読書ノート『政治家の覚悟』菅義偉

 政治家の本は、これまでほとんど読んだことがないが、やはり、総理大臣になったひとが、何をどのように考えているのか、知る必要があると思い、Kindleで購入できるので、読んでみた。おそらく、ゴーストライターが書いた文章だろうが、非常に読みやすく、菅首相の考えや発想法がよくわかる。そして、わかると同時に、このひとは、やはり権力主義者なのだということと、彼の政策は、個別領域のなかでの発想に留まっており、体系性とか、論理一貫性はないのだということが、よくわかる。もちろん、個別政策の中では、なるほどと納得できるものもあるが、いろいろと疑問がおきるものが多い。

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読書ノート『原節子の真実』石井妙子

 石井妙子氏の『女帝小池百合子』がとても面白かったので、ついでに『原節子の真実』も購入していたのだが、私はあまり映画をみないので、しはらく放置していた。しかし、気が変わって読んでみたのだが、非常に面白かった。原節子の映画が見たくなったわけではないが、戦前から戦後への移行期に表れた映画界の人間模様や、そのときの原節子の生きざまが、かなり筋の通ったものであったことを知り、日本社会の在り方を考える上でも参考になると思った。
 他方、私は、まったく原節子という女優について知らないままだったので、世間の定説などにはまったく囚われずに読んだ。例えば、原節子は、40歳くらいで、まったく誰にも知らせることなく、引退をして、その後まったく公開の場に現れず、隠遁生活をしたのだそうだが、そのきっかけが、小津安二郎が亡くなったからだというのが、多くの人の見方だったようだ。しかし、石井妙子氏は、その考えをまっこうから否定する。定説に親しんでいたひとには、ショックが大きいようだが、逆に私は、読んでいて、小津と原に関する、石井氏の描き方には、多少疑問をもった。それはあとで触れよう。
 原節子は、本名会田昌江というのだそうだが、かなり裕福だったが、没落した家(といっても、かなり貧しいというようでもなかったようだ)の大家族に生まれた。非常に成績がよかったが、レベルが高く入りたかった高等女学校の試験の日に体調をくずしていて、不合格になり、不本意な私学にはいったが、経済的なこともあり、義兄に誘われて映画の世界にはいった。14歳のときだ。そして、結局、このかなりファナティック義兄とずっと行動をともにする。

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読書ノート『デカブリストの妻』ネクラーソフ

 トルストイの『戦争と平和』は、当初デカブリスト(十二月党員)のことを書くつもりだったことは、既に書いた。そして、最初の草稿が、ピエールとナターシャという、『戦争と平和』の事実上の主人公である二人が、シベリア流刑から戻った場面から始まるものだった。もちろん、流刑に処せられたのは、夫のデカブリストだけだから、妻であるナターシャは、必要もないのに、極寒の地、しかも、非常に遠方のシベリアに、あとを追いかけて行ったのである。橇で4000キロをいくというのは、気がとおくなるような苦行だ。もちろん、贅沢な生活をしている貴族であるのに、それを捨てていくのだから、まわりは懸命にとめたに違いない。どういう風に、彼女らは出かけたのだろうか。それを描いたのが、ネクラーソフの『デカブリストの妻』である。ネクラーソフは、ロシアの詩人で、ドストエフスキーに高く評価されたという。

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読書ノート「十二月党員」(トルストイ)

 トルストイの「十二月党員」は未完の小説の第一章で、しかも書き直しが複数ある。トルストイ全集3巻(河出書房新社)には、3編が収録されている。
 『戦争と平和』を先日読み終えて、高橋精一郎氏による、最終巻の解説を読むと、『戦争と平和』が最初デカブリスト(十二月党員)を描くことから構想し、次第に時代を遡って、ナポレオンとの戦争にまで至ったという話は、既に知っていたが、デカブリストを描いた断片があり、その部分は、流刑から戻ったピエールとナターシャ、そしてその子どもたちがモスクワに宿をとる部分であると書かれていた。『戦争と平和』の最後の部分では、ピエールがペテルブルクに出かけて、政治的な結社の仲間と相談して帰宅した場面が描かれている。予定を過ぎてもピエールがなかなか帰らないので、ナターシャがいらいらしている。たまたまそこに、昔ナターシャにプロポーズしたデニーフソが滞在していて、昔の生き生きとして魅力的だったナターシャの姿とは全く違うので、驚いているのだが、ピエールが帰った途端に、昔のナターシャに戻ってしまうという場面がある。そして、そのあと、みんなが楽しみにしていたお土産が配られ、そして、ペテルブルクでの話が若干語られる。しかし、具体的なことは明らかにされないのだが、何となく、やがてデカブリストとして登場する人たちのことだと想像されるように書かれているのである。その後、アンドレイ侯爵の息子が亡き父を思う場面で物語は終了してしまう。そして、トルストイの戦争論がながながと展開されることになる。

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読書ノート『戦争と平和』トルストイ4 マリヤとソーニャ

 トルストイは女性の描き方が非常にうまかったと言われている。確かに、『戦争と平和』には、多数の女性か登場する。一般的に最も魅力的な女性としてナターシャがいるわけだが、私は、違う女性の描き方に興味をもっている。それは、アンドレイの妹のマリヤと、ナターシャの従姉妹のソーニャである。この二人は、あらゆる面で異なっている。しかし、最終的には、同じ屋敷内で生活することになる。
 マリヤは、トルストイの母親がモデルであるとされ、どこまで似ているのかはわからないが、しつこいほどに強調されているのみ、容貌が醜いという点である。

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読書ノート『戦争と平和』トルストイ2

 『戦争と平和』には、たくさんの人が登場し、主人公ともいうべき人物も複数いる。その中で、最初の場面から登場し、最後まで重要な役割を果たしつつ、最終の場面でも活躍しているのは、ピエールのみである。そして、『戦争と平和』は、このピエールの成長を描いた小説という側面が非常に強い。というのは、トルストイが最初に構想したのは、「デカブリスト」だったのだが、そこでの主人公がピエールだったのである。デカブリストというのは、1825年におきた一種の反乱で、農奴制などの封建的な抑圧の酷かったロシアに、リベラルな政策を求めた反乱だった。そのなかに、トルストイ一族の人がいたということで、トルストイは興味をもったのだが、やがて、その人物たちの過去にさかのぼって、1812年のナポレオンのロシア侵入を中心のテーマにしたという経緯があった。とすると、1805年の物語の始まりから、1825年のデカブリストの反乱、そして、流刑、帰還という長い期間の物語に、ピエールは関わっているわけだ。訳者の高橋氏によると、『デカブリスト』の草稿では、ピエールとナターシャが流刑地から帰ってくるところから、物語が始まっていたという。ナターシャは、全く非政治的人間だから、当然デカブリストの反乱に参加していはおらず、夫の流刑にどうしてもついていくと主張して、流刑をともにした夫婦という想定だったと想像される。もしかしたら、ナターシャの政治意識の成長も描かれていたのかも知れない。『戦争と平和』の最後の場面は、ピエールがサンクトペテルブルクに出かけて、政治的グループと相談をして帰ってくる場面である。そこで、ピエールは政府の批判を繰り広げる。それは、明らかに、将来のデカブリストの乱への参加を匂わせているのである。
 このように、トルストイが最も深く描こうとしたは、やはりピエールである。そして、ピエールは、何度も人間的、思想的に変遷する。

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読書ノート『戦争と平和』トルストイ1

 前に、ソ連版映画『戦争と平和』の感想を書いたが、あの時期をはさんで、小説そのものも読み返していた。そして、最近読み終えた。たぶん5度目くらいになる。若いころ、読み始めたときに、『戦争と平和』は、人生の節目に、何度か読み直すとよい、と言われたが、確かにそう思う。今回は、ゆっくり、じっくり読もうと思って、少しずつ進み、時間をかけたので、これまで読みとばしていた部分をずいぶん意識し、また、そういうところに面白さが隠れていることがわかった。また前回までは、辟易していた、そして、アマゾンのレビューでも多くの人が指摘している、トルストイ独自の戦争論の部分も、じっくり読んでみた。
 トルストイの戦争論の部分は、ほとんどの人が、訳わからないという感想をもつ部分だし、また、繰り返しが多く、正直、私も辟易するものを感じる。しかし、また、トルストイは、ここが本当に書きたかったのだろうなあとも思うのである。もしかしたら、トルストイは歴史学者になりたかったのだろうかなどと思ったりもする。それほど熱がはいっている。
 ただ、主張していることは、比較的単純である。それは、戦争が起きる原因は、英雄とか、国家の指導者とか、思想家とか、戦略家とか、そういう影響力のある人物が、命令したり、そうするのがよいと働きかけて、それに兵士たちが、動かされて戦争が起きるのではない。実際に、ナポレオンが命じたことなどは、実はほとんど実行されなかったのだというのである。では、何が、戦争を、または、戦争にむけて兵士たちが移動していくことを引き起こすのか。それは、民衆一人一人が、何かにかられて動いていく、そのなかには、確かに政治指導者の意志もあるだろうが、そういう個々の力の総体として、また偶然なども重なって、戦争が起きるのだというのである。しかし、トルストイの「論文」のような文章を読んでも、ああなるほど、と納得のいく人は、ほとんどいないに違いない。個々の民衆の意志の総体といっても、それは言葉の遊びのようにも見える。

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読書ノート『ある小学校長の回想』金沢嘉市

 金沢嘉市氏は、民間教育運動では著名な校長だった。しかし、何か有力な教育方法などを提起している人ではなかったので、私はほとんど関心をもたず、実際に接することもなかった。私は東京の世田谷で育ったのだが、金沢氏は、私が小学生だった時期に、世田谷で教頭や校長をしていた。氏の本を読んでみようと思ったのは、彼を批判する本を読んだからだ。細川隆元『戦後日本をだめにした学者・文化人』という本だ。よくある左翼系の学者だけを非難する本ではなく、左右のひとたちをかなり広く批判しているが、そのなかに金沢嘉市が含まれている。もちろん、私自身、この細川氏の本に共感しているわけではまったくないが、金沢氏を読んでみようと思ったきっかけになった。
 細川氏の批判は簡単にいうと次のようになる。
・戦前は軍国主義教育をしており、戦後民主主義に変節しているが、きちんと考えたわけではない。
・自分がいかに評価されているか、とくとくと書いているが、そういうことは胸にしまっておくべきこと。
・雑誌やラジオで解説しているが、浅い受け売りである。
 以上のようなことだ。私が気になったのは、戦前から戦後への変遷の部分だ。軍国主義教育をしていたのに、戦後民主主義社会になると、とたんに昔から民主主義者だったように振る舞う人が多かったとは、よく言われることであり、それが、教師に対する不信感となっていたとも言われる。しかし、ことはそう単純ではない。
 そこで、『ある小学校長の回想』(岩波新書)を読んでみた。1967年の発売だ。69年に定年退職なので、まだ現役の校長時代に執筆されている。

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読書ノート『メディアの闇 安倍官邸vsNHK 森友取材全真相』相澤冬樹

 「桜を見る会」の問題は、国会が開けば再燃するだろうが、森友問題もやはり、曖昧にするわけにはいかない。あれはたいした問題ではないと言う者もいるが、安倍内閣における政治の劣化が象徴的に表れているものであって、無視するわけにはいかない。財務省の公文書改竄事件で自殺をした赤木氏の件を取り上げて、注目された相澤冬樹氏の、森友問題の取材を記した本が文庫になった。
 kindleで購入して、すぐに読み終わったが、奥付をみると、2021年1月20日だった。未発売の本の読書ノートは初めてだ。旧版は前にだされていて、森友事件の文書改竄の責任を押しつけられた形で自殺した赤木さんの妻との接点部分が補筆されたものだ。
 題名からして、森友事件の真相、特に安倍首相や夫人の関与について、詳細な追跡があるのかと思っていたが、そこは皆無に近かった。あくまでも大阪の記者として、森友関連の取材を記録したものだ。
 著者は、森友事件には2つの大きな疑問があると書いている。
 第一は、基準を満たすのかについて疑問のある小学校が何故「認可適当」とされたのか。
 第二は、小学校予定地として何故国有地が大幅に値引きされて売却されたのか。

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読書ノート『言語学者が語る漢字文明論』田中克彦著

 日本の代表的な言語学者である田中克彦氏の「漢字重視」に対する批判の書である。
 一言で著者のいいたいことを整理すれば、「言語は音であるから、音から独立し、かつ修得に極めて困難な漢字使用は、やめるべきである」ということになるだろう。教育学の立場からいえば、漢字学習は、日本の学校教育の重要な柱となっており、かつ近年ますます重視されている。学習指導要領では、義務教育の間に学ぶべき漢字が決められているが、その数は増えている。この問題をどう考えるかに直接関わってくる。
 まず、田中氏の注目すべき指摘について考えたい。
 第一は、「訓読」についてである。日本人は、中国から漢字を取り入れて、中国語としての漢文を日本語にして読むという技法を編み出し、そのことによって、日本語を豊かにした、といわれているが、中国語を自分の言語に直して読むことは、どんな言語でも可能であると、田中氏はいっている。特に、ヨーロッパの言語は、だいたいにおいて文法的な構造が、中国語と似ているので、日本よりもむしろ訓読がやさしいというのである。日本語の場合には、返り点などをつけて、かなり複雑な読み方になってしまう。訓読を編み出したことが、日本人の器用さだけではなく、漢字文化の優れた点であるとされるが、それは違うというわけだ。考えてみると、田中氏のいうように、現在漢字文化圏というのは、中国と台湾と日本の3カ国しかない。南北朝鮮は、ハングルに転換して、漢字はほとんど使わない。ベトナム語もアルファベットを採用している。漢民族周辺の民族は、かなり前から独自の文字を考案しているそうだ。そして、中国も台湾も、漢字の重荷に耐えがたく、悪戦苦闘しながら、簡易化を図っている。漢字を重視するひとたちは、そうした中国の苦労にまったく思い至らないと批判する。

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