田中均氏は、日米貿易戦争や北朝鮮による拉致被害者の帰国、そして、大韓航空機爆破事件などに関わった外交官である。国際問題、外交問題などについて、活発に意見提示をしているが、本書はその最新刊である。
見えない戦争とは、戦火を交えるわけではないが、国家間、国家と企業、国家と個人、企業と個人等の間で起きている闘いのことだが、あまり効果的なネーミングとは思えなかった。こうした闘い、競争は充分に見えているので、わざわざ「見えない」などと形容する必要もないのではないか。とはいえ、本書で主張されていることは、特別なことではないが、極めて妥当で、繰り返し確認しなければならないことが多いと思った。
まず、日本の外交が劣化しているという認識を前面にだし、外交が政治家としての宣伝の場になってしまい、実現しなければならないことが、一向に実現しない。官僚がしっかりとした強い政策をつくり、政治家がそれを責任をもって実行する、という外交の基本がおろそかになっていることを指摘する。それは、一種のポピュリズムであるが、日本でポピュリズムが台頭した要因は、冷戦の終結(依るべき価値の希薄化)、国力の相対的低下、北朝鮮の拉致問題(加害者意識から被害者意識に基づくナショナリズム)、アメリカという抑止力がなくなったこと、をあげている。 “読書ノート『見えない戦争』田中均” の続きを読む
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読書ノート『黎明の世紀』深田祐介を読む
第二次世界大戦はどのような戦争だったのか。いまだに続いている論争である。歴史学的に事実を積み重ねれば、あまり疑いようのない歴史認識が形成されると思うのだが、運動や実践に関わっていると、ともすると、自分と同じ傾向の書物しか読まない、あるいは、自分に都合のいい事実のみ取り上げ、そうでないものは無視する。そうした傾向は、残念なから、まだまだみられる、あるいはますます強くなっている。私はできるだけ、自分と異なる立場の書物を読むことにしているのだが、この本もそうした種類のものである。
著者の基本的な目的は、ポツダム史観、あるいは東京裁判史観と呼ばれるものを否定したいということにある。深田氏のような立場の人は多数いるわけだが、彼らの理解によれば、東京裁判史観とは、第二次世界大戦は、ファシズムと民主主義の闘いであり、ファシズム側が侵略戦争をしかけ、民主主義側がそれを防ぐ正義の戦争を闘って勝利したと解している。東京裁判は、勝者が敗者を裁くものであり、勝者が自分たちを民主主義、正義の立場にたち、相手が悪、つまりファシズムであったと規定するのは、ある意味当然であろう。日本がサンフランシスコ条約を受け入れたことは、この東京裁判の判決を受け入れたことを意味しており、国際社会における「建前」としては、それを「国家が否定」することは、サンフランシスコ条約を破棄することに等しい。ヒトラーがベルサイユ条約を破棄することを意味する再軍備やラインラント進駐などを実行したことは、歴史的事実であるが、日本政府がこれまで、サンフランシスコ条約を破棄する行為に出たことはない。しかし、政治家そして、保守的思想家からは、東京裁判史観を批判する見解は絶えずだされている。 “読書ノート『黎明の世紀』深田祐介を読む” の続きを読む
読書ノート『売り上げを減らそう』中村朱美 ライツ社
京都にある佰食屋は、食べ物好きの人にとっては、有名な店らしい。テレビや雑誌でも何度も紹介されているのだそうだ。私は、食べ物にほとんど興味がないので、まったく知らなかったが、週刊誌の本紹介欄に出ていて、面白そうだから読んでみた。もちろん、料理などではなく、経営理念に興味が沸いた。
簡単に紹介すると、ステーキの店、といっても、ステーキ丼、ステーキ定食、ハンバーグ定食の店と、牛肉寿司定食、牛肉茶漬け&肉寿司定食、牛和風まぜ麺の店、すき焼き定食、味噌鍋定食、サイコロステーキ定食という、いずれも3メニューしかない3店のみである。いろいろ試行錯誤があったようだが、結局、一日100食のみ、しかもランチタイムのみという営業形態の店になっている。
この本は、こうした店を開くきっかけ、開店から3年ほどの困難な時期、結局行き着いた営業形態、そしてそのメリットについて、分かりやすく書かれている。この店が、好評なのは、何よりも料理がおいしいからだろうが、(もちろん、私は食べたことがない。)本が面白いのは、型破りの経営を何故しているのかよく理解でき、それが実に新鮮だからだ。 “読書ノート『売り上げを減らそう』中村朱美 ライツ社” の続きを読む
読書ノート『木のいのち木のこころ』西岡常一
個性を伸ばすといっても、実際には極めて難しい。特に日本の学校では、言葉では言われても、実際には一定の方向にもっていこうとする、つまり、同質性を求める。おそらく、よい教育をしようと思っている人ならば、そうではなく、人間はみんな違うのだから、それぞれの個性、よさを伸ばしたいと思っているに違いない。しかし、それは本当に難しいのだ。まず、じっくりと育てる時間がなければ無理だろう。それに、それぞれ違うものをもっている子どもたちの特性や資質を見抜く力がなければならないし、それを伸ばす方法も、異なる特性や資質に応じて違ってくるはずである。それは教育する者に相当の力量を求める。
だから、往々にみんなを同じ枠のなかに押し込むような教育が、横行してしまうことになる。現在のほとんどの学校では、教師と子どもは2年程度しか師弟関係にはない。そして、卒業していってしまう。その後のことはわからないし、また責任もとりようがない。本書は、宮大工の仕事を通してであるが、みんなを同じに促成栽培するような教育が、いかに間違っているかを教えてくれる書物である。教師の人には、ぜひ読んでほしい。 “読書ノート『木のいのち木のこころ』西岡常一” の続きを読む
読書ノート『西洋の自死』ダグラス・マレー
ダグラス・マレーは、イギリスのジャーナリストで、現在40歳。この著書は、2017年に公刊され、日本の訳は、2018年暮れである。2015年の稀に見る大量の難民がヨーロッパに押し寄せた事態を受け、その後それなりに落ち着いた時期に書かれたものである。著者は、難民たちとの対話のために、ヨーロッパのあちこちにでかけ、直接インタビューをしてきたという。しかし、本書にそれはあまり反映されているわけではなく、むしろ、ヨーロッパとは何か、イスラムがどのようにそれを失わせているかを、むしろ思考の産物として書いている。
さまざまな情報が書かれているが、いわんとしていることは、以下のようなことである。 “読書ノート『西洋の自死』ダグラス・マレー” の続きを読む
犯罪加害者の表現の自由1
松井茂樹氏の『犯罪加害者と表現の自由 「サムの息子法」を考える』(岩波書店)を読んだことと、ある放送局で、犯罪加害者のドキュメントを作成することに関連する相談を受けたことがきっかけで、犯罪加害者の表現問題を考え直してみた。かなり難しい問題で、日数がたってしまった。実は、まだまだ考えがまとまったとは言い難い。そこで、部分的に少しずつだしていくことにした。
松井氏の著作は、専門的な法律の書物で、法律的な論点を詳細に論じているが、それ以前の、単純な考え方として、この問題を考えてみたいと前から思っていた。これまでに、犯罪加害者の家族の問題を、考える機会がけっこうあったが、犯罪加害者、あるいはその家族、関係者の「表現問題」は、異なる側面からの考察が必要だろう。
犯罪加害者自身の著作として、松井氏は以下のものをあげている。
『絶歌』-神戸の少年A(当時14歳)による小学生2名を殺害した事件の当事者の著作
『無知の涙』『人民を忘れたカナリア』『木橋』- 連続射殺事件の永山則夫の著作
『霧の中』-殺害後人肉を食べた佐川一政の著作
『逮捕されるまで-空白の二年七カ月の記録』-英国人を殺害後逃亡していた市橋達也の著作
更に、安部穣二『堀の中の懲りない面々』や堀江貴文の『刑務所なう』も犯罪を犯して刑務所に入ったために書くことができた本としてあげている。
私自身は、『絶歌』『無知の涙』『木橋』は読んだが、『絶歌』だけは、あえて古本を購入した。著者に印税が入ることを拒否したかったからである。 “犯罪加害者の表現の自由1” の続きを読む
読書ノート『ひきこもりだった僕から』上山和樹
本書は、自分自身がひきこもりであった上山和樹氏が、ひきこもりから脱却しつつあり、ひきこもりの相談活動をしている段階に書かれた、体験と相談活動を踏まえた分析との二部構成になっている。2001年12月にだされた本で、2000年に起きた西鉄バスジャック事件と、新潟少女監禁事件の発覚とを契機に、執筆依頼されたと思われる。私が、今回この本を読もうと思ったきっかけは、もちろん、川崎と練馬の事件である。上山氏が本書で批判しているように、ひきこもり相談をしている精神科医、カウンセラー、行政などは、実際にはひきこもりの当事者の内面について、ほとんど理解していないのだろう。なぜなら、ひきこもりといっても、その多い実数に比較して、相談に訪れる人はごく少数しかおらず、しかも、相談にいくのは親である場合がほとんどだろう。しかし、親はひきこもり当人の「敵」であるので、親から語られることがらは、ひきこもり本人の実態とはずれているという。そういう意味で、自身がかなり長期のひきこもりの経験者であり、(この本執筆当初、完全に払拭していたわけでもないようだ。)たくさんのひきこもりの相談活動をしている人の書いたもので、参考になるだろうと考えたわけである。 “読書ノート『ひきこもりだった僕から』上山和樹” の続きを読む
読書ノート『天皇と東大』Ⅰ-Ⅳ 立花隆
大分前に購入したが、必要な部分だけ読んで、あとは積んどく状態だった本を読み終えた。厚い文庫本4冊だから、トルストイの『戦争と平和』にも匹敵する量だ。明治の当初から敗戦(多少戦後も含まれる)まで、日本の「国体」をめぐる相剋を描いたノンフィクションだ。戦争が終わったとき5歳だった立花が、ずっと疑問に思っていた「なぜ日本はこんな酷い国になってしまったのか」という自問に答えるための書であるという。また、これまでの敗戦に至る歴史分析を、多くの人は左翼的な観点からのみみて分析していたが、それだけでは不十分で、右翼的な側面から分析がないと、本当のところはわからないという問題意識を重視して書かれたものだ。
明治初期のある程度リベラルの状況から、次第に国家主義的な体制、しかも一切の自由な言論を許さない社会になっていく過程を、東大を主な舞台とした左右の対立相剋を中心に叙述している。個別的な評価はそれぞれになされているが、全体としては、事実をもって語らせる方法なので、著者の独自の歴史観などがだされてはいない。が、逆にそのことで、様々な立場からの事実を知る上では、有意義な本だ。 “読書ノート『天皇と東大』Ⅰ-Ⅳ 立花隆” の続きを読む
読書ノート 『植民地支配と教育学』佐藤広美
『教育』の6月号に書評が出ており、矢内原忠雄に対する再評価がなされているとあったので、早速購入して読んでみた。教科研副委員長の佐藤広美氏の『植民地支配と教育学』皓星社 (2018/10/10)である。
本書を貫く主張は極めて明確であり、戦前の教育学者たちが、戦争協力したにもかかわらず、戦後そのことが等閑に付されてきた、そして、それを座視するのは、今の教育学者として許されないのではないかという基本姿勢に基づいて、戦時中に活躍した教育学者たちが、いかに戦争協力をしてきたかを暴いている。そうした研究をずっと行ってきたが、佐藤氏自身、ずいぶん批判があったという。
中内敏夫、思想の裁判史
小林千枝子、歴史研究は、誤りか否かを指摘するものではなく、分析するものだ
清水康幸、総力戦下では国策協力は不可避であり、教科研に存在した豊かな検討素材を検討できない単純な問題関心に基づく研究だ
木村元、政治的枠組みの研究では、教育学に内在する戦争責任は追求できない
等々。私自身は、欧米研究者なので、佐藤氏の研究を追いかけてこなかったから、批判も読んでいないが、本書を読んでみて、率直にこれは、教育学者の戦争責任追及を果たし得ていないと感じた。そんなことは課題にならないとは思わないのであるが。 “読書ノート 『植民地支配と教育学』佐藤広美” の続きを読む
読書ノート 『人身売買・奴隷・拉致の日本史』
渡邉大門氏の『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房2014)を読んだ。日朝関係で拉致問題が、日韓関係で慰安婦(彼らの呼び方でいうと性奴隷)が、現在でも問題となっているが、歴史的にずっと以前から存在している問題であることがわかる。そして、それは日本だけに限られることでもないだろう。
この三つは微妙に異なるが、奴隷という言葉で共通項を括ることができるだろう。奴隷は、人間を「人」として扱わず、「物」と同様に扱う存在といえる。そして、物としての性質が最も顕著に現われるのが、他人に売られる、あるいは、贈られるという点である。つまり、人身売買されている状態にある人は、「奴隷」状態であり、拉致されれば、多くは売られ、あるいは、物のように、つまり機械のように労働のために使われる。そして、結婚などが許されないことになる。こうした奴隷的人間の扱いは、いろいろな理由で発生してきたし、多くの時代で禁止されていたにもかかわらず、実際に多数おこなわれていた。 “読書ノート 『人身売買・奴隷・拉致の日本史』” の続きを読む