松竹伸幸氏への除名で、大きな社会的論議を呼んだ共産党が、同時期に、やはり党首公選を主張した本を出版した鈴木元氏を、3月16日に除名処分にした。
「共産党「志位氏辞任要求」で2人めの除名者が「やっていることスターリン」「政権とったら粛清が」SNSで広がる警戒感」
京都府委員会がホームページで公表しているというので、みたが、それは以下の通りである。長いけれども、全文を転載しておく。
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日本共産党京都府委員会常任委員会は、2023年3月15日、鈴木元氏の除名処分を決定し、3月16日、中央委員会がこれを承認し確定しました。鈴木氏は京都府委員会直属で、支部に所属していない党員であることから、府常任委員会での決定となったものです。除名処分の理由は以下のとおりです。
(1)鈴木氏は、1月に出版した本のなかで、規約にもとづいて民主的に運営している党の姿をゆがめ、「およそ近代政党とは言い難い『個人独裁』的党運営」などとする事実無根の攻撃を書き連ねています。党幹部の人格を否定する「老害」という記述など、誹謗・中傷もおこなっています。さらに、鈴木氏は、本のなかで、日米安保条約の廃棄、自衛隊の段階的解消という党綱領にもとづく党の安保・自衛隊政策を否定し、党綱領の社会主義・共産主義論を否定するなど、わが党の綱領路線に対する全面的な攻撃を、党の外からおこなっています。
(2)鈴木氏は、先に除名された松竹伸幸氏から、事実をゆがめて党を攻撃する松竹氏の本と「同じ時期に出た方が話題になりますよ」と執筆を急ぐよう働きかけられたのをうけて、「12月末までに大急ぎで仕上げた」ことを、わが党のききとりのなかで認めています。これは党攻撃のための分派活動の一翼をになったものと言わなければなりません。また、本のなかで、「党運営において多様な政治グループの存在を認める」よう主張し、党内に派閥をつくることを求めています。
(3)こうした鈴木氏の一連の発言や行動は、党規約の「党内に派閥・分派はつくらない」(第3条4項)、「党の統一と団結に努力し、党に敵対する行為はおこなわない」(第5条2項)、「党の決定に反する意見を、勝手に発表することはしない」(第5条5項)という規定を踏みにじる重大な規律違反です。
京都府委員会は、鈴木氏に対して、以上の事実をあげて重大な規律違反であることを明らかにし、ききとりをおこないましたが、鈴木氏は、その誤りを認めず、反省の態度を示しませんでした。
以上の理由から、鈴木元氏を除名処分とするものです。
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私は、鈴木氏を除名にするのは、難しいはずだと思っていた。それは、松竹氏の除名理由に、「党に対して、なんら意見を言うことなく、いきなり外部での公表をした」からだ、という点を強調していたからである。しかし、鈴木氏は、著書のなかで、何度か中央委員会、そして、志井委員長に対して、意見を具申していたのだが、何ら返事がなかったので、より詳しく説明する文書を公開の書簡のような形式で、出版することにしたと書いている。鈴木氏の本の題が『志井和夫委員長への手紙--日本共産党の新生を願って』となっていることでもわかる。つまり、鈴木氏は、いきなり外部に向かって意見を公表したのではなく、内部できちんと具申をしていたのに、志井委員長はなんら対応をしなかったというのである。少なくとも、志井委員長は、鈴木氏の手紙に対して、これこれの対応をしたと述べていない。だから、無視したことは、おそらく事実なのだろう。
だから、おそらくこのまま推移するのではないかと思われた。
しかし、デイリー新潮に、松竹氏を除名して、同じような本を出版した鈴木氏はしないのは、ダブルスタンダードではないかという記事が出たことが、きっかけになったのかはわからないが、時期的にはそう思わせるタイミングで、鈴木氏の処分がでた。府の委員会の決定が3月15日で、中央委員会の承認が16日だから、府と中央は十分に意思疎通しての結果なのだろう。府が決めたことだから、というのでは、中央はあまりに無責任であるし、中央がきちんと独自に調査をしたというのならば、翌日というのは早すぎる。
松竹氏は、少なくとも党中央に意見具申をしておらず、鈴木氏はしたのだから、ダブルスタンダードではないし、鈴木氏を処分しなくてもよかったはずである。逆に、処分したことによって、いくら中央や組織内で、事前に意見をいっても、結局、外で批判したらだめなのだ、という姿勢を示したことになる。そして、更に、中央に意見を具申して、結局はなしのつぶてなのだということも、露顕してしまったことになる。なかで意見をいっても、何もかわらないのならば、外でいうしかない。
さて、除名理由は3点あげられている。
1 党に対して、個人独裁とか老害など、事実無根の誹謗中傷をした。
2 松竹氏と、同じ時期に出版するように打ち合わせたのは、分派活動である
3 規約違反をしている。違反は
・分派・派閥をつくらない
・党への敵対行為をしない
・党の決定への批判を外部で公表しない
という3つのルールへの違反をしたというのである。
1については、意図的には、鈴木氏の主張をずらしている。鈴木見解の中心は、選挙に敗北し続けた指導部は責任をとって辞任せよ、ということであり、個人独裁とか老害などと主要に批判していたわけではない。20年間に党勢を半分に減衰させてしまったら、責任をとれというのは、社会的常識に属する。
2のように、同じ時期に出版することを申し合わせたら「分派活動だ」というのは、いかにもこじつけだ、といえるだろう。
やはり、中心的には、規約の妥当性の問題になる。おそらく、松竹・鈴木両氏は、このような規約そのものが妥当ではないと思っているに違いない。私は外部の人間なので、この点については、自由にものがいえるので、提起しておきたい。
分派・派閥をつくらない、敵対行為をしないというのは、恣意的に運用されない限り、規約としてあってもいいように思う。ただし、今回のふたりの行動が分派であるとは思わないひとが多いだろうし、まして、党員ではないひとのなかで、ふたりの出版が、党への敵対行為であると感じるひとは、少ないに違いない。逆に建設的な提案だと思うだろう。つまり、恣意的な運用がなされたのだといえる。恣意的運用は当然批判されるべきだ。
それに対して、「党への批判的見解を外部で公表しない」というルールについては、きちんと掘りさげる必要がある。
二人が、この規約に違反したことは、否定できないから、何らかの処分はあってしかるべきだろう。しかし、除名は間違っている。なぜならば、規約自体が、既に問題だからだ。軽い処分にして、この規約の再検討を始めるのが、最も賢明な措置だったのである。規約は、ある時期に正しくても、社会が変われば、それに応じて変化する必要がある。
批判的な見解を外部で公表することは、本当にまずいことなのだろうか。内部での公表は構わないが、外部はいけない理由はなんだろうか。
注意すべきは、この「外部」は、「党の外部」だけではなく、松竹氏の著書でわかることは、党内であっても「所属の部署以外の部署」でもあることだ。ただ、その点については、外部の者には、正確にはわからないので、今回は、考慮しないことにする。
外部に意見を公表しないというのは、独裁政権下にあって、弾圧されていた時代には、必要なことだった。そうした状況では、どうしても軍隊を握って、武力で革命を起こすことが、不可避的だったろう。党員であること自体を厳密に隠す必要があった。そうしないと弾圧されて組織が壊滅してしまうからである。
しかし、民主主義が実施され、議会と選挙が機能している社会では、人々の「支持」が絶対的に必要な条件になる。そして、支持してもらうためには、政策を正確に理解してもらう必要がある。民主主義が成熟してくれば、政策といっても、単に「書かれて整理された」政策文書だけではなく、むしろ、その政策が練られた過程や、政策を担っている人々の姿なども含めて、信頼をえられるかが決定的に重要になってくる。そして、成熟した社会では、人々の意見や価値観は多様になり、その多様性を認めるようになってくるわけだ。そういうなかで、全員一致で決まった政策などは、逆に何か圧力が働いているのではないか、と勘繰られる可能性が高い。実際に、多数のひとが集まれば、全員一致などということは、通常ないからだ。本当に全員一致なら、その議論の経過も見せたほうがよい。きっちりした議論がなされて、一致するようになったのであれば、なるほどと思ってくれるだろう。
そうして、内部の議論を公表すれば、実は、外部だろうが、内部だろうが、垣根はなくなったも同然である。むしろ、その垣根を取り払ってしまったほうが、議論の妥当性が理解しやすくなるのである。また、外部に見せたり、外部で意見公表していれば、一般市民もそこに加わることで、支持も広がるし、外部の意見を身近にきくことで、党の政策にも深みがでるはずである。
そのことを恐れるとしたら、社会の民主主義的感覚を信用していないことの表明でもある。信用されなければ、市民も支持しにくいのではないだろうか。
結論としては、外部で党の政策を批判してはならない、という規約は、廃止したほうが、選挙民の支持をえられやすいということである。そして、党の内外を問わず、活発に議論し、それを見せればいいのだ。松竹氏や鈴木氏は、それを期待しているのではなかろうか。