大分前の文章だが、山田順という方の「本当に医者が死なせたのか?「人工透析中止」問題で続く“偽善報道”への大いなる疑問」という文章を読み、かなり問題があると思ったので、再度書くことにした。(https://news.yahoo.co.jp/byline/yamadajun/20190320-00118973/)
題でわかるように、毎日新聞を中心とする人工透析中止問題の報道に「偽善報道」「エセヒューマニズム」という悪罵を投げつけている。
氏の主張を整理しておこう。
・メディアは、命がなによりも大切、医者はどうしても助けるべきという思いにとらわれすぎている。
・報道は、病院側に問題があったという視点でしか報道していない。
・患者は死の前日「透析中止」を撤回して再開を希望したが、その前に中止の意思確認書を書いていた。だから、中止の意思は明確だった。患者は死にたいと思っていた。
・日本では安楽死は認められていないが、尊厳死は認められている。だから、医師側は尊厳死を受け入れた。
・患者の「死にたい」という意思を無視して、医者は生かさなければならないと、メディアは報道している。
・苦しみのなかで再開を希望した意思よりは、確認書の意思を医者は尊重すべきである。(だから、正しい選択だった。)
・「救うこと=生かすこと」ではない。治療できない病気があり、腎機能の低下はそれで、最終的方法は腎移植である。
・透析学会のガイドラインや説明不足はあったかも知れないが、本質は、患者の死を選択した意思である。
・オランダでは、死を望みながら拒否された患者が絶食したことが、安楽死の全面解禁に至った。
・日本では、メディアは、尊厳死すら認めようとしない。
・透析患者は年々増えているが、それは、腎移植がほとんど行われていないこと、保険が効くこと、病院と製薬メーカーの利権になっていることが原因である。
・「透析天国」が解消され、腎移植が普及すれば、今回の患者は助かった可能性がある。
私は一読して驚き、ずいぶんと乱暴な議論をする人だと思ったが、けっこう多数の文章を書いている人のようなので、既に数回書いたテーマだし、重複があるが、再論する。
病院の措置は適切ではなかった
まず事実関係の説明が杜撰である。
当該の患者は、別の診療所で透析治療を行っていたが、血管のシャントが潰れたために、福生病院に来院したところ、首周辺を使って透析を続けるか、透析を中止するかの選択があることを示された。シャントが使えなくなったら透析をやめると、以前から考えていた患者は、やめることを申し出、文書の確認書に署名した。
山田氏は、これで本人の意思が明確になっているのだから、あくまでもこの意思確認を尊重するのが「本質」だと書いている。しかし、多くのメディアが問題にしているのは、このプロセスが適切ではないということだ。
まず、選択肢がこの二つではなく、他にも複数の治療を含む選択肢があったのに、それを提示していないこと。死を意味する選択をするのに、極めて短い時間した与えていないこと、そして、透析を中止すると、どのような状態になるかの説明をしていないように思われることの三点である。この三点で、病院は致命的な誤りを侵したといわざるをえないのである。
他の治療法については、やはり、いろいろな人から説明があったので、ここでは省く。
山田氏は、オランダの安楽死を説明に使っているが、これもほとんど誤解としかいいようがない。オランダでは、安楽死の文書を作成するときには、長い期間をかけ、本当に患者が安楽死を望んでいるのかを、何度も何度も確認する。しかも、まったく違う医者が、別の機会に同じ確認をするのである。そして、文書の確認をしても、ただちに安楽死の作業にはいるのではなく、実はかなり長い間実施しないのである。だから、確認の文書に署名しても、実際に安楽死の措置を受ける人は20%程度といわれているのだ。
福生病院の文書確認書は、病院内の医師だけで確認しているだけだから、オランダの原則とはまったく違う。他の病院の医師が、別途確認をしないと、本当に患者が望んでいるの確認にはならない、というのが、オランダの原則なのである。しかも、確認文書を書いてから、すぐに透析中止の措置にしまっているのも、オランダの原則とはまったく違う。
それから、透析を中止すれば、かなりの苦痛に襲われるということの説明である。苦しさに患者が、やはり透析再開をしてほしいと希望したということは、そのような苦痛に襲われることを、充分に自覚していなかったということだろう。そして、尊厳死とか、安楽死とは、襲ってくる「苦痛」を最大限取り除く措置をするものなのだ。ところが、病院はそうした措置はとらずに、ただ中止しただけのようだ。だから、苦しみだしたわけである。そして、再開を希望したのに、それを拒否し、あわてて苦痛除去の措置をしている。もし、患者が透析を拒否して、死を望んでいるのだというとき、とるべきは、透析中止とともに生じるはずの苦痛を除去する措置を充分にとることである。その措置をとらなかった病院の誤りもまた、明らかである。
社会状況も誤解している
山田氏は、ご自身が腎臓を悪くして手術をした経験があるから、報道がおかしいと感じたのだそうだが、山田氏は、腎不全にまでは至らず、透析治療には進まなかったのだろう。だから、この患者の状況とは異なるように、私にも思われる。
最終的な治療は腎移植であるというのは、誰でもがいっていることである。しかし、氏自身が腎移植がほとんど行われていないことを認めているのに、腎移植が普及すれば、患者も助かった可能性があるなどと書いている。まるで、腎移植を病院が熱心ではなかったり、あるいは、何か容易に解決可能であるかのような書き方だが、これは、腎臓提供者が少ないという理由によるのであって、その理由については、様々に議論されている。早急に解決できるようなことではないことは、誰でも知っている。そして、透析が究極的な治療でないことも、みな承知のことだろう。しかし、透析をしていけば、普通の生活ができるし、かなりの延命が可能になっている。そして、透析の方法は複数あって、福生病院が示しただけのものでもない。明確に主張しているわけではないが、透析を保険対象としているのが間違いであるかのような書き方である。ここには、怒りを感じた。
最後に、日本では安楽死は認められていないが、尊厳死は認められている、というのも、どこからそう考えるのかよくわからない。日本では、実際に尊厳死を依頼されても、断る医師が多いといわれている。尊厳死とは、医師としては、「治療停止」となるので、治療放棄の責任を問われることを恐れるのである。そもそも、安楽死とか、尊厳死を対象とした法律そのものが存在しないのだから、性格に認められている、いないなどは論じられないのである。
しかし、安楽死に関しては、下級審での「違法性阻却事由」に関するほぼ合意された内容がある。だから、それにそった安楽死であれば、違法ではなくなる可能性が認められているのである。あくまでも下級審の判例だが、論理としてはきちっとしているので、上級審でも維持されるのではないかと、私は思っている。尊厳死については、法案が準備されたが、成立はしていないはずである。だからといって不可能であるわけではなく、法律があることと、実際にある条件下で許されることとは別のことなのだ。はっきりしていることは、安楽死も、尊厳死も、法律レベルでは認められていない。もっと、社会的な議論が必要であると思うが、医学教育における「法律の教育」が、私は不十分ではないかと思っている。
和田教授による心臓移植が、乱暴な手続きで行われたために、日本での心臓移植が遅れたといわれているのと同じ効果が、今回の福生病院のやり方にはあると思う。そこが問題なのである。安楽死や尊厳死を法的に容認すると、たとえ患者の気持ちが変わっても、こんな風に病院から無視されてしまうのだ、という危惧が当然生じるだろう。丁寧な議論と、慎重な対応が必要なのである。