『教育』の6月号に書評が出ており、矢内原忠雄に対する再評価がなされているとあったので、早速購入して読んでみた。教科研副委員長の佐藤広美氏の『植民地支配と教育学』皓星社 (2018/10/10)である。
本書を貫く主張は極めて明確であり、戦前の教育学者たちが、戦争協力したにもかかわらず、戦後そのことが等閑に付されてきた、そして、それを座視するのは、今の教育学者として許されないのではないかという基本姿勢に基づいて、戦時中に活躍した教育学者たちが、いかに戦争協力をしてきたかを暴いている。そうした研究をずっと行ってきたが、佐藤氏自身、ずいぶん批判があったという。
中内敏夫、思想の裁判史
小林千枝子、歴史研究は、誤りか否かを指摘するものではなく、分析するものだ
清水康幸、総力戦下では国策協力は不可避であり、教科研に存在した豊かな検討素材を検討できない単純な問題関心に基づく研究だ
木村元、政治的枠組みの研究では、教育学に内在する戦争責任は追求できない
等々。私自身は、欧米研究者なので、佐藤氏の研究を追いかけてこなかったから、批判も読んでいないが、本書を読んでみて、率直にこれは、教育学者の戦争責任追及を果たし得ていないと感じた。そんなことは課題にならないとは思わないのであるが。
学者が戦争に対して積極的に加担する研究を行い、協力をしたのであれば、その責任を問う必要はあるだろう。しかし、戦後になって、新たな体制を作るための人材を選んでいるときならばさておき、既に戦後半世紀過ぎた段階で、教育学者の当時の理論的責任を研究として問うならば、最低限、以下のことを検討する必要があるはずである。
研究者の戦争責任を問うこと
1 戦争加担していると評価される研究を発表する前には、どのような研究をしていたのか。もともと、戦争加担的な姿勢だったのが、あるいは時局にあわせざるをえなくなったのかで、評価は異なってくる。
2 当時どのような社会的地位であり、どのような経緯で、戦争加担的な組織に入り、どのような研究を発表したのか。
3 その研究は、それまでの研究と比較してどのように違っているのか。
4 戦争が終わって、民主化が許容されるに至ったとき、当人はどのような対応をしたのか。また、戦争中のことをどのように総括したのか。
5 戦後の活動はどのようなもので、研究者としてどのような業績を積み上げていったのか。
このような最低20年程度の推移をみないで、当時の言及だけで、戦争責任があるような評価をするのは、私としては、同意できないものを感じるのである。
『興亜教育』という雑誌に関係し、大東亜教育論を構築した人々、近藤壽治、由良哲次、長谷川如是閑、海後宗臣、倉沢剛その他が、戦時中に発表した論文から、大東亜共栄圏を補完するような教育論の文章部分を抽出する。
本書のほとんどは、そうした作業の成果である。
確かに佐藤氏の集めた文章は、正確にそのように書かれていたのだろう。しかし、上の1から5の作業課題からすれば、2が行われているだけである。しかも、佐藤氏が対象にしている時期は、既に総力戦体制が敷かれ、それに反対するものは、容赦なく捕まって、最悪死刑になるという時代である。そういうなかで、時代に抗した人物としてあげられているのは、植民政策の研究者だった矢内原忠雄だけなのだから、教育学者は全員迎合的研究者だったことになる。
このような厳しい批判をするのであれば、少なくとも、レーニンの言葉だが、「専制政治の下では、奴隷の言葉で書かねばならない」ということを、充分に考慮する必要があるのではなかろうか。徹底的に思想統制が貫徹しているなかで、少しでも、ある意味良心的な態度をとろうとすれば、立場上組織の中に入らざるをえないのだから、その中で「奴隷の言葉」で語りつつ、実は、軍国主義に抵抗するというようなことを書いた人はいないのだろうか。当時の知的なひとたちは、内心は戦争は負けて終わる、だからそれまでの辛抱だと思っていた人も少なくなかったのである。
心底軍国主義に染まっていたひとたちと、内心の抵抗を秘めていたひとたちは、おそらく、異なる表現をしただろうし、また、戦後の活動にも違いがでたのではなかろうか。国分一太郎の紹介(国分は逮捕されたあと、従軍記者となり、占領地に赴いたが、現地人に同情的な文章を書いていた)は、国分のおかれた境遇を考慮しているようだが、もし、国分が一端生活綴り方教師として捕まった経験があること、戦後綴り方復興の旗手として優れた教育実践家、理論家になったことを考慮したのだとすれば、他のひとたちにも、同等の検討をする必要はないのだろうか。
私が大学に入ったときには、ここで批判されているひとたちは、ほとんど第一線をひいており、五十嵐顕、持田栄一という私の先生たちは、戦時中は学生だったから、時代迎合的な論文を発表する立場にはなかった。しかし、海後宗臣氏の講演を一度聞いたことがあった。海後氏は、戦後教育改革(東大出版)の膨大な研究叢書の監修者として、若い世代を育てた功績は否定できないだろう。
要するに、佐藤氏の批判は、戦時中の最も厳しい時期に、大東亜戦争に協力的な研究を発表したという、その「事実」のみによって、戦争責任を認定しているように読める。しかし、今の段階で、戦争責任を考えるということは、再び戦争が起きないようにし、またそれに協力しないために、有益な理論提供をすることに意味があるはずである。残念ながら、2の課題のみでは、それはなされない。
矢内原忠雄批判は疑問
さて、私が最も興味をもって読んだのは、矢内原忠雄批判である。
何を隠そう、矢内原忠雄は、私が日本人の中で最も尊敬する社会科学者であり、50年以上、矢内原については、読み続けてきた。いつか矢内原論を書きたいと思いつつ、あまりに偉大な人物なので、取り組めないでいる。私が大学に入学したとき、すぐに無期限ストライキに突入し、一年間授業がなかった。その間、私のクラスでは、自主講座をずっとやり続けて、クラスのメンバーが自分の得意分野の講義をしていたのである。私は、矢内原忠雄論を2回にわたってやった。懐かしい思い出である。
佐藤氏が、何故、矢内原研究をはじめたかというと、五十嵐顕氏に勧められたからだという。戦前、教育学者は、戦争批判をすることができなかったが、何故矢内原には可能だったのか、それを明らかにしなければならないといわれたのが、きっかけだったそうである。佐藤氏は、五十嵐先生の提起を超えてしまったと書いているが、私は、提起を充分に果たせなかったとしか評価できない。佐藤氏は、何故あの軍国政治に、矢内原が抵抗できたのかを、まったく示していない。むしろ、矢内原も結局「同じ穴の狢」だったのではないかという結論に読めるのである。
佐藤氏は、矢内原を高く評価している。戦時体制に移っていく日本を、真正面から堂々と批判し、東大教授を追われてもなお屈しなかったのだから、評価しないわけにはいかないし、また、朝鮮植民地で、日本語で授業をしているのをみて、落涙したと書いているのを、感動をもって何度も引用している。どんなにいいことをしても、結局現地のひとたちの望まないことを押しつけるのであれば、それは歓迎されず、長い目でみれば成功はしない、というのが、矢内原の根底的な植民地批判だった。だから、矢内原は、植民地をもつこと自体を否定していたのである。しかし、そのことと、実際に植民地政策として行っていることが、すべて現地のひとたちにとって、悪いことであるかは別の問題だろう。今ネトウヨといわれるひとたちは、日本の植民地経営をいいことをしたんだから、感謝しろなどというが、もちろん、そんな立場と、矢内原はまったく違っている。しかし、佐藤氏にかかると、こうした植民地政策のなかで、日本はいいこともしている、と書くと、もう植民地主義者になってしまうかのようなのだ。
全体として、佐藤氏の論調は、「勧善懲悪」的印象を拭えない。
このブログの読者にはなじみだろうが、鬼平犯科帳の魅力は、「人はよいことをしながら、悪いことをする、悪いことをしながら、よいことをする、それが人間というものだ」という考えに貫かれており、平蔵も盗賊も、同じことをいうのである。植民地をもつことは、総体として悪いことであり、決して「感謝」などされないのだが、部分的には、よいこともしている。そんなことも認めないなら、人を全体的に評価することなどできないだろう。
もうひとつ、佐藤氏の矢内原評価について、大きな問題なのは、キリスト教徒としての矢内原がまったく無視されていることである。確かに、矢内原は社会科学者としては、マルクス主義に近かったが、人間としては、徹頭徹尾キリスト教徒(無協会派)だった。軍部にどんなににらまれても屈しなかったのは、自分は神の命ずることをやっているという、揺るぎない信念があったからである。決して、マルクス主義者として、抵抗したわけではない。そして、東大を辞職してからは、宗教活動に専念していた。佐藤氏は、矢内原がキリスト教徒はもっと外国にいって宣教しなければならない、といったことを批判しているが、矢内原自身が、宣教活動で生きており、実際に外国にも何度かでかけている。そして、その間、主張を撤回したことは一度もなく、当然雑誌をだす紙の配給で嫌がらせをうけているが、そこでも、原則を曲げたりしていないのである。
五十嵐先生が、いっているのは、この信仰と学問の関係、そして、同じ社会科学者であり、キリスト教徒だった人たちが、矢内原と同じように生きたわけではないこと、その違いがどこからきたのか、矢内原の場合、信仰は何故彼を支えたのか、ということを究明することだったはずである。
基本的な問題意識は、佐藤氏は、正しいと思う。しかし、その課題は充分に果たされているとはいえない。1から5をすべて検証する必要があるから、重要人物に絞って考察すべきである。そして、このような問題に勧善懲悪は、絶対に避ける必要がある。