている。 
「東京23区内の大学、デジタル系学部の定員増を容認…IT人材育成へ政府方針」
 それには条件がついており、情報系学部・学科の定員増が対象で、一定期間後は元に戻す、地方の就職促進策を組み込むというものだ。
 こうした大学の学部管理は、文科省がかなり強権的に行なっているもので、その評価は単純にはいかない。確かに、大学全入時代になって、入りたい大学・学部は偏りがあるから、人気のない大学は定員まで学生が集まらず、それが長期的に続けば倒産とならざるをえない。人気のない、つまり社会的に要請されていないと見なされる大学は、潰れたほうがよいという考えもありうる。時代の技術革新についていけず、あいかわらず安い労働力でしか対応できない企業は倒産して、技術革新をして力を増したところに吸収されるほうが、全体としての経済力は高まる、だから弱体企業を救うべきではない、という意見は少なくない。

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