読書ノート『見えない戦争』田中均

 田中均氏は、日米貿易戦争や北朝鮮による拉致被害者の帰国、そして、大韓航空機爆破事件などに関わった外交官である。国際問題、外交問題などについて、活発に意見提示をしているが、本書はその最新刊である。
 見えない戦争とは、戦火を交えるわけではないが、国家間、国家と企業、国家と個人、企業と個人等の間で起きている闘いのことだが、あまり効果的なネーミングとは思えなかった。こうした闘い、競争は充分に見えているので、わざわざ「見えない」などと形容する必要もないのではないか。とはいえ、本書で主張されていることは、特別なことではないが、極めて妥当で、繰り返し確認しなければならないことが多いと思った。
 まず、日本の外交が劣化しているという認識を前面にだし、外交が政治家としての宣伝の場になってしまい、実現しなければならないことが、一向に実現しない。官僚がしっかりとした強い政策をつくり、政治家がそれを責任をもって実行する、という外交の基本がおろそかになっていることを指摘する。それは、一種のポピュリズムであるが、日本でポピュリズムが台頭した要因は、冷戦の終結(依るべき価値の希薄化)、国力の相対的低下、北朝鮮の拉致問題(加害者意識から被害者意識に基づくナショナリズム)、アメリカという抑止力がなくなったこと、をあげている。
 これと並行して、プロフェッショナリズムが衰退していることに、氏は大きな危機感を表明している。
 アメリカは、「世界の警察」であることをやめ、目先の生活を優先するようになり、それがアメリカ・ファーストの根底にある。こうした動きを促した要因は、米中関係の変化という。中国の経済成長の速さ、習近平の政策、特に世界戦略の拡大によって、そうした変化がもたらされた。そのなかで、日本は、アメリカ一辺倒を離れ、重層的多角的な安保体制を考えるべきであり、日米が相互に防衛義務をもつ安保、そして、そのための憲法改正が必要であるという。ただし、それは今ではなく、その前に充分な議論が必要だとする。
 中国については、更に書いているが、アメリカを変化させた例を再度述べている程度なので、省略する。
 韓国理解に関して、「恨(ハン)」というのが、韓国人の基本的な感覚としてあることを理解する必要があると主張する。これは、私も同様のことを感じる。韓国人の感情の激しさは、やはり、歴史的に常に外的から攻撃されてきたことにあると感じている。田中氏は、その感情が、支配層に対しても向けられていることを無視すべきでないという。つまり、単に、攻撃してきた外敵に対してだけでなく、外部勢力と結ぶことによって、民ではなく、自己を守ってきた支配層も対象だというのだ。日本人は、外国から攻撃されたり、外国を攻撃した経験は、非常に限られている。日本本土が攻撃されたことは、元寇と日米の戦争だけであり、外国に攻めていったのも、秀吉の朝鮮出兵と日中戦争、太平洋戦争だけである。それに対して、日本人が闘ってきたのは、自然災害であり、この日韓の「闘った相手」「攻撃してくる相手」の相違は、ふたつの国民性の違いを生んだ重要な要素であると思う。
 拉致問題の進展上、大きな意味をもったものとして、大韓航空機爆破事件をあげている。これは、私も初めて認識した。北東アジア課長だった田中氏は、金賢姫が捕まったときに呼ばれ、いろいろと質問したのだが、「日本から連れてこられた日本人の女性から」日本語を学んだと語ったことによって、拉致疑惑が拉致問題に変わった。つまり、北の当事者が、拉致の事実を語ったことによって、北朝鮮はいいわけができなくなったのということだろう。
 北朝鮮との交渉において、最も重要なものは、当然小泉首相が行った交渉であり、拉致被害者が帰国したときの進展である。これは、当時も相当議論されたことだが、拉致被害者たちは、一時帰国の約束だったのであり、2週間ほどの滞在後に再び北朝鮮に戻ることになっていた。しかし、当人たちが帰りたくないと強く主張したために、日本政府として非常に難しい判断となったわけだ。確か、安倍首相を批判する蓮池薫氏は、安倍首相は、北との約束を守って帰るべきだと主張したのに、帰国すべきでないと主張していることに怒っていたと記憶する。しかし、これは、どちらにしても、大きなマイナス点があることだった。やっと日本に帰れた当人たちからすれば、当然そこで戻ってしまったら、永久に帰国できない可能性がある。しかし、戻らないと、残してきた家族、子どもたちと永久にわかれなければならない可能性がある。政府としては、北朝鮮との約束を破るわけだから、そのマイナス面も覚悟しなければならない。事実、北朝鮮側は激昂したそうだ。その後、残されていた家族も日本に帰国した。戻らなかったことは、よかったことになるが、しかし、他の拉致被害者に関しては、その後まったく進まないことになってしまった。
 最後の章で、日本の進むべき道を示すが、基本は、プロフェッショナリズムの国家にならなければいけないと主張している。戦後の日本は、特に外交に関しては、アメリカに依存するアマチュア国家だったというのだ。それは確かに半分はそうだったのだろう。しかし、うまくアメリカを利用してきたという半分の側面もあるのではないだろうか。
 プロフェッショナルがもつべきは、「ICBM戦略」。Intelligence、Conviction、Big Picture 、Mightである。興味のある人は、ぜひ読んでほしい。明確に書いているわけではないが、教育についての改革も必要だという認識なのだろう。目指す人間像として、「いまの日本に必要なのは、単に優秀なだけでなく、尖った人間だ。前例に従わず、孤立することも恐れない、個としての強さをもった人間」であり、明治維新で活躍した人や、今のイチロー、大谷翔平、錦織圭など、みなとがっているし、自分もそうだったという。「みんなでわたろう」と思ったことは一回もないそうだ。
 ここの部分は、教育学を専門にしている人間としては、なかなかきついものがある。私も、そう思う。画一的なことは、嫌いである。おそらく、私の授業は、他とはかなり違う要素があると思っている。しかし、全体的な日本の教育は、完全に画一性を求めているし、それが学生に関しても浸透している。例えば、大学生の画一性を示す象徴は、リクルートスーツであるが、大学推薦の学生を選ぶための面接試験などには、スーツ着用のことという指示が、事前に示される。企業就職の面接でも、必ずリクルートスーツを着ていく。企業側は、自由な服装でというが、自由な服装で行った者は、たいてい落とされているという「噂」が広まる。とにかく、日本の学校には、「均整化」を強いるしかけに満ちている。
 逆に、本当に自由な教育を行い、「前例に従わず、孤立することを恐れない」人間に育っていったら、教室の授業は可能なのだろうか、という不安が教師たちにあるのも事実だろう。
 もうひとつ、プロフェッショナリズムについても、忸怩たるものがある。学校体育(小学校なら担任が体育を教える)と社会体育(施設にいるそれぞれの専門の指導員が体育を教える)の問題を考えるときに、必ず出てくるのは、専門家よりも、子どものことを知っている担任が教えたほうが、いい授業ができるという見解が示されるのである。将来教師になろうと思っている学生の意見なのだが、彼らに、どうやってプロフェッショナルが大事であるかを納得させるか、いつもぶつかった問題だった。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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