ワルター・コンプリートで一番ほしかったのは、モーツァルトのリンツ交響曲のリハーサルだ。私は、コンプリートに入っているものは、実はほとんどもっているのだが、これがほしくて注文した。1955年に録音されたリンツ交響曲のリハーサルを録音したもので、発売当時は、リンツのレコードのおまけとして付けられたと、何かで読んだことがある。おまけだから、その後再発売されることはなく、幻の録音だった。今では、リハーサルを商品化したものは、いくつもでているが、これがおそらく最初のものだったのではないだろう。カラヤンの第九のレコードやベームの「トリスタントイゾルデ」全曲盤の余白に、リハーサル風景がついているというようなことがあったと記憶するが、おそらく、これだけの量の録音が添付されることはなかったし、現在でも稀である。実際に90分以上で、しかも、各楽章の最初の練習がだいたい納められている。
リハーサルが市販されるようになったのは、映像メディアが流通するようになってからである。カルロス・クライバーの有名な「こうもり」と「魔弾の射手」のリハーサルも最初はLD(レーザーディスク)で発売された。これも当初は、テレビ放映用に撮影されたもので、市販することが計画されていたわけではないと思われる。ほとんどのリハーサル録音・録画は、実際の録音の準備として行われるものを、録音・録画したものだから、当然、本番とセットになっている。ワルターのものも同様である。私の知る限り、唯一の例外として、リハーサルのみが製品となっていて、本番がついていないのは、アバド指揮によるヴェルディの「レクイエム」だ。リハーサルが苦手で、下手であるという評判のアバドが、リハーサルだけの製品をだしているのは、面白い。
さて、ワルターのリンツのリハーサルだが、当時から「演奏の誕生」という題が付けられていた。今回もそのオリジナルジャケットが使われている。他のリハーサルものは、当初から録音・録画するとプランのものだったと思われるが、付属の解説書によると、演奏者たちは、録音されていることを知らされていなかったという。だから、本当に通常の練習風景だ。各楽章ごとに進行し、「これからテークワン」という声で終わる。そもそも常設のオーケストラではなく、録音用に編成されたオケなので、このメンバーでは、初めてこの曲に向き合うわけだが、ひとつの楽章を30分程度の練習をして、直ぐに本番というのだから、プロというのはすごい。
聴いてまず感じたのは、注意が実に細かいということだ。しかも、ほとんどが音楽の表情の訂正を、テクニックの点から指示している。管楽器の注意はあまりなく、ほとんどが弦楽器を注意していて、ボーイングや圧力のかけ方を細かく注意し、ときには、コンサートマスターに弾かせて確認していく。そして、頻繁にとめる。とめて、注意、その際、たいていこのように演奏してくれというように、自分で歌ってみせる、そして、やり直し、技術の説明、やり直しという連続で、どんどん進んでいく。おしゃべりは一切ない。よく、世間話や作曲家の逸話を話したりする指揮者がいるのだが、全くなし。まったく効率的な練習だ。30分で本番となる。(楽章ごと)そして、ワルター自身がそうだったと言われているが、指示が実に紳士的なのだ。昔の指揮者は、よく団員に酷いしかり方をしたらしい。今でも、たまにそういう指揮者がいる。
リハーサルを聴いたあと、CDになった本番の演奏を聴くと、注意したことが、本当に徹底的に直されて、ワルターが望んだであろう演奏になっている。練習中にもどんどんよくなるのが確認できるのだが、本番は録音体制も整えてのことなのだろう、音もかなり違う。残念ながら、リハーサル風景の音は、本番の音よりも、雑然としていて、特にホルンやテンパニーはあまり聞こえなかった。指揮者の声を確実に拾うために、オケの前のほうに指向性を合わせてあるのだろうか。
この効率的な練習の仕方を、カラヤンが学んだと言われている。カラヤンがウィーンで活躍していたころ、なんどかウィーンにやってきたワルターのリハーサルを、カラヤンは聴いたらしい。カラヤンはもともと練習がうまく、楽団員の評価が高かったのだが、ワルターのリハーサルに学んで、更に効率的になっていったようだ。具体的にどこが、というのは、わからないのだが。シューマンの4番の交響曲を、カラヤンがリハーサルを撮影した映像が
あるのだが、これは、カラヤンの指摘によって、どんどん演奏がよくなっていくことが、如実にわかる素晴らしい映像だ。撮影することになっているリハーサルだから、かなりの準備もしたのだろうが、さっと演奏をとめて、すごい早口で悪い点を指摘し、繰り返させるのだが、確実に変わっていく。プロのオケとしては、あまり愉快ではないだろうが、速い部分を、テンポをゆっくりして演奏させることも厭わない。カラヤンの指揮をわかりにくいなどという評価もあるが、このリハーサルを見ている限り、非常に分かりやすく、オーケストラが確実にコントロールされていることが見えてくる。
逆に感心しないリハーサルが、チェリビダッケが何十年ぶりかでベルリンフィルの指揮をしたときのものだ。クラシック音楽の世界では、大事件のように扱われ、そのために、リハーサルから録画され、チェリビダッケとベルリンフィルの以前の映像や、当時の団員たちのインタビューを交えながらの映像製品が市販されている。しかし、このリハーサルは見ていて、感じが悪いことこのうえない。ブルックナーの7番を演奏しているのだが、出だしのチェロをゆったりしたメロディーを、何度も何度も演奏させているのだが、意図があまり明確ではないし、あまり変化しているようにも聞こえない。いろいろと注意をするのだが、オケのメンバーは、どうもあまり真剣に聞いているようにも思えず、このおっさんなんか言ってるのなあ、というような感じなのである。そして、チェリビダッケは、「よくなってきたが、まだ君たちは、ブルックナーの本質を理解していない」などと言ってしまうのである。演奏会は、あまり成功したとは評価されず、その後両者の共演は実現しないまま、チェリビダッケは世を去った。
オーケストラのリハーサルは、やはり、映像付きであることがすごく重要だ。ワルターは、弓の使い方を細かく指示し、コンサートマスターがそれを受けて演奏して確認していくのだが、映像があれば、もっとずっと理解しやすい。