世界的に有名な文学作品の映画化は、失望することが多い。作者は当然、小説とか演劇と形で構想するから、それにふさわしい内容と形式をもたせる。また、小説は、いくら長くても、内容が惹きつけるものであれば、読者はそれだけ満足する。しかし、映画にすれば時間的な制約があるし、またテレビドラマの場合には、制作費や、時間的推移(連続ドラマならば、空きの日数がある)などの制約が起きる。もちろん、映像は、文字よりもリアリティがあるから、原作にはない効果を出すこともできるのだが。そこで、原作とは異なる展開になったりもするわけだろう。
鬼平シリーズはどうだろうか。原作の小説は、月刊誌の一回読み切りで、一回ごとに結末がある。(晩年の作品は、連続ものがいくつかあるが)ドラマ制作者の声では、原作を45分のドラマにするためには、鬼平シリーズは多少話題が少ないそうだ。その場合、原作にはない挿話が必要となる。最も単純には、何か食べているときに、会話を多くするとか、犯罪ものなので多い「追跡」の場面、いろいろなショットをいれるとか。しかし、比較的短い話の場合、ドラマとしての展開が単調になるために、原作とは異なる内容を挿入することが、鬼平シリーズではたくさんある。そして、その多くは、ドラマとしての魅力を高めている。
ドラマとしての面白さを引き出す、原作にない挿話
原作では6番目だが、ドラマとしては第一号のため、中村吉右衛門が最も印象的な作品としてあげている「暗剣白梅香」は、原作に比較的忠実なドラマ化だが、いくつかの新たな逸話が挿入されている。平蔵の暗殺を依頼された金子半四郎は、最初失敗するが、やがて、平蔵が舟宿の鶴やにいるところを襲うが、鶴やの主人森為之が、実は、半四郎が追いかけている父の敵で、為之介は自分を殺しにきたと勘違いして、半四郎を後ろから刺し殺してしまう。「敵討ちが武士の習いなら、返り討ちも武士の習い」と堂々と述べ、平蔵が鶴やは預かり、為之介に逃げることを勧める。
最初に闇討ちされたときの「匂い」に気づいた平蔵が、その香料を売っている店を発見し、香料を頼りに犯人を探す場面が続くが、最終的には、匂いで解決するわけではない。筋は比較的単純にできているが、ドラマではかなり工夫されている。
ドラマでは、役宅における与力・同心、そして、妻久栄とのやり取りが出てくる。半四郎に狙われたことで、与力・同心たちが、平蔵の見回りに部下がついていき、安全を図ろうと平蔵に提案するのだが、平蔵が一切無用と退ける。お前たちがいたら、暗殺者は出てこないというわけだ。それを心配そうに、影で久栄がきいているのだが、平蔵がひとりで出かけたあと、与力同心たちが、やはり、あとからついていって、平蔵を守ろうと相談しているときに、久栄がやってきて、それを制止する場面が挿入されている。部下たちの気持ちと、不安はもちながらも強い意思を示す妻という対比が鮮明に描かれている。
原作では、半四郎が鶴やに乗り込んだとき、二階で盟友岸井左馬之助と一緒に酒を飲んでいて、半四郎は階段で指されるのだが、ドラマでは、平蔵は一人であり、半四郎が二階にあがってきて、平蔵に切り付け、危うくなるのだが、上がってきた森為之助が、半四郎を後ろから刺すのである。これは、もちろん、ドラマチックにするためのお膳立てでもあるが、以前の半四郎なら平蔵もやられていたのだが、半四郎に殺意があまりなくなっていたという設定に変更されているのだ。
原作では、半四郎は、吉原にいったという記述があるだけだが、ドラマでは、そこで暗殺衣装に着替え、普段着を預ける設定になっていて、いつも指名する娼婦おえんを、当初は相手にしていない。しかし、平蔵が手ごわい相手であることや、長い敵討ち生活、暗殺生活に嫌気がさしつつあり、おえんの商売を超えた対応に、一緒に生活をする決意をし、最後の仕事として、平蔵に立ち向かう。これが、平蔵によって、殺意の衰退と見破られて、平蔵をなかなか切れないという複線になっている。つまり、冷酷無比な暗殺者の半四郎が、人間としての生き方を取り戻そうとするのだが、その途上で殺害されるという話に作り替えられている。
そして、最後の「敵討ちが武士の・・・」という台詞を、原作は森が堂々と述べるのだが、ドラマでは、殺人を犯してしまい、目の前にいるのが長谷川平蔵であることを知った森が、かなりショックを受け、罰せられるのかと呆然としているのに対して、平蔵が「敵討ちが・・・」と諭すようにいって、励ます形になっている。平蔵も、半四郎も、森もすべて人間臭い姿を表わすのだ。
原作の大きな変更
鬼平ドラマでは、これが意外と多い。
「むかしの女」
これまでみた鬼平ドラマで最も極端な改作となっているのが、「むかしの女」である。
原作の粗筋をみておこう。
人足寄場帰りの平蔵の前に、老婆おろくが現れ、胸の刀傷をみせる。昔、平蔵がおろくに溺れていたとき、嫉妬で霧つけた傷なので、おろくとわかる。平蔵はおろくが困っていると解釈して、金を与える。おろくは、以前娼婦をしていたときの客に偶然あったとき、その男が迷惑がって、お金をだしたのに味をしめ、相棒おせんに、長谷川平蔵からもお金をとれるところを、みせたのだ。おせんは、娘に大金をとる計画を「内緒」といって話してしまう。それがまわりまわって、ごろつき浪人の雷神党に伝わり、雷神党の首領が、「自分は、おろくの弟で、おろくは、お前の子どもを生んで、結婚する」と大金を2度にわたって大丸屋を恐喝する。一度目は払うが、二度目のときに、岡っ引きの文次郎に相談し、文次郎が平蔵にそれを伝える。平蔵は、おろくにあったあと、密偵たちがおろくがいなくなったことを心配していたので、雷神党がおろくをねたに恐喝していると予想し、雷神党のねぐらを襲って、全員切り殺してしまう。そこからおろくの死体が発見される。
おろくは、被害者で殺害されてしまうが、ゆすりの常習者に落ちぶれた悪人である。しかし、ドラマでは、おろくはまったくの善人で平蔵の手伝いもする。
おろくは、針を売っていて、悪行に手を染めておらず、偶然に平蔵とあって、旧交を温める。そして、平蔵が、雷神党探索を手伝ってくれと頼むのである。おせんが、娘に秘密を話してしまって、雷神党まで伝わっているのは同じであるが、探索しているおろくが、雷神党に見つかってしまい、拷問され、平蔵の密偵をしていることを白状してしまう。そして、絶対助けにきてくれる、と啖呵をきったときに、平蔵が「その通りだ」と打ち込み、雷神党を壊滅させる。そして、おろくは、病気でもあるので、ひっそりと消えてしまう。殺されることもない。
原作では、平蔵は、女性の密偵を使わず、自分から志願してきたおまさに対しても、かなりの間それを許さなかった。もう一人密偵になるのは、最終巻に登場するお糸だけである。だから、原作ファンなら、このドラマ版「むかしの女」には、白けてしまう者が多いのではないだろうか。物語としても、原作のほうがいかにも鬼平犯科帳的雰囲気に満ちている。
では、何故このような大きな変更をしたのだろうか。この台本は、最初のドラマ化である松本幸四郎バージョンでも、同じであり、かつおろくを演じた女優が同じなのである。つまり、大女優山田五十鈴のための変更と考えるのが自然だろう。山田五十鈴を、単なる恐喝女にしたり、殺害されたりという役にすることはできなかったのだろう。ドラマでは雷神党に捕まったおろくが拷問されるが、そこに平蔵が助けにきて、お決まりの乱闘になる。しかし、原作では、雷神党の恐喝をきっかけに、壊滅させるためであり、そのときにおろくは既に殺されている。(ただしん、平蔵たちはそれを知っていたわけではない。)
「山吹屋お勝」
これもドラマでの変更が非常に大きい。
原作は、筋の進行は単純である。
平蔵の従兄弟の名主三沢仙右衛門が、茶屋のお勝にいれあげ、結婚すると言い出すので、息子の初像が平蔵に相談。平蔵は、お勝の見定めにいき、その護身術に疑問を抱く。そこで、密偵の利八に、三沢家の親戚と称して、より詳しく見てくるように依頼する。実は、利八とお勝は、以前禁止された盗賊仲間での恋に陥り、強制的に分かれさせられた関係だったのだが、二人でそこから駆け落ちしてしまう。お勝つは網きりの甚五郎の命令で、仙右衛門に近づき、殺害する目的だったのである。利八は、お勝から網きりの甚五郎の居場所を聞き出し、平蔵に手紙で知らせ、一網打尽にされる。
ドラマでは、利八に調査を依頼するところまでは同じであるが、利八は、お勝が部屋に来る前に遠くからみて、かつての恋人であることを知り、その場を逃げ出してしまう。あとで、お勝を訪れて、よりを戻そうとするが、お勝が、甚五郎の手下の政と好き合っていることを知って、政とお勝に別々に逃げろと説得する。しかし、甚五郎の手下に、政とお勝の関係が知られてしまう。再びお勝をにげるように説得しているところに、木村忠吾が利八にあいにきて、利八が密偵であることを、お勝が知ってしまい、甚五郎のところに逃げていく。しかし、既に甚五郎は、政を殺害しており、お勝も殺そうとする。利八と忠吾が、お勝を追いかけて甚五郎の居場所を突き止めたために、大至急平蔵に知らせて、大乱闘の捕り物になり、そのなかで、甚五郎は捕縛されるが、お勝も利八も死んでしまう。
多くの場合、日本のテレビドラマは、原作が悲劇になっていても、ドラマでめでたしの終わりに変更されることが多いが、この場合、原作では、利八とお勝は逃げ果せて、おそらく二人で暮らすようになるのだろうが、ドラマでは、二人とも殺されてしまうかなり陰惨な結末になっている。通常の変更の逆なのである。
ドラマのほうが、悲劇的要素になっているのは、もうひとつ、かつての盗賊仲間として、禁じられた恋の代償として、原作では、利八が別の盗賊団に移ることになり、分かれさせられるだけであるが、ドラマでは、皆の前で、利八が自分で小指を切る。従って、利八は小指のない男になっている。しかし、江戸時代にこうした指詰めの儀式は、盗賊のあいだにはなかったと言われているので、若干興ざめである。
「五年目の客」
お吉は、五年前に、女郎をしていたときに、客となった音吉が酔って寝込んだ隙に、50両を盗んで逃亡する。5年後、丹波屋に引き込みとして泊まり客になった音吉は、そこの女将となっていたお吉と合い引きを重ねている。お吉は、音吉が体で50両返済を迫っていると思い込み、音吉は、お吉が自分に気があると思い込んでの逢瀬だったが、夫に、音吉さんはいつまで滞在するのかと聞かれて、勘づかれることを恐れ、次の合い引きのときに、やはり酔って寝込んだ音吉を殺害して逃げる。既に、この二人を監視下にしていた平蔵たちは、音吉の死を秘密にし、丹波屋に入り込んで、音吉の代わりの引き込みを演じて、盗みに入った羽佐間の文蔵一味を一網打尽にする。お吉は、すべてを白状するのが、平蔵は、夢をみているのではないか、と罪を問わない。
ドラマでも大筋では同じなのだが、重大な変更がある。
最後の逢瀬で、お吉は、五年前のことを告白し、50両返すから許してほしいと頼むのだが、そのときはじめて気づいた音吉は、かえって居丈高になり、襲いかかっているうちに、お吉が簪で刺し殺してしまう。そして、平蔵に、夢をみているのではないかと許されるのは同じだが、最後にお吉は、入水自殺をしてしまうのである。ここまで、不幸な生い立ちにもかかわらず、気丈に生きてきたお吉が、入水するというのは、なんとも不自然で、悪いことをした女性が、幸せに生きることは許せないという、脚本家の信念でもあるのだろうかと、ふと思ってしまう、ふたつの改作である。