教師免許希望者が減少 その理由を考える

 以前、教員採用試験で志願者が減少しているという話題について書いたが、今回は、そもそも大学において小学校教師を目指す学生が減少しているという話題である。私の勤めている大学は、教師の養成で有名で、教師を目指す学生がたくさん応募する。私の所属している学部は、教育学部ではないので、純粋に教師養成の学部ではないが、教師の免許が取得できるので、教師をめざして入学してくる学生が多い。しかし、ここ数年来、明らかに異変が生じている。
 まずお断りしておくが、この文章は、私個人の責任で書いているもので、大学の姿勢や政策とは全く関係がない。文科省として、公開しているかどうかわからない情報が含まれるが、実際には、ひろく知られているので、個人の責任において書く。
 現在の教師養成のための免許は、正規には、学科単位で文科省に、免許取得のための認可を申請して認められる必要がある。しかし、教員免許は、「単位制」であるために、実際には、いろいろなところで単位を取得して、最低限必要な単位を揃えれば、免許を取得できることになっている。戦前、小学校の教員免許を取得するためには、師範学校に入学する以外には手はなかった。その代わり、代用教員という、正規の免許をもっていなくても、実際に教師として勤務することはできたのである。
 戦後、師範学校が国立大学の教員養成学部(教育学部)に編成されたが、私立大学でも、認可をうけることができるようになり、また、教育学部の学生ではなくても、教育学部の授業をとることによって、免許を取得できるようになった。小学校免許は、単位数が多いので、そうやってとることはなかなか大変であるが、中等教育の免許は小学校ほどではないので、そうやって、他学部や他学科のコースの授業をとることで免許を取得する学生は、非常に多い。これが、開放制のシステムである。
 ところが、近年文科省は、この開放制を事実上制限するような動きにでているのである。他学部や他学科の聴講では、免許をとれないようにする措置をとっているわけではない。それは、戦後改革の基本原則を根本的に変えることになるから、さすがにそこまでは、現時点ではやっていない。しかし、少なくとも小学校免許については、そのような意向が強く感じられる。では、現在どのような制限措置をとっているかというと、事実上免許がとれるとしても、自分の学科で免許取得の申請をして認められているわけではない学部や学科では、免許が取れることを宣伝してはいけないという措置をとっているのである。私の大学では、それを忠実に守っている。受験生は、どのような資格をとれるかを、受験する学部や学科の選択に際して、非常に重視するから、取得できる免許のなかに入っていなければ、当然、受験対象から外すことになる。従って、実際に入学する学生は、取れる免許を取れないと思っているわけだから、免許取得希望者が減っても当然だろう。
 志願者が減少したのは、それ以外の理由もあるだろう。
 働き方改革の取り組みのなかで、公立小中学校の労働条件が極めて悪く、ブラック企業そのものであるような職場が多いことが、よく知られるようになってきた。私のゼミの卒業生も、本当に大丈夫なんだろうか、というほど、過酷な労働を強いられている者が少なくない。文科省は、さまざまな労働条件の緩和策をうちだしているが、全く改善されていない。心身の不調で休職している者は、驚くほど多いし、過労死寸前で働いている者も少なくないだろう。もし、文科省が、本気で改善しようと思っているにもかかわらず、ピンボケの施策しか出せないのだとしたら、本当に無能だといわざるをえない。もちろん、文科省だけの責任ではなく、社会がそうさせている面もあるが、教育行政が労働条件を悪化させていることは、間違いない。
 企業就職が学生にとってよい条件になっていることも、教職志願者が減っている原因ではあろう。
 最初にあげた点について、もう少し論じる必要がある。
 文科省は、どうやら、戦前の師範学校のように、必ず教師になることを意図して入学した学生に限定した形での教員養成を、意図しているように感じる。その方が効率的な養成が可能だと考えているのか、あるいは、国家にとって都合のよい教師を育成できると考えているのか、それはわからない。
 しかし、もしそうであるとすれば、その意図は完全に間違っている。
 優秀な人材は、広い底辺から集めることによって可能になる。実際に、免許が取得できる制度になっているのに、それを公表してはいけない、宣伝もしてはいけない、というのは、何のメリットもない。すそ野を狭めるだけなのだから、新しく教師になろうという志願者たちの質を平均的には下げる機能しか果たさないことになる。ただでさえ、教職の過酷さが明らかになっているのだから、迷っている受験生は、諦めてしまうだろう。本気で教師になるなら、正規に認可されている、つまり宣伝されている大学にいけばいいではないか、というかも知れないが、そういう学部は定員が限られているわけだから、不合格になる受験生が多数いる。おそらく、その段階で諦めてしまう人がかなり出るはずである。以前であれば、第二志望、第三志望に移っていって、あくまでも志望を貫く者が少なくなかった。実は、私の学部は、そうして、第一志望を落ちてきた学生が多数いる。そして、臥薪嘗胆で一生懸命勉強して、むしろ、第一志望だった学部の学生よりも、よい成績をとる者がけっこういるのだ。そうした逆転現象はいくらでもある。こうした機会を最大限保証するのが、教育行政の役割ではないのか。それをわざわざ志願者を減らすような政策をとる、合理的な理由など、いくら考えてもわからない。
 文字通り、戦前の師範学校を復活させようというところまでは、さすがに考えていないだろう。それは、現時点では不可能だ。師範学校は、現在の防衛大学校のように、授業料免除と就職がセットになった学校だった。だから、貧しいが優秀な学生が集まり、戦前の教育の質を保持していたのである。もっとも、国家主義的な教育政策が貫徹するから、そうした弊害も大きかったことは否めない。そういう国の政策がストレートに及びことに対して、戦前教育への反省は、今でも当然あると考えたい。それよりも、小学校の教師を養成するのに、授業料免除を実現することは、財政的に不可能だろう。戦後でも、かなりの間、育英会の奨学金は、教師になると返還が免除された。しかし、それすらも、現在では廃止されている。奨学金の授業料免除程度では、教職への就職を強制することはできないだろう。だから、やはり、開放制が維持される必要がある。もし、教職につくことを義務とするならば、やはり、授業料免除が前提となる。それを財務省が承諾するとは思えないし、そうすることのメリットも感じられない。開放制は、充分に機能してきたのである。
 開放制をとりながら、そのよさを制限する。本当に、酷い政策を文科省はとっている。
 このままいけば、教職に就こうとする学生はもっと少なくなり、現在でも教師不足が現場で深刻になっているのに、ますます酷くなっていくに違いない。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です