ウィンナワルツのウィーン風

 昨日は、私の所属する市民オケのコンサートだった。観客も多かったのは、曲のせいか、コンチェルトをやったせいか、あるいは、天気がよかったせいか。演奏する側としては、やはり聴衆が多いといい感じだ。ミスもいくつかしてしまったが、眠気覚ましのチェコレートを食べたせいか、途中、疲れはしたが、最後まで気力がもった。
 ブログにこれまで、自分の出た演奏会について書いたことなどなかったのだが、普段考えていることを、今回の演奏曲目で再度考えさせられたので、書いてみる気持ちになった。
 前プロという最初の曲で、ヨハン・シュトラウスの「春の声」を演奏した。演奏会全体のテーマを「春」としていて、最後のシューマンの交響曲第一番が「春」という題なので、5月にふさわしいというわけだ。「春の声」は、シュトラウスのワルツでも、特に人気の高い作品で、メロディーはクラシック音楽のファンではなくても知っているだろう。ところが、ウィンナ・ワルツというのは、非常に演奏が難しく、ちゃんとしたウィンナ・ワルツはウィーン・フィルの専売特許のようにいわれている。ベリルンフィルにしても、シカゴにしても、シュトラウスのワルツをやっても、ウィーン風にはやらない。欧米文化を土台にしているひとたちでも、感覚的にできないのだ。
 まして、日本人にとっては至難のテクニック(?)なのである。
日本人は3拍子が苦手
 まず、日本人には、3拍子がうまくできないと、私たちのオケを頻繁に指揮してくれる人は、よくいっている。日本人は偶数拍をうまくとれるが、3拍子とか8分の6というのは、ほんとうに「らしくない」リズムになってしまうのだそうだ。偶数拍子は、だいたい行進のリズムである。日本人は行進が好きというか、学校でもよくやらせるので、得意なのだが、3拍子は、主にダンスのためのリズムである。ところが、日本のダンス、舞踊と、ヨーロッパのダンスは、基本的に体の使い方が違うとされている。女性のバレリーナの履くトゥーシューズに象徴的なのだが、ヨーロッパのダンスは、ほぼ「足の動き」が中心なのだ。クラシック・バレエにしても、ジャズ・ダンスにしても、足が躍動的に動き、上半身はそれにのっかったような動きをする。その躍動的な動きに回転がはいると、音楽のリズムが3拍子になるわけだ。有名なジゼルのバリエーションで、片足でステップを踏みながら、他方の足でリズムをとるように動かす場面などは、その典型だ。(ただし前半は3拍子だが、この部分は2拍子系)https://www.bing.com/images/search?view=detailV2&id=E651C32B7E3156400C7A55D6A77CC51DB2D63025&thid=OIP.Y7UlHkl7mRQwjkEV_loamgHaJ4&mediaurl=http%3A%2F%2Fwww.namue.jp%2Fimages%2Fconcours%2Fgp_05%2F05-1-1.jpg&exph=387&expw=290&q=%e3%82%b8%e3%82%bc%e3%83%ab+%e3%83%90%e3%83%ac%e3%82%a8&selectedindex=51&ajaxhist=0&vt=0&eim=1,2,6


ところが、日本舞踊などをみても、典型的には阿波踊りがそうだが、日本の踊りは、体の動きは手が中心であって、足がそれについていく形だ。足の動きは、速い遅いはあっても、基本的に前に進む動きであって、したがって、阿波踊りはほとんどが2拍子である。https://www.bing.com/images/search?view=detailV2&id=41570979F2AB7E8D375D891D7258398A221F9D0C&thid=OIP.4dcv1AczoRGBf7W_Z_rNYgHaE5&mediaurl=https%3A%2F%2Fwww.jalan.net%2Fnews%2Fimg%2F2015%2F08%2F20150821_minamikoshigaya_awa_np-670×443.jpg&exph=443&expw=670&q=%e9%98%bf%e6%b3%a2%e8%b8%8a%e3%82%8a&selectedindex=17&ajaxhist=0&vt=0&eim=1,2,6

 つまり、日本人は、3拍子系で、足を躍動的に動かすダンスを踊る習慣が、伝統的にない。だから、3拍子のリズム感が身体に染みついていないわけだ。
 更に、ウィンナ・ワルツは、フランスやロシアのワルツと違って、ダンスそのものに特徴があるように見える。ウィンナ・ワルツはあくまでも実際に踊るために作曲され、また演奏される。ウィーンの青年は、ウィーンの舞踏会に出て、実際に踊る習慣がある。そして、これは男女一名ずつが組になり、女性が回転をするような部分が必ず含まれる。その際、男性はその回転を補助するために、力を添える。その添える力が、ウィンナ・ワルツの独特なリズムを生みだしたといえるのである。(3拍子が均等ではなく、2拍目が若干強調され、前のめりになる感じ。)更に、ウィンナ・ワルツは、短いワルツが数曲接続される形で作られている。小さなワルツが終わると、次にいくよ、というような挿入句が入り、新しいワルツが始まるのだが、ここで、新しいワルツは、出だしをゆっくりにして、少しずつ速くしていくように演奏される。その方が当然踊りやすいということだろう。ウィーン・フィルは長く、ウィーン音楽院で学んだ人しか入団することができなかった。つまり、彼らは、若い頃から、この踊りに親しんだいたひとたちであって、そのリズム感が体に染みついている。
 しかし、他の国では、ワルツを踊っても、踊り方が違うので、リズム感覚が異なり、ウィーンのようにはいかないのである。私の知るかぎり、アメリカのオケは、あっさりとウィーン的スタイルを捨てて、普通の3拍子で演奏する。ヨーロッパもだいたいそうだ。カラヤンは、ウィーンフィルでの録音は、ウィーン風だが、ベルリンフィルでは、まったくウィーン風を無視している。
 外国人がウィーン風をやると
 さて、やっと、昨日の演奏会だ。
 私たちの指揮者は、このウィーン風に非常に拘る人だ。前にも、別のオケでウィンナ・ワルツを演奏したことがあるので、同様だった。何度もウィーン風のリズムを説明し、練習した。一度代振りの人がきたときに、「すごくウィーン風ですね。ベルリンフィルもこんな風にはできないですよ」と感心していたくらいだ。(笑)
 しかし、世の中には行きすぎというか、やはり、よそ者がやると自然さがなくなるということがある。
 ワルツのウィーン風というのは、いってみれば、「方言」なのだ。方言を実際に生まれ育つなかで身につけた人たちは、「方言」だと意識せずに、話しているはずだ。しかし、東京育ちの役者が、大阪弁の役をやって、習い憶えた大阪弁をしゃべっているときに、多くの大阪人は、不自然さを感じているに違いない。たぶん、過剰になったり、足りなかったり、いかにも、大阪弁を話しているという態度が出てしまったり。
 今回の演奏でも、それが出てしまっていると感じた。リズムよりは、テンポで。次のワルツにいくときに、最初はゆっくりとして、次第に速くするという、これは実に難しいのだ。ゆっくりだというので、ゆっくり具合が次第にエスカレートし、逆に速くするというので、すぐに速くなってしまう。「少しずつ」というのが、やはり、自然にはできないのだ。これは指揮者のせいというのでもなく、おそらく、練習期間が長いので、やりたいことが、過剰にできるようになってしまうということなのかも知れない。
 実は、今年のウィーン・フィルのニューイヤーコンサートで、まったく同じことを感じたのだ。今年の指揮者は、ベルリン生まれでベルリンで学んだ典型的プロイセン人のようなティーレマンだった。彼は、ウィーンとの関係も強く、やっと登場という感じなのだが、やはり、ウィーンスタイルが大げさなのだ。「俺はちゃんとウィーン風を知っているぞ」という感じなのが、いかにも、とってつけたような、大げさなウィーンスタイルになってしまっている。ウィーンそのものを体現しているといわれていた、ウィーンフィルのコンサートマスターで、ニューイヤーコンサートをほんとうに長い期間指揮し続けたボスコフスキーの演奏を聴くと、リズムにしても、テンポの変化にしても、実に小さいもので、よく聴かないと気づかないほどなのだ。これがウィーンの味なのだなあ、と感じさせる芯もある。
 ウィーンフィルは今世紀にはいって間もなくくらいからだろうか、外国人をも採用するようになった。女性を採用するようになったのは、アメリカでの批判にさらされたからだが、外国人に門戸を開いたのは、各国のどのオケも技術水準があがり、ウィーンフィルは、かえって、演奏技術が弱いと批判されるようになったからだろう。画面をみながら、ニューイヤーコンサートを聴いたのだが、弦楽器の少なくない人が、ウィーン風に弾いていないのである。私たちのオケで、ウィーンフィルのコンマスのホーネックさんが、何度かソリストを務めてくれたのだが、たまたまあるときに、「美しく青きドナウ」が曲目にはいっていたので、ウィンナ・ワルツの演奏で大事なことをいくつか指摘してくれた。その中に、リズムを刻む弦楽器は、決して、はずむように弾いてはいけない、必ず一端弓を絃につけてから弾くように、という注意があった。しかし、今年のウィーンフィルの何人かは、絃をはずむようにリズムを刻んでいる。びっくりした。ああそうだ、今は外国人もけっこういるのだ。若いころから、ウィンナワルツに親しんでいるわけでもないのだ。そして、ワルツを演奏する機会もそれほど多くはないはずだ。
 これで、指揮者のドイツ人ティーレマンと、外国人団員ということで、自然な「方言」ができなくなってしまったのか、と思ったのだ。
 音楽の方言、民族性は、どこまで尊重される必要があるのか。民族的な音楽は、その国の人が演奏すると、あっさりしていて、外国人がやると、濃厚になるとよくいわれる。どうしても外国人は、その特殊性を強く意識するからだろう。しかし、やはり、意識せずに自然に出てくるのが民族性であり、方言なのではないか。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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