以前は「相棒」の熱心な視聴者だったし、講義でよく触れたものだ。考えさせる内容が豊富だったのだ。しかし、最近は特に台本の質が落ちて面白くなくなったので、ほとんど見なくなっていた。久しぶりに、見ようと思い、録画した今シリーズ第3回「辞書の神様」をみたが、不快になった。ドラマに何を求めるかは、人それぞれだと思うが、この手のドラマ作りが「相棒」には多くなっているので、どうしても気になった。
あらすじを簡単に整理しておく。
公園で文礼堂の編集者中西が殺害されているのが発見される。
文礼堂には普通の「文礼堂国語辞典」と大鷹公介単独編纂の「千言万辞」がある。後者は読物的な辞書で、右京もファンである。右京が、編集部の和田部長を訪れて、質問すると、和田は、「千言万辞」は売れないからやめようと担当の中西にいうと、中西は、大鷹を交代させるべく話しにいくといって出かけた、と語る。大鷹の弟子だった国島が公園の近くの防犯カメラに写っていたことで疑われ、取り調べられる。しかも、凶器と同じペーパーナイフを所持していた。国島は殺人を認める。
それらに不自然さを感じた右京と冠城は、大鷹用の細かい動作指示のメモから、アルツハイマーを疑う。
大鷹が自首してくるが、取り乱すので入院させる。右京は、完成間近といれわる「千言万辞」のゲラを見て、文礼堂部長の和田が、「千言万辞」に不快感をもっていることを感じ、廃刊したい和田と、国島に交代させて存続させたい中西の対立があり、和田が犯人であることを確信し、問い詰めると認める。
結局、売れない本道の国語辞典の支持者である和田が、大鷹がアルツハイマーであることで、千言万辞を廃刊に追い込めると思ったのだが、担当の中西が、国島を編纂主幹にして予定通り新版をだすというので、中西を殺害するという話である。
そこで、大鷹に話しにいくという中西と同行し、電話で、時間をずらして大鷹を公園に呼び出して、和田が中西を殺害してから、留守の大鷹宅にいって、凶器のペーパーナイフを盗み出すという手口である。
偶然その後やってきた国島が、大鷹が公園にいったと家政婦からきいて、公園に駆けつけ、大鷹がぼんやり座っているのと、中西の死体を見つけることになる。大鷹が殺害したと思い込んだ国島は、自分が身代わりになると決心し、右京らが調べにやってきたときにも、大鷹の悪口を言い立てる芝居をうつわけである。
和田は、大鷹に罪をきせるために、アルツハイマーの大鷹に「自分が殺した」と繰り返しいい、メモ魔の大鷹がそれを書いて、自首させるのだが、結局、真実が右京に暴かれる。そして、実は国島は病気の大鷹に協力していて、辞書は完成し、おだやかに見つける大鷹、国島、助手たちの姿が映し出され、めでたしの結果となる。
当初は、和田の話が印象的だし、国島が大鷹を批判するので、見ているほうも、そういうことなのだと思わせられるのだが、次第に、国島と大鷹の真の関係や和田の立場がわかってくるという筋の展開は、とてもよくできていて、面白いというように受け取る人が多いだろう。
飯間浩明『辞書を編む』がヒントになっている
ウェブでの感想は、とても面白いというのが多いが、私は、はじまってすぐに、不快になった。飯間浩明『辞書を編む』(光文社新書)を読んでいたら、このドラマが、この本の内容の、底の浅いパロディーであることがすぐにわかる内容だからだ。飯間氏の本は、「三省堂国語辞典」7版の制作過程を淡々と記した本で、非常に面白く、評判になったものである。三省堂は国語辞典を何種類か出していて、それぞれが特色をもっているのだそうだ。多くの辞典は、定まった語を見出しに使い、その基本的な意味を記す。しかし、三省堂国語辞典は、創刊以来、新語に重点をおいているという特色なので、どうやって新語を収集するかが詳しく書かれている。飯間氏がデジカメなどの機器をもって、新語を集めていく様子がとても印象的に書かれている。そして、初版を編纂した見坊豪紀について、詳しく書かれている。驚くべきことだが、生涯で140万語以上の語句を集め、実際に収集活動をしていた時期には、4万五千以上単語毎年記録していたという。しかも、きちんと用例付きで、現在でも三省堂資料室に保管されているそうだ。そして、更に、語句の意味を中学生でもわかるようにという方針が貫かれ、同義反復的な説明をさけるべく、いろいろと意味表現を工夫したことが、紹介されている。ここらは非常に面白いので、ぜひ読んでほしい本だ。
さて、ここまで書けば、ドラマの大鷹公介が見坊豪紀であり、国島弘明が飯間浩明であることは、疑いない。ドラマでは、冒頭で、少し高いところで女子高校生が3人おしゃべりをしていて、低いところでおやしげなおやじが何かしている場面からはじまる。誰もが、エロ爺が盗撮か覗き見をしていると思うだろう。右京と冠城もそれを疑って、何をしているのかと尋問するわけである。しかし、爺さんは何やらメモ帳を見せて、叫んでいる。そして、妨害したと右京たちにくってかかるのだが、それを女子高生たちは、面白がって見ている。いかにも不自然な場面だ。やがて右京は、彼が女子高生たちの会話を記録しているのだと理解するのだが、いかにも飯間氏や見坊氏の新語収集を馬鹿にした場面ではないか。もし、本当に新語収集のために密かに聞き耳をたててメモするなら、女子高生たちに背を向けているはずである。あれなら、「痴漢」と叫ばれて疑われるに決まっている。
見坊氏は、収集活動とその整理のために、教授や研究所のポストを自ら辞任してしまったそうで、ほんとうに寝食を忘れて、聖職者のような生活をしながら辞書づくりに没頭したらしい。
大鷹の新語収集を戯画化して、最初にもってくるし、また、トイレにずっとはいりながら、新聞などの新語さがしをやっている。おかげで子どもがトイレにいけない場面が出てくる。面白くするためとはいえ、あまりにありえない設定だ。トイレにこもって新聞整理をするより、さっさとすませて、机で整理したほうが効率がいいに決まっている。見坊氏は、ほんとうに寝食忘れ、酒たばこをやらず、単語整理に没頭したが、それは、茶化すことではないだろう。
三省堂に保管されているメモが、飯間氏の著書に写真で示されているが、実にきちんと整理されたもので、あのようなメモではないし、現代の話であれば、当然ICレコーダーなどで収集するだろう。いかにも、奇人的扱いで、それが終始一貫しているのである。アルツハイマーのせいにしているが、短期で怒りを爆発させたり、とにかく、ドラマを面白くするためなら、偉大な人物であるモデルの名誉などどうでもいいと思っているのだろうか。
千言万辞は亜流か
第二の大きな疑問は、人気があって売れている「千言万辞」を廃刊にし、売れていない国語辞典を存続させようとして、部長が部下を殺害するなどということが、あまりに不自然な設定だという点である。ドラマでは、和田部長が「千言万辞」を嫌うのは、言葉の意味説明が、皮肉を含んでいるものがあり、それが自分に対する批判だと感じているという右京の解釈が示される。「あんなものは辞書とはいえない。王道が消えて亜流が残るなんてありえない」と和田が叫ぶと、右京が、「常識」の説明を読む。「常識 平凡でつまらない価値観。新しいものを拒む頭の古い考え。いまこれを読んで不快に感じているあなたのこと。」そして、この説明が、ずっと大鷹による和田批判であると、和田自身が受け取っていたのではないか、と右京は分析するのである。しかし、和田は文例堂の辞書編集部長という責任者であり、当然、版を重ねた「千言万辞」を育ててきた当事者のはずである。育ててもらった大鷹が、育ててくれた編集者を茶化す説明を載せるなど、とうていありえないし、編集者のほうで、そのように解釈して嫌うなども、馬鹿げている。そんな人物が、辞書編纂の出版側の責任者が勤まるはずがないし、そんな編集者の辞書が、人気を博すというのもどうか。
第三に、アルツハイマーになっている大鷹とそのまわりの扱いがいかにも不自然である。様子を見るとけっこう進んでいる状態のようだが、まだ新語収集をやっていたり、情報チェックをやっている。しかし、他方気持ちをおさえることができず、暴れたり、かといえば、警察までいって自首したりする。勝手に病院を抜け出して、(殺人容疑者なのだから、厳重な警戒体制がしかれていたはずであるが)とことこ歩いていて、踏み切りをわたろうとして寸でのところで、電車に轢かれそうになる。その直前、病院を抜け出したことを発見した冠城が、右京に電話すると、「病院の左側を探せ」と指示し、踏み切りを渡ろうとしている大鷹を保護するというわけである。どうしてここにいるとわかったのですか、という冠城の問いに「人間は知らない道だと左に曲がろうとする習性があるのです」と説明する。そういう「心理」があるという「都市伝説?」はあるらしいが、ため息が出てしまうような場面設定だ。
辞書の面白さを感じさせる
ただ、一点、ピリッとしたアイロニーを感じさせることがある。文礼堂が三省堂として、新明解国語辞典と国語辞典があり、前者が文礼堂国語辞典、後者が千言万辞のような位置づけと思われるが、ドラマで出てくる「常識」の説明がちょうど逆になっている。三省堂国語辞典の「常識」は、「その社会が共通に持つ、知識または考え方」とあるが、新明解国語辞典のほうは、更に「ありふれた知識・考え以上に一歩もでない、一応視野が広くて首肯できるように見えるが、専門的見地からすると成立しないと思われる考え」という、踏み込んだ解釈が示されている。
「いまこれを読んで不快に感じているあなたのこと」というような説明が載せられている辞書ってあるのだろうか。あったらぜひ入手したいものだ。むかし、ブリタニカのある植物に関する説明の最後に、「この草は私が好きなものなので、引き抜かないでください」という添え書きがあるのを読んで、びっくりしつつも嬉しくなったという文章を読んだ記憶があるが、辞書や事典に作者の思いを書き込むことは、普通ないのだが、あれば面白いとは思う。
「相棒」のドラマ作りの別の礼で不満を書くつもりだったが、長くなったので別の機会にする。