6月号の第二特集が「市場化する学校」となっており、いくつかの論文が掲載されている。非常に重要なテーマであり、私も考えねばならないことなので、何度かに分けて検討したい。今回は最初の小池由美子氏の「教育産業の介入と受容させられる学校 学校を市場に差し出す『学びの基礎診断』」を読みながら、考えてみたい。
この題名だけでも、「教育産業」「市場」「学びの基礎診断」という重要な言葉が出されている。
本論文で扱われている内容を列挙すると
・高大接続
・学びの基礎診断
・グローバル人材
・大学入試の調査書の拡大とeポートフォリオ
センター試験改革
背景として、大学入試のためのセンター試験改革を考える必要がある。入学試験制度というのは、どの国でもやっかいな問題で、どのように改革しても、欠陥が現われてくるものだ。だから、数年から10年単位で必ず変更がなされている。センター試験だけではなく、大学入試に関して、様々な問題が生じていることは間違いなく、立場によって評価も異なるだろうが、私の考える「現象的」な問題を整理してみる。
まずは、入学試験でありながら、学力をほとんど問わない形式の試験が非常に増えてきたことである。このことによって、大学側でも、以前のようにすぐに大学教育にはいることができず、補習教育をしなければならないような大学が出てきた。
その結果として、高校の格差が拡大し、高校生の学習に、ますます大きな開きが出てきたことである。文科省が行った調査で、高校生で家庭学習をまったくしない者が4割近くもいるという。かつて、日本は初等・中等教育のレベルは高いが、高等教育のレベルが低いといわれていたものだが、これでは中等教育のレベルまで低下してしまうという危惧がでてきた。高校生としての最低限の学力を身につけさせるという課題が議論されたわけである。
センター試験は、当初国立大学の受験生を主な対象と想定していたと思われるが、今や私立大学受験生のほうが多く、科目利用等も多様化しており、また、センター試験がモデルであったアメリカのSATは、年に複数回実施されるのに、日本ではあいかわらず一発勝負であることへの批判等があった。(複数回はどうやらやらないらしい。)
こういう中で、高校と大学の接続のあり方を問う声が多くなってきたわけである。
他にもいろいろとあるだろうが、とりあえず、この論文に戻ろう。
学びの基礎診断
小池論文は、「学びの基礎診断」や「eポートフォリオ」などがでてきて、それが教育産業に丸投げされ、学校が市場に差し出されてしまう」という批判をしている。問題意識には共感するのだが、賛同できない点も少なくない。
まず「学びの基礎診断」とは、センター試験の改革の途上で、センター試験を資格試験化するという案が一時議論された。共通一次試験のときからあった意見だが、モデルのSATは資格試験だから、当然の意見ともいえる。しかし、日本の入試は徹底的に競争試験として行われてきたので、賛同が少なかったのだろう。結局、「大学入学共通テスト」は、競争試験のままだが、高校で学ぶべきことを修得したかをテストするという資格試験的要素として、「学びの基礎診断」が考案され、動き出しているわけである。今年度からの導入なので、実施実績はまだわからないが、この「学びの基礎診断」は、文科省の資料によれば、かなりの民間テスト会社や教育産業がかかわっている。文科省に申請して、承認されれば、実施できる。科目別に数社ずつあるようだ。受験料がだいたい4000円から5000円くらいで、受験は義務ではなく、どの機関の試験をうけるかの選定も、文科省が決めるのではなく、設置者や学校が決めるということになっている。学校で決めても、個人として受けないことはできるだろうが、それは学校の雰囲気にもよるのかも知れない。
小池氏が批判するのは、ここに教育産業が入り、教育産業が実施しているということにある。では、国家がやればいいのか、という疑問も生じるわけである。
いくつかの検討事項があるように思う。
まず第一に、高校生としての最低修得をチェックするような試験があるべきかという問題。全体として、日本の教育は、義務教育から、課程修了認定がない。中学時代ほとんど不登校でも卒業証書を出すくらいだ。制度をしっかり運営しないということは、やはり好ましいとはいえないのではなかろうか。だから、まずは、「学びの基礎診断」は中学で行うべきであるが、高校でもあってしかるべきだとは思うのである。では、それを民間の教育産業に委ねるのは間違いで、公的機関が行うほうがよいのかという問題になる。小池氏は、全国学力テストについて、(反対であることを表明しつつ)「その作問は少なくとも教育産業ではない」と書いているのだが、私も確実なことはわからないけれども、全国学テは、ベネッセが委託されていると、何かで読んだことがある。
1960年に行われた全国学テは、国家が試験をすることに対する反対運動が大きかったのである。オランダでは、中学の選択のために行われるテストを実施する機関CITOというのがあるが、これは、文部省の外郭団体になったり、民間になったり、かなり組織の性格が変動している。現在は民間機関になっていて、比較的長く続いているようだ。こうしたテストを国家機関が行うことのほうが問題だということだろう。
第二に、教育産業の介在なしに、可能なのかという問題がある。私たちは、既に議論の対象にもしていないが、学校教育の教材はほとんど教育産業によって作られている。まず教科書。戦前は国定教科書だったが、戦後民間の出版社が作成し、検定を経ることになっている。検定制度の問題性は訴訟にもなっているから、誰でも考えたことがあるだろうが、民間の出版社が作成していることに疑問をもつ人はかなり少ないのではないかと思う。更に、日常的なテスト。私が小学生の頃は、テストはすべて担任の教師が作成し、ガリ版印刷でつくったざら紙のプリントで行っていた。そのうち、市販テストを使うところがでてきて、これは、大論争になった。テストは、教えている教師が、子どもたちの学びの実状にあわせて作成すべきものではないかという議論である。しかし、今では、自作の問題でテストをしている公立小学校はほとんどないだろう。自作しろなどといったら、「私たちに死ねというのか」などといわれかねない忙しさである。副教材、教具等、すべて教育産業が制作したものだ。高校受験や大学受験の資料のために行われる模擬試験だって、教育産業である。あるとき、それではいけないというので、教育委員会主導で作成などということがあっても、長続きしたものはない。
私は、学校が教育産業と関わりをもたずに教育をするのは不可能だと思う。それは誰でも同意するだろう。だから、必要なことは、自分たちの学校や学級にとって、ほんとうに必要な教材、教具をきちんと選択し、どこか知らないところで決まってしまうようなことがないこと、教育産業には、情報提供を求め、「学びの基礎診断」などは、どのような学力を、どのような方法で試すのか、という事前の情報開示と、結果に対する丁寧な分析情報の提供を求めることが必要なのだと思う。
eポートフォリオ
次は高大接続にかかわる、調査書の拡大と、それに対応するためのeポートフォリオに関して。
私は、ポートフォリオは有用なものだと思っているし、必ず紙ベースではなく、eポートフォリオにすべきだと思っている。紙ベースのポートフォリオは、私の大学でも、特定の目的で使用しているが、ほとんど役にたっていない。小池氏は、民間と契約すると、月額での課金となると書いているが、私も、これは非常におかしなことで、こういうことについては、文科省がモデルポートフォリオを作成して、各学校で利用可能なように公開すべきものであると思う。ポートフォリオは、生徒たちが書き込むものなので、形式に過ぎないわけであり、文科省が作成すれば、学校単位では、そしてもちろん、生徒たちに費用はかからない。こういうことで、生徒たちに負担させることを放置するような行政であってはならない。もちろん、教育委員会が作成してもいいが、モデルを使いつつ、必要に応じてデータを付加することはできるので、多様な形式である必要はない。現在の学校のパソコンは、教育委員会の設置するクラウドで動いていると思われるので、そこにおいて、随時書き込み、担当教師が読めるようにしておけば、有効活用できるし、また、調査書記入に活用もできるはずである。
小池氏がどうかはわからないが、こうしたICT利用に関して、学校、教師はともすると消極的でありすぎる。そこに、新しいことがはいってくると、容易に教育産業の提案に飛びつくことになってしまう。実はポートフォリオの形式などは、そんなに難しい知識はいらないのである。検索をかけたり、統計処理したりするには、専門家のプログラムが必要だろうが、それは統一的ものを作ればいいので、学校として、前向きの姿勢で積極的にあるべき姿を模索することが必要ではないのだろうか。