学校教育から何を削るか10 PTA

PTAと差別の議論
 2、3年前だったか、PTAでの差別問題がメディアを賑わせたことがある。卒業式の記念品を、PTA会員ではない保護者の子どもには与えなかったとか、登校班から外されたというようなことが、話題の中心だった。差別はしないように、というような感じで終息したように記憶するが、しかし、問題の立て方がずれている。逆に考えれば、PTA会費で購入した物品を、会員でない者にも配布するのであれば、会員からクレームが出てもおかしくない。会費を払っていなくても配布すべきだという結論は、私には納得できない。そもそも、PTA会費で、卒業のお祝いを「個人対象」に贈るという行為自体がおかしいのだ。PTAという任意団体が行うことの領域に対する「けじめ」感覚が欠如していると思う。登校班の件も、PTAがやることに無理がある点では同じだ。ただし、掘り下げる必要がある。
 日本では登下校は誰の責任範囲なのかが、不明確である。
 ヨーロッパは「保護者」の責任であるという社会意識があるようだ。だから、小さい子どもは親が送り迎えする。アメリカは、自治体の責任なのでスクールバスを走らせる。法的に明確になっているかは、詳らかではないが、大方そのように運営されている。しかし、日本は、なんとなく学校の責任であるように思われているのではないだろうか。そのために、入学間もない一年生は、担任教師が途中まで送っていったりすることが多い。しかし、いつまでもできるわけではないので、登校班を作って、上級生がリーダーとなり、途中ボランティアの保護者や地域の人が見守る。
 ここにPTAが関わっているとすると、PTAの自発的な発案による取り組みなのか、学校が依頼したのか、ふたつの場合があるだろう。学校が依頼して、PTAが協力しているのならば、会員でない保護者の子どもを除外するのは、明らかにおかしなことだろう。もし、PTAとして、会員の子どもだけを対象にして、登校班を組織し、PTAがその安全を保障する活動をするというのならば、それをPTAの正式機関で話し合い、決定して、その趣旨を全校の保護者と子どもたちに、明確に示しておく必要があるだろう。それが受け入れられたのならば、非会員の子どもを登校班にいれないこともありだろう。しかし、そのようなことが、PTAの会議で決まったり、あるいは、伝達されたときに疑問がだされないということが、ありうるのだろうか。
 登下校に拘ってしまったが、これは、交通事故との関連もあるので、もっと詳しく論じる必要があるのだが、日本の道路事情や家庭事情では、親が個人的に送り迎えするのは難しく、ボランティア(保護者を含む)が、見守る活動をすることは、いいことだろう。PTAが協力することは、あってしかるべきだが、それはあくまでも学校、あるいは自治体が行う公正な活動の一部を担うのであって、PTA固有の会員対象の活動であってはならない。
 さて、このような差別問題が中心の議論から、その後、PTAそのものの存在意味を問うような議論が多くなっているように感じる。
不徹底な廃止論
 「PTA廃止校が語る PTAを廃止してわかった気づき」という記事は、学習塾を学校にきてもらったことで話題になった和田中学の例で、2008年に、PTAを廃止したという記事である。https://www.mamatenna.jp/article/71830/
 ただし、完全にPTAを廃止したというのではなく、連合組織から脱退し、名前を保護者会としたという内容に過ぎない。校長にインタビューしているが、要するに、上部組織に加盟していないPTAであるというのが正しい。PTAは学校に協力する団体であり必要だし、PTAがないと親の発言場所がなくなる、として、この改革を現在の校長も肯定している。上部組織から脱退したので、加盟費用がなくなって財政的に楽になったとか、あるいは会議にでる必要がなくなったというようなプラス面を述べているが、PTAが学校への協力組織であるという位置づけは確固としている。
「もはやPTAを禁止する法律が必要か?「やめたらどうなる問題」を考えた」というページでは、(大塚玲子 https://news.yahoo.co.jp/byline/otsukareiko/20181222-00107704/ )廃止論も含めて多様な見解が出されているが、「課題は非会員の子どもへのいじめをなくすこと」と見出しでわかるように、確固とした廃止論ではない。「その上で「保護者が学校内で特定の子どもを排除した場合には、学校長から指導ができるように、法律上の根拠をつくったほうがいい段階にきているのでは」と話した。」という指摘もある。
 このように、PTAの問題をどう解決するかという議論は、多くの場合、私には本質から外れているような気がするのである。役員問題、会議時間の問題、会費徴収の問題等々。
 私から見ると、これらは、PTAそのものの性質からくることで、PTAが学校への協力機関であることが、基本的な問題なのである。アメリカ発祥の組織云々ということは抜きにして、戦後PTAが作られたとき、敗戦国であり、また、中学校というそれまでなかった学校を義務教育学校として全国に作らねばならないという、苦しい状況にあって、PTAは様々な協力を学校に対して行ってきた。学校の設備や、広く教育活動の協力、行事への参加等々、その功績は大きなものだった。しかし、今やその役割はなくてもよいし、逆に教育の阻害要因になっているのではないか。だから、PTAは廃止すべきなのである。
 ただ、それは、保護者の組織が不要だというのではなく、まったく逆である。単なる協力機関ではなく、一定の権限をもった保護者の機関が必要なのである。
 現在のPTAの活動時間はほとんどが昼間であり、だから仕事をもっている人は参加できない。それは学校への協力活動が前提だから、学校と同じ時間内に活動する必要があるのだ。最近は少なくなっていると思うが、それでも財政的な援助は多いし、人的援助も大きい。それが中心の活動になっているのだから当然だろう。
 こうした条件での活動なので、任意加入といっても、会費が多く必要であるし、人的応援部隊も必要なのである。そこで、任意だが、実質的に強制加盟であるようなやり方をとることになる。学校から名簿をもらう、学校の集金とあわせてPTA会費を集めてもらう等々。
必要なのは父母の権利
 PTAに欠けているものは何か。それは父母の意思を学校の運営に反映する権限である。日本の学校運営は、公立学校の場合、設置者の権限(行政的には教育委員会)が、校長に及び、校長が校務を司るということになっている。運営上、教師、父母、生徒には権限がないわけである。しかし、民主主義というのは、構成員がそれぞれに応じて、運営に対する権限をもっていることである。一般企業は、民主主義的な運営をする必要はないから、ラインの命令系統で動くことは、別になんら問題はない。しかし、公立学校は、営利団体ではなく、国民がかかわる教育事業の組織である。民主主義社会を担う若者を育てる場であるのに、民主主義的な運営がなされないというのは、必要な教育機能を充分に果たせないことになる。民主主義を「説明」しても、それだけで修得できるわけではないのである。
 私は、ずっと中学の社会科と高校の公民科の免許をとろうとする学生を指導している。そして、模擬授業をかなりやるのだが、憲法の基本的人権を扱う場合、まず、学生たち自身が「権利」を実感していないこと、いつも感じる。彼らは、知識としては、憲法の人権規定を知っている。しかし、それがどういう意味をもち、現実社会の中でどのように問題となるのか、というリアルな感覚をもっていないのである。それは、彼らの責任ではない。権利を単に「知識」として学習してきたから、実感をもてないのは当然なのだ。では、最も必要で、かつ効果的な「権利の教育」は、何か。学校の場で、当人たちが、権利をもつことなのである。学校教育を支えている教職員、生徒、父母たちが、それぞれの固有の領域で権利をもち、それを保障されていることである。もちろん、学校運営の基幹は、教育委員会と校長である。しかし、他の構成員が、単に協力する、従うという関係で、健全な民主主義者の担い手を育成できるはずがない。
 したがって、PTAは廃止し、権限をもった父母会(保護者会)が組織される必要がある。そこには、教師は入らない。父母会は、親として学校に要求する事項を、民主主義的な手続きで決め、それを学校の運営に代表が参加して、実現を目指す。学校への援助団体ではないし、教職員との共同の場ではないので、学校が教育をしている時間帯ではなく、当然夕方や休日を重要な会議に当てればよい。
 もちろん、学校が保護者たちに、教育活動のある部分を援助してほしいという要請があれば、可能なかぎりそれに応じることは自然なことだろう。しかし、それはあくまでも、協力が前提なのではなく、保護者たちの判断によって可否を決めるのである。
 これまでPTAを便利に利用してきた学校があるとすれば、いかにも不便かも知れない。しかし、本当に必要な協力はこうした関係で可能になるように思うのである。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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