題名のようなシンポジウムがあり、その記録に論評を加えた本が出版されているそうだ。そのダイジェストを紹介した文書を読んだ。「高校必修科目に古典は必要か、あなたはどう思う?」という西野智紀氏の文章である。https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58339?utm_source=editor&utm_medium=mail&utm_campaign=link&utm_content=list
シンポジウム当日は、否定派、肯定派二人ずつ意見を述べたそうだ。しかも、否定派の人も微妙に意見が違うし、肯定派も同様。
理工系の教授である猿倉氏は、必要なのは「論理国語」で、古典教育は、年功序列や男女差別を刷り込むツールとなっているので、有害だと主張しているという。最も、だから削除せよということではなく、選択の芸術科目にすべきという見解のようだ。
元東芝の前田氏は、同様に、論理的な文章がかけるようにするリテラシーの教育が必要で、古典は選択にし、現代語訳で充分という意見。
肯定派は、社会系の教授である渡部氏は、古典は、主体的に生きるための知恵を授けるものということで、情理、複雑な心理状態、自分を見つめる方法を教えてくれるとする。
文学部の福田氏は、自分の国の文化を知る権利があり、知の世界に入り込め基礎が古典であるとする。伝統芸能を大切にする日本の姿勢は貴重であると評価する。
このあと討論になるが、どうやら、肯定派が不利な感じで進み、それは、反対論に対する更なる反論をしないことで、露になっているという。肯定派のひとたちは、やはり、説得的な論理を展開しているとはいえない。古典は有用であるということは、多くの人は否定しないだろうが、有用であることと、全員が学ばなければならないこととは別であり、必修というのは、全員にとって必要であると広く認識されている領域に限定すべきなのである。必要な人もいるし、必要でない人もいる、という領域は、選択科目が妥当である。私には、古典を原文で読むことは、全員に必要なこととは思えない。
いつかシンポジウム全体を読んでみたいと思うが、私は、従って、必修にすることには反対である。実際、私の大学の入学試験でも、国語からは「古典」を除外している。選択科目としても入っていない。もちろん、私自身としては、日本だけではなく、世界の古典は重要な教養であると思っているので、学生たちには、読むように勧めているが、それと、必修科目にすることとは別であると考えざるをえない。教養としての古典作品に触れる場合、外国の作品であれば、ほとんどの人は、翻訳で読むはずである。そのことを疑問視したり、それでは「ニュアンスがわからない」などと批判したりしない。原文で読むのは、その道の専門家には必要であるし、また、積極的に外国語を学んで原典で読みたいという人は、読めば、より理解が深くなるだろう。しかし、やはり、それは極めて困難であり、翻訳がある以上、翻訳で味わうことで、通常は充分であると思われている。それは、日本の古典でも同じではないだろうか。現代日本人にとって、源氏物語の原文は、ほとんど外国語に近い。だから、特別な勉強をしなければ、原文で理解することはできない。もともと、文学は趣味の領域なのだから、ただ読んでみたい人は、翻訳で充分であるし、どうしても原文で読みたい人は、そうしたコースをとって、古典文法を学べばよい。
伝統文化を学ぶことを、日本の学習指導要領は強調しているが、これは決してプラスになっているとは思えない。古典の文章が、中学でも入っているが、私は無駄だと思う。ほとんど外国語に等しい古文を、ごくわずかな時間読んだからといって、理解できるものではない。
数十年前くらいまでのヨーロッパの伝統的な中等教育機関、ギムナジウムやグラマースクールは、古典(ラテン語、古代ギリシャ語)が最も重要な科目であったが、今では、古典コース以外では必修ではない。また、19世紀の教育の議論では、古典語中心の教育が、常に批判の対象となってきた。かつては、絶対的な教育価値のように扱われていた古典教育も、今では学びたい人が学ぶ選択教科になっているのである。現在使われていない言語を学ぶというのは、学びへの強い意志と要求をもっている人でなければ、効果など期待できないものだ。必修にすれば、ほとんどの生徒にとって、無駄な努力を強いられることになるだろう。無駄な努力を強いることは、反教育的である。
もちろん、学びたい人はいるだろうから、選択科目として常に置いておく必要はある。そして、その価値は充分にある。