プロの音楽家を育成しない音大の行方

 上野学園大学の学生募集停止から、理事長がバッハの自筆楽譜を勝手に売ってしまったというニュースがあり、大学の衰退についての記事をいろいろと読んでいたら、「日本人は「音楽大学」凋落の深刻さをわかってない 弱まる経済を補完する文化基盤の構築をどうする」という記事にぶつかった。
 筆者は、名古屋芸術大学教授の大内孝夫氏だ。銀行員から芸術大学の教師になったということで、音楽が専門とは思われないが、音楽大学の凋落について、分析をしている。上の文章だけではなく、スポーツとの比較などをした文章もある。
 ただ、大内氏の見方とは、私は多少違うと感じた。大内氏は、音楽大学(芸術系)が衰退することは、経済全体にとってマイナスであるという視点から、音大の凋落に継承をならしており、また、高校までの音楽教育の衰退とも関連しているとしている。

 
 しかし、私自身は、音大のあり方自体に大きな問題があると思っていたので、かなり冷淡な言い方になるが、音大の凋落は、仕方ない面があると思っている。そもそも、音大の存在意義は何かから考える必要があるのではないか。それに、音大の数が多すぎるのではないかと思っている。
 大内氏は、ヨーロッパの事例をひいて、芸術教育が盛んであることと、技術的革新が進むことに、重要な関連がある、実際に芸術教育を大学で学んだひとが、技術革新を起こしている、だから、日本のように、音大が凋落することは、日本経済にとって深刻な打撃になるのだ、という論調だが、あまり賛成できない。
 まず、すべての国がそうだとはいわないが、欧米の多くの音楽大学とされている教育機関は、通常のユニバーシティとは異なる位置づけになっており、いわば高等専門学校のような位置にある。具体的には、音大とユニバーシティのダブルスクールが可能である場合が多いということだ。有名なバーンスタインは、ハーバード大学の学生でありながら、カーティス音楽院にも通っていた。最近テレビによく出る日本の若手廣津留すみれも、ハーバードとジュリアードを首席で卒業したとなっている。地理的に同時通学はできないので、ハーバード卒業後ジュリアードということのようだが、コロンビア大学なら、両方通うことが可能だったかも知れない。五嶋みどりは、公立の学校に通いながら、ジュリアードでのレッスンを受け、オーケストラに参加していた。
 アメリカは、大学によって条件が違うだろうが、ヨーロッパは、音大は通常の「学校」の系列とは異なっている。通常の大学は、高校の卒業試験合格が、入学条件になるが、音大は、資質をみる入学試験(オーディション)がある。おそらく、芸術系の大学をでて、技術革新に貢献した人材は、ダブルスクールをやっていたか、あるいはリベラルアーツの伝統を強くもった芸術科目の充実したユニバーシティに通っていたのだと思われる。
 
 だが、日本の音大は、かなり様相が異なる。音大は通常の大学の一種であり、音楽を学ぶことに、ほぼ特化されたカリキュラムをもっている。だから、音大を卒業すると、専門を活かせる職業は、音楽家か音楽の教師くらいしかない。しかも、社会で求められる音楽家をはるかに超える人数の学生定員がある。大内氏が書いているように、かつては、卒業後花嫁修行をして結婚、家庭に入るひとが少なくなかったようだ。しかし、今の高校生には、そういう生活はあまりリアリティを感じないので、音大は避けるようになって、就職に有利な学部を選び、音楽は趣味でやるひとが増えてきたということだろう。大学生の減少より、音大生の減少がはるかに大きいのは、そのためであろう。
 
 このことをどう考えるのか。
 大内氏は、スポーツ界を参考にするべきだという見解のようだ。スポーツ界は、さまざまな競技会を盛んにし、競技団体が協力して、スポーツ界を盛り上げるように運動したことが、スポーツで生活できるひとを拡大した、だから、芸術界も互いに協力すべきであるというのだ。
 しかし、スポーツ界と音楽界とでは、少なくとも養成のあり方はまったく違う。プロのスポーツ選手として活躍するひとのなかで、体育大学を卒業したひとは、極めて少ない。大学に進学した者でも、体育系ではなく、通常の法学部や文学部等が多いはずである。そして、スポーツは部活として行なっているか、社会のクラブで行なっている。部活も一種の教育組織であると考えれば、ダブルスクールの所産なのである。だから、部活としては全力をあげて取り組んでも、将来プロスポーツ選手としては無理だと思えば、違う道に進みやすいし、また、スポーツを全力で取り組んでいたことは、就職の際に有利に働く。確かに、そこでも、スポーツ界のつながりが役に立つわけだ。
 
 ところが、著名な音楽家は、ほとんど音大の卒業生である。スポーツ選手のような育成システムのまま、つまり学校系列だけで育ったひとは、極めて稀である。もちろん、最初は全員が、プライベートレッスンで音楽教育を始める。小学校の音楽の時間や部活だけで育ったという著名音楽家は、私は知らない。そして、高校まではプライベートレッスンや部活でも、プロの音楽家をめざすひとは、ほとんどが音大に進む。
 逆にいえは、スポーツ選手は、スポーツで生き残ることができなくても、他の専門教育を受けているひとが多いのに対して、プロの音楽家をめざしているひとは、高等教育で、音楽以外の専門教育を受けていないのである。だから、音楽で生活できなくても、違う専門を学んでいるから大丈夫とはなりにくい。現実的に考えれば、音大に進むのは、かなり勇気がいることになる。だからこそ、音大進学者は減少しているのだろう。
 どうすればよいか。
 基本的に、私は音大というのは、やはり、プロの音楽家を育てる機関だと思うので、数が減るのはやむをえないと思っている。明らかに、音楽で生計をたてられるひとより、圧倒的に多い数の音大卒業生が存在しているわけだ。もちろん、プロの音楽家になるには、相当高度な音楽教育を受ける必要があるから、そうした音大は必要である。だから、プロの音楽家がほとんどでていない音大は、違う形の音楽教育をする、つまり、広い意味でのクリエイティブな分野を学ぶとか、いろいろあるだろうが、そうした方向転換をする形で生き残るのが、ベストではないかと思うのである。
 いずれにせよ、専門教育としての音楽を学びながら、ほとんどその道の専門家がでていないというのは、教育機関としての役割を果していないといわざるをえない。受験生の志望にあわせて、教育領域を柔軟に再編成するところが、生き残るのではないだろうか。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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