生の演奏会か録音か

 先日、音楽会をこよなく愛するひとと話す機会があった。極論すれば、上手なCDより、多少劣るとしても、生の演奏会のほうを聴きたいという意見だ。そこは、重なる部分もあるが、違う部分もあると感じた。
 もちろん、録音は所詮音の缶詰であって、実際の演奏ではない。ライブ演奏といっても、人際には、ほとんどの場合修正してある。人間が演奏する以上、ミスはあるから、リハーサルや複数の演奏会の録音をとっておいて、ベストのものを主体に、他の録音でミスを修正するのである。クラシック音楽に、文字通りのライブ放送がほとんどないのは、ミスなしの演奏など、ほぼ無理だからだ。スポーツの場合には、相手がいるので、当然ミスは多い。しかし、それも観戦の面白さだと思うひとが多いだろう。

 
 他方、演奏会では、ミスも興味のうちというひとは、少ないに違いない。非常に気にするひとと、そうでもないひとの違いはあっても、ミスを評価するひとはおそらくいない。ミス問題は、録音が、演奏会に勝る点であろう。
 ただし、私も生の演奏会にいけたら、できるだけいきたいのが正直なところだ。しかし、生の演奏会は、料金が高いのが、私にとっての最大のネックだ。そして、時間をかなりとられる。定年になって時間がたっぷりあるとはいえ、家でも、交響曲を一曲まるまる聴くことは、ほとんどない。だいたい部分で済ませてしまう。これは、録音だから可能だ。自分の時間にあわせて、聴きたい曲と演奏を選ぶことができる。しかも、聴きたい部分だけとりだすこともできる。これは、忙しい人間にとっては、とてもありがたい。
 
 さて、肝心の感銘度だ。生演奏派のひとは、演奏家と聴衆である自分との、つながり、あるいは演奏家が音楽に没入しているのを、肌で感じつつ聴くのが、録音とは違い、感動を生むのだという。大事にしたいということだった。勝手に解釈すると、演奏会において、演奏家を重視しているということだろう。私の場合は、演奏家を重視して演奏会にいくことはあるが、それでも、どちらかというと曲重視だし、ある演奏家を追いかけるように、でかけることはまったくしたことがない。曲にはまったく興味がないが、あの演奏家だから聴きにいく、ということはまったくなかった。
 学生のころは、よく演奏会にいったが、オーケストラの定期会員で、かつ学生だからチケットが安いことも、ひんぱんにいける理由だった。だから、特定の音楽家に数多くでかけたということがない。もちろん、好きな演奏家はいるが、録音中心に聴いているせいもあり、ほとんど外国の演奏家だ。だから、たまにしか来ないし、料金も高い。そして、チケットを確実にとれるわけでもない。すると、やはり、好きな演奏家は、CDをたくさん買うことになる。最近は、DVDも多くなった。
 そして、録音と録画技術の進歩によって、本当に生の演奏に近い音で聴けるようになっている。CDが世の中に出始めたころ、音大でピアノを専攻している学生が、私の家で初めてCDを聴いたというのだが、まるで本物のピアノが鳴っているようだ、と感心していたことを覚えている。
 そして、ライブ録音などは、演奏会場の雰囲気も伝わるものがある。もちろん、よい再生機で、それなりのボリュームが必要だが。
 
 録音で聴くことの最大のメリットは、過去の演奏家を聴くことができることだ。トスカニーニ、フルトヴェングラー、ワルターという20世紀前半を代表する偉大な指揮者は、みな来日しなかった。だから、海外で聴く機会があった幸運なひと以外の日本人は、だれも生の演奏を聴けなかったわけだ。もちろん、自分が生まれる前に死んでしまった、というひとも多いだろう。しかし、彼らの演奏には、やはり、聴くべき価値がある。
 また、録音には、実演では絶対に聴くことができない完成度のものがある。特に、私の好きなオペラでは、丁寧につくられ、大歌手たちを集めたセッション録音の名盤は、生では絶対に聴けない感銘を与えられる。
 最近のオペラ録音は、ライブが多いので、やはり、そうした高さに達した録音は少ないから、やはり過去のものだ。
 例えば、カラヤンの「サロメ」「蝶々夫人」「ドン・カルロ」などは、まず永久に超えられることはないだろうといえるほどの名演だ。アバドの「シモン・ボッカネグラ」もそうだ。
 録音のために、端役まで一流の歌手を揃え、大指揮者とトップオーケストラが、納得のいくまで演奏を繰りかえした結果だろう。
 昨年、現代最高のサロメ歌いと言われるグリゴリアンが歌った、サロメの演奏会形式の上演にいって、もちろん、すばらしかったのだが、それによっても、カラヤンの演奏を超える感銘はえられなかった。20名近くのソロの歌手が必要なのだから、どうしても弱い部分がでてくる。それが気になってしまう。カラヤンの実力と政治力があるから、まったく弱点のない演奏が、かつセッションの録音だから可能になるわけである。もちろん、そんな録音は非常に少ないのだが。
 
 もちろん、お金と時間が十分にあれば、そして、チケットが手にはいれば、行きたいと思う演奏会はたくさんある。実現可能性の低い大きな喜びと、実現が簡単な小さな喜びを比べるのは、あまり生産的でないことも確かだ。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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