読書ノート『売り上げを減らそう』中村朱美 ライツ社

 京都にある佰食屋は、食べ物好きの人にとっては、有名な店らしい。テレビや雑誌でも何度も紹介されているのだそうだ。私は、食べ物にほとんど興味がないので、まったく知らなかったが、週刊誌の本紹介欄に出ていて、面白そうだから読んでみた。もちろん、料理などではなく、経営理念に興味が沸いた。
 簡単に紹介すると、ステーキの店、といっても、ステーキ丼、ステーキ定食、ハンバーグ定食の店と、牛肉寿司定食、牛肉茶漬け&肉寿司定食、牛和風まぜ麺の店、すき焼き定食、味噌鍋定食、サイコロステーキ定食という、いずれも3メニューしかない3店のみである。いろいろ試行錯誤があったようだが、結局、一日100食のみ、しかもランチタイムのみという営業形態の店になっている。
 この本は、こうした店を開くきっかけ、開店から3年ほどの困難な時期、結局行き着いた営業形態、そしてそのメリットについて、分かりやすく書かれている。この店が、好評なのは、何よりも料理がおいしいからだろうが、(もちろん、私は食べたことがない。)本が面白いのは、型破りの経営を何故しているのかよく理解でき、それが実に新鮮だからだ。
 一日100食をランチタイムのみ提供するのだから、当然、開店の準備から後片付け、翌日の準備を全部済ませても、8時間労働内におさまる。通常の飲食店は営業時間を長くして、利益をより多くだそうとするわけだが、そうしたやり方を徹底的に拒否している。そのことによって生まれるメリットを著者は5点にまとめている。
1 早く帰れる。退勤時間は夕方5時台。
2 フードロスはほぼゼロで経費削減
3 経営が究極に簡単になる。カギは圧倒的な商品力。
4 どんな人も即戦力になる。やる気にあふれている人なんていらない。
5 売り上げ至上主義からの解放。よりやさしい働き方へ。
 要するに、お金より自由時間。仕事の効率より、楽しく思いやりのある職場に価値をおいているわけだ。3店舗に限定して、いくら誘われても、拡大を拒んでいるのは、大きくなれば、こうした原理を放棄しなければならないからだ。
 この本を読んだとき、ケインズの予言を思い出した。ケインズがこの店を知ったら、我が意をえたりと喜ぶのではなかろうか。ケインズは、20世紀の初頭に、100年後の予想をしてみせた。彼の予想によれば、100年後は、経済成長が進み、技術も発展するので、人々が豊かな生活を維持するために、4時間程度働けばいいような社会になる。そうすると、人々は余暇を利用して、スポーツ、芸術活動を活発に行い、生活をエンジョイするようになるのではないか、と予想した。しかし、この予想は、多くの経済学者によって、「外れた」と解釈されている。経済発展して、4時間程度の労働で、豊かな生活を維持できる、という認識はそれほど間違っていないが、にもかかわらず、多くの人は、長時間働いている。特にアメリカの経営者たちは、休む間もないほど働きづめの生活をしていることが多く、しかも、そこで得ている報酬は、その人が豊かな生活をするために必要な額の、何十倍、何百倍にもなる。ハーバード大学サンデル教授の「白熱教室」で紹介されて有名になった話だが、マイクロ・ソフトの創始者であるビル・ゲイツは、1秒に15000円稼ぐという。サンデル教授は、ビル・ゲイツが歩いているときに、1万円札が落ちていても、彼にとっては拾う価値がない。拾う時間に、彼はもっと多く稼ぐからだ、という逸話を面白おかしく紹介していた。
 つまり、ケインズは、充分な収入があれば、それで満足して、より多くの収入をえるために働くよりは、生活を愉しむことに時間を使うようになるのではないかと考えたのだが、ほとんどの経営者は、お金を稼ぐこと自体が目的となっており、稼げる富に限界をおかない精神が支配的になってしまったわけである。そして、格差の進んだ貧困層は、長時間労働しても、満足な賃金がえられないようになっている。こうして、ケインズの予想は実現していないと考えられている。
 佰食屋の経営理念は、ケインズ予想をはるかに先をいっているといえるのだ。
 ケインズは、労働時間以外を愉しむようになるといっているのだが、佰食屋では、働くこと自体を楽しみ、更に自由時間もそれぞれに愉しむという労働・生活スタイルを志向している。
 店のメニューは3つだけなので、例えば、20のメニューの場合と比べて、調理するにせよ、注文をとるにせよ、負担が圧倒的に軽い。経験のない人でも、直ぐに仕事内容を憶えることができるのだそうだ。競争に勝つために、新しいメニューを考えたり、接客の様々な要求に答えるなどというストレスがない。何人もの人を雇用しているが、採用についても、他の店では採用されそうにない人や、実際に何十もの応募で断られたというような人たちが、多く雇用されているという。『教育』の特集にあった「誰でもマイノリティ」という観点で採用するので、採用されると、非常に積極的に働いてくれるそうだ。逆に、能力とやる気あふれる人は、「ここはまずいから、こうした方がいいのではないか」とか、「あの人の仕事はどうも**だ」などという態度が表れ、トラブルになりやすい。むしろ、失敗は補いあい、家庭の事情で休むときには、なんの圧力もかけず、休めるようにする。誰かが休むときには、経営者である著者が補充に入るようだが、それができないときには、一人欠けた状態で、100食売るのではなく、今日は80食というように、減らしてしまうことまでする。そうすることによって、あいつが休んだから、仕事が余計に増えた、というような不満がでなくなる。
 こういう細かいところでの、発想の転換は、実に小気味よく、参考になる。もちろん、これはこの店の哲学であって、それを同じようにやっても、他の人が成功するとは限らないだろう。このやり方がよいというのではなく、既成の観念に囚われることなく、本当に必要な価値を実現するためには、どうすればよいのか、自分たちが置かれた状況のなかで、解を求めていくような発想が必要だということだろう。

 ちなみに私が学生のころから、おそらく今でも続いている時間限定の食堂がある。私は、調理設備がまったくない下宿屋さんに7年間いたので、ほとんど外食だったのだが、その店は、主にそうした学生相手の食堂で、昼間と夕方、それぞれ2時間くらいしか営業していなかった。メニューはもう少しあったと思うが、ほぼ**定食というもので、いつもほぼ満員、どんどん客は回転していた。その店も、既成の観念ではなく、学生がたくさん下宿しているという、その地域の特性にあった経営をしていたわけである。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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