江戸時代の話だから、敵討ちが何度も登場する。しかし、ルールに則った事例は、ひとつもない。実は、江戸時代の敵討ちには、厳格なルールがあるのだ。そのポイントが、『鬼平犯科帳』にも説明されている。市口瀬兵衛という71歳の老武士が、自分の息子の敵討ちをする「寒月六間堀」にこうある。
許可された敵討ちとは
「武士の敵討ちの場合、肉親の尊属のためにすることなら正則のものとして届出が許可される。つまり父や兄の敵を討つというのならゆるされるけれども、子や弟妹、妻などの場合は変則となる。これが掟であった。
なんといっても日本の諸国は百に近い大名や武家によって、それぞれに統治されている。殺人を犯して他国へ逃げてしまえば、自国の警察権もおよばなくなる。そこで殺された者の肉親が、死者のうらみをはらすのと共に、自国の法律の代行者として犯人を探し出し、討ち取る。これが[敵討ち]なのだ。
それがためには、どうしても正則のものでなければならない。変則のもので、公の許可のない敵討ちは、却って法を犯すことになるのである。」 “鬼平犯科帳 敵討ち” の続きを読む