共産党は、なぜあれほど党首公選を拒否するのか

 党首公選を訴えた鈴木元氏も、除名された。松竹氏のときにも、当然考えたのだが、何故、共産党はあれほどまで、頑なに党首公選を受け入れないのだろうか。公式には、党首公選を実施すると、分派が生まれてしまうからだ、といっているが、それは、誰が考えても、おかしな理屈で、当人たちが、本当にそう思っているのかさえ疑問である。そもそも、ただの一度も、党首公選などしていないのに、そうした弊害が、必ず出てくるなどということはいえないはずである。
 そこで、表立ってはいわない、裏の理由があるのではないかと、いろいろと考えてみた。そして、ひとつの推論に達した。そして、それは現在の政党を考える上で、重要な論点を含んでいるのではないかと思い、整理してみることにする。

 
 自民党は、典型的な議員政党である。自民党の「活動部分」は、ほとんどが「議員」であり、その支援者としての後援会の活動部分である。もっとも、後援会のひとたちが、みな自民党員であるかどうかはわからない。公選が実施されているから、議員が党費を払って、党員になっている人もいるに違いない。
 とにかく、自民党の主要な構成員は、国会と地方議会の議員である。だから、議員として落選すると、ただの人になってしまう。羽生田氏が、落選したとき、おそらく生活にも困り、加計学園系の大学の非常勤講師を世話してもらったり、統一協会との結びつきを強めたりしたのは、なんとしてでも「ただの人」を脱出する必要があったからだろう。
 議員の活動を支えているのは、後援会と、秘書たちである。秘書といっても、その議員の政治信念に共鳴しているかどうかはわからない。秘書としての活動を、きちんとしてくれれば、党員である必要もないだろうし、前歴が立憲民主党の秘書であっても構わないかも知れない。イデオロギー政党ではないから、秘書として応募できるくらいの共通点があれば、こまかい政策上の一致がなくても、務まるのではないかと思われる。
 そして、彼らの生活を支えているのは、議員としては、議員歳費であり、秘書は、公設、私設それぞれの形態で給与を受けているだろう。そして、一般の後援会員は、ボランティアだろう。
 
 それにたいして、共産党は、いろいろな資料から判断する限りでは、まったく違う構成をもっているようだ。
 議員がいることは、共通している。しかし、それぞれの議員に後援会があるかどうかは、正確にはわからない。もちろん、選挙になれば、事務所が開かれるから、そこに応援部隊が集まれば、後援会なのだろうが、自民党のような堅固な後援会のようにも思われない。そして、自民党とまったく違うのは、議員が、必ずしも党活動の中心的な存在だとはいえないことだ。 
 では中心は誰なのか。それは党の専従と言われるひとたちだ。実は松竹氏も、長い間専従だった。企業でいえば、社員のようなもので、共産党に就職し、共産党から給与がでていて、生活している。どのくらいいるのかはわからないが、松竹氏やその他の書物から推察できることは、地区や県の委員会の責任者は、多くがそうした専従で、中央委員なども、そうしたなかから多くが選ばれているという。他に赤旗の記者などもいる。その重なり具合は、わからないが、市議会議員や県議会議員で、市や県の党組織の責任者でないひとは、少なからずいるようだ。
 おそらく、そういう存在は、自民党をはじめ、他の政党にはいないに違いない。そこが、共産党の政策力の源泉になっていると考えてよいように思われる。自民党に政策力があるのは、主に官僚を使いこなしているからだろう。もちろん、族議員となって、その分野の政策に通暁している自民党議員も少なくないに違いないが、族議員となっても、基本的に当該官庁に、審議会などをつくらせ、そこで審議して作成した案を、自分たちも取り入れれば、専門家たちを動員して、政策を立案することができるわけだ。共産党は、官庁のデータを使うことはできるだろうが、官僚を自分たちのために使うことは、かなり難しいに違いない。やはり、独自のスタッフをもって、調査、研究して、政策つくりをせざるをえない。
 他の野党は、週刊誌などのメディア情報をネタに、政府を追求したりするが、独自調査によって、国会で質問ができる共産党の源泉はそこにあるのだろう。
 
 しかし、そうした専従の出世は、地区、県、中央の専従となることであり、中央委員会の委員、幹部会の委員、そして、各種専門部会の責任者になっていくことだろう。それは、企業と似ているはずだ。これまで、そうした市や県の委員会の委員や、中央委員会の委員などは、推薦によって提案され、信任投票にかけられて、決まるとされている。ある地区委員会の委員は、前の任期の地区委員会が、新規のメンバーの推薦名簿を作成するわけだ。そして、県、中央への代表も同様の方式で決めていく。こういう決め方だから、当然、前の委員会がよしとするメンバーを選び、ほぼ確実にその人たちが選ばれる。そうして選ばれることは、専従のひとたちにとっては、生活がかかっているといえる。地区委員長だった専従のひとが、選挙をやって落選した場合、専従を解かれるのか、あるいは、委員長ではないが、専従として給与を保障されるのか、そこは私も知らないが、少なくとも、これまでは、選挙で選んでいないのだから、事例がないだろう。不祥事でやめさせられるか、何かの事情、(松竹氏は、外交政策での志井氏との意見の対立だったと書いている。)でやめる場合以外は、まず、不本意にはずされることはなかったのだろう。
 こうしたやりかたは、共産党がそうした専従社員を多数抱えている企業だと考えれば、不思議ではないのかも知れない。企業では、課長や部長を課や部の社員で選挙したりしない。
 
 しかし、やはり、共産党は企業ではない。市民の支持をえて、選挙で選ばれることによって、議会での多数派をめざし、やがては政権をとることを目的にしている。企業の論理ではなく、選挙民に支持される政策や活動で動いていかねばならない。選挙で選ばれることをめざしつつ、自分の組織では選挙をしないのでは、市民からの支持はえられない。
 そこに、党首公選提案がでてきた。党の規約では、役職は選挙で選ばれると書いているのだから、規約通りに実施すれば、党首だけではなく、市や県、そして中央委員会委員も選挙で、という主張になっていくことが予想される。規約でそうなっているのだ。
 そうすれば、当然落選するひとがでてくる。議員をしているひとたちなら、党の役職に落選しても、別に構わないが、逆に、県議が県の委員長になるケースが多くなる可能性が高い。中央の幹部も、議員が増えてくるだろう。そうすれば、どうしても、これまで、党の仕事だけをしてきた専従たちにとって、落選した自民党議員のように「ただのひと」になってしまう恐れがある。
 そう感じているひとたちが、強硬に党首公選、そして、役職を選挙で選ぶことに反対しているのではないかと想像している。あくまでも、個人的な想像である。
 
 私は、専従が、他の政党にはない政策力を生んでいると思っているので、党の強みであると考えている。しかし、もし、私の想像のように、党首公選という、現代社会では常識であることが実施できない、また、規約と違うことをしているのが、専従のためであるとすれば、かなり大きな矛盾を抱えていることになる。
 考えてみれば、かなり多数存在している地方議会の議員の存在が、専従を支えているともいえる。しかし、今回のような、社会からの反感を買うようなことをしてしまえば、選挙で更なる後退を余儀なくされることは、十分に予想されることだ。そうしたら、専従の数も制限せざるをえなくなるともいえるのだ。
 共産党は、こうした矛盾を、実践的に解いていく必要に直面しているのではないだろうか。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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