読書ノート『ある小学校長の回想』金沢嘉市

 金沢嘉市氏は、民間教育運動では著名な校長だった。しかし、何か有力な教育方法などを提起している人ではなかったので、私はほとんど関心をもたず、実際に接することもなかった。私は東京の世田谷で育ったのだが、金沢氏は、私が小学生だった時期に、世田谷で教頭や校長をしていた。氏の本を読んでみようと思ったのは、彼を批判する本を読んだからだ。細川隆元『戦後日本をだめにした学者・文化人』という本だ。よくある左翼系の学者だけを非難する本ではなく、左右のひとたちをかなり広く批判しているが、そのなかに金沢嘉市が含まれている。もちろん、私自身、この細川氏の本に共感しているわけではまったくないが、金沢氏を読んでみようと思ったきっかけになった。
 細川氏の批判は簡単にいうと次のようになる。
・戦前は軍国主義教育をしており、戦後民主主義に変節しているが、きちんと考えたわけではない。
・自分がいかに評価されているか、とくとくと書いているが、そういうことは胸にしまっておくべきこと。
・雑誌やラジオで解説しているが、浅い受け売りである。
 以上のようなことだ。私が気になったのは、戦前から戦後への変遷の部分だ。軍国主義教育をしていたのに、戦後民主主義社会になると、とたんに昔から民主主義者だったように振る舞う人が多かったとは、よく言われることであり、それが、教師に対する不信感となっていたとも言われる。しかし、ことはそう単純ではない。
 そこで、『ある小学校長の回想』(岩波新書)を読んでみた。1967年の発売だ。69年に定年退職なので、まだ現役の校長時代に執筆されている。

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読書ノート『メディアの闇 安倍官邸vsNHK 森友取材全真相』相澤冬樹

 「桜を見る会」の問題は、国会が開けば再燃するだろうが、森友問題もやはり、曖昧にするわけにはいかない。あれはたいした問題ではないと言う者もいるが、安倍内閣における政治の劣化が象徴的に表れているものであって、無視するわけにはいかない。財務省の公文書改竄事件で自殺をした赤木氏の件を取り上げて、注目された相澤冬樹氏の、森友問題の取材を記した本が文庫になった。
 kindleで購入して、すぐに読み終わったが、奥付をみると、2021年1月20日だった。未発売の本の読書ノートは初めてだ。旧版は前にだされていて、森友事件の文書改竄の責任を押しつけられた形で自殺した赤木さんの妻との接点部分が補筆されたものだ。
 題名からして、森友事件の真相、特に安倍首相や夫人の関与について、詳細な追跡があるのかと思っていたが、そこは皆無に近かった。あくまでも大阪の記者として、森友関連の取材を記録したものだ。
 著者は、森友事件には2つの大きな疑問があると書いている。
 第一は、基準を満たすのかについて疑問のある小学校が何故「認可適当」とされたのか。
 第二は、小学校予定地として何故国有地が大幅に値引きされて売却されたのか。

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読書ノート『言語学者が語る漢字文明論』田中克彦著

 日本の代表的な言語学者である田中克彦氏の「漢字重視」に対する批判の書である。
 一言で著者のいいたいことを整理すれば、「言語は音であるから、音から独立し、かつ修得に極めて困難な漢字使用は、やめるべきである」ということになるだろう。教育学の立場からいえば、漢字学習は、日本の学校教育の重要な柱となっており、かつ近年ますます重視されている。学習指導要領では、義務教育の間に学ぶべき漢字が決められているが、その数は増えている。この問題をどう考えるかに直接関わってくる。
 まず、田中氏の注目すべき指摘について考えたい。
 第一は、「訓読」についてである。日本人は、中国から漢字を取り入れて、中国語としての漢文を日本語にして読むという技法を編み出し、そのことによって、日本語を豊かにした、といわれているが、中国語を自分の言語に直して読むことは、どんな言語でも可能であると、田中氏はいっている。特に、ヨーロッパの言語は、だいたいにおいて文法的な構造が、中国語と似ているので、日本よりもむしろ訓読がやさしいというのである。日本語の場合には、返り点などをつけて、かなり複雑な読み方になってしまう。訓読を編み出したことが、日本人の器用さだけではなく、漢字文化の優れた点であるとされるが、それは違うというわけだ。考えてみると、田中氏のいうように、現在漢字文化圏というのは、中国と台湾と日本の3カ国しかない。南北朝鮮は、ハングルに転換して、漢字はほとんど使わない。ベトナム語もアルファベットを採用している。漢民族周辺の民族は、かなり前から独自の文字を考案しているそうだ。そして、中国も台湾も、漢字の重荷に耐えがたく、悪戦苦闘しながら、簡易化を図っている。漢字を重視するひとたちは、そうした中国の苦労にまったく思い至らないと批判する。

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読書ノート『能力と発達と学習』を読む2

 今回は第一章「人間の能力をどうとらえるか」を扱う。
 最初に「知能」を問題にしている。知能とは何か、生まれつきの遺伝的なものか、固定的なものなのか、各知能の関係は何か、測ることは可能なのか、等々様々な検討がなされているが、現在の我々には、あまり切実さを感じさせないテーマである。しかし、1963年当時は、まだ、「知能」は極めてホットで、実際生活にも影響を与えていた重大な問題だったことは知っておくべきだろう。
 一番極端な例はイギリスで、1944年法で、前期中等教育まで義務化されたが、小学校後は3つのコースに区分されていた。しかも、年数も教育内容も異なっていた。それを、イレブンプラステストという試験で振り分けたが、そのテストの重要な柱が知能テストだったのである。つまり、知能テストで、進学する学校の種類を決められる、人生に大きな影響を、知能テストが与えていた。当然、大きな批判が沸き起こり、イギリスを中心とした大論争が起きた。また、DNAが発見されたこともあり、遺伝学が盛んになったことも、教育に影響を与えた。知能や能力は遺伝的に決まっているとか、あるいは人種的に知能の水準は異なっているとか、様々な「学説」が横行していた時期でもあった。かつては日本でも、就学前検診で知能テストが行われ、一定水準以下だと、ほぼ強制的に養護学校にいれられるというような時代もあった。こうした論争を経て、現在の学問では、かなりの部分で学説の一致をえている。既に知能テストを大規模に行うようなこともなくなっている。だから切実感はなくなったのだが、形を変えて、同様の問題は残っていると考えるべきだろう。

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読書ノート『能力と発達と学習』(勝田守一)を読む1

『教育』が第二特集として「能力・発達・学習と教育実践」というテーマを設定して、勝田守一の名著『能力と発達と学習』を論じる文章を掲載した。その論文に対しては、別途論評する予定だが、それと並行して、私自身の読書ノートとして、何度かに分けて、考察しようと思った。考察というよりも、この名著(以下、本書 ページ数は、著作集6巻のもの)から何を学びとるかということの整理にしかならないかも知れない。
 本書は、『教育』に一年間連載された文章をまとめたもので、「教育学入門」であるが、「教育研究の成立する前提とその本来の領域」を明らかにすることを志して書かれた。私自身は、あまり読書家ではないので、大量の本を読んでいるわけではないが、私の読んだ「教育学入門」「教育学概論」のなかで、戦後最高の書物であり、これを凌駕するものは書かれていない。私自身、生涯のなかで、この本を越える「教育学概論」の書物を書くことは、夢であり、また、最大の努力目標として、ずっと念頭にある。しかし、先の論文は、この名著を、面白くない、新味のないもので、最近流行りの論の先駆けに過ぎないなどと評価している。前のことだが、最近の若い教育学研究者は、勝田守一という人を、かなり低く評価していると聞いたことがある。その典型的な事例を、『教育』の論文でみたわけだが、その論評は別途行うので、それとは無関係に、本書を読み進めたい。
 まず、最初に私の本書を読む心構えを書いておきたい。

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読書ノート『カラヤンとフルトヴェングラー』中川右介

 『フルトヴェングラー』の続きになる。
 脇圭平氏と芦津丈夫氏による『フルトヴェングラー』が、フルトヴェングラーの非政治性を絶対視していたのと違って、本書『カラヤンとフルトヴェングラー』は、フルトヴェングラーを徹底的に政治的に振る舞った人物として描いている。
 ベルリンフィルの常任指揮者に若くしてなったときの政治力の発揮、そして、カラヤンに対する徹底的な排除活動が、この本の主題である。音楽的な分析は、ほとんどなく、ふたりの闘争史のようなものになっている。私は、フルトヴェングラーのカラヤン排撃は、戦後になってからのものだと考えていたのだが、本書を読むと、戦前のときから既に始まっていたのだとする。資料的に確認している(ただし日本語文献のみ)から、それは事実なのだろう。つまり、戦後のカラヤン排撃は、戦前の継続に過ぎないということのようだ。しかし、それが本当であるとすると、フルトヴェングラーの政治性は、やなりかなりピントがずれていて、まわりに振り回され、利用されたということにしかならない。 “読書ノート『カラヤンとフルトヴェングラー』中川右介” の続きを読む

読書ノート『モーツァルトを聴く』海老沢敏(岩波新書)

 クラシック音楽の聴き方に関して、「モーツァルトに始まり、モーツァルトに終わる」という言葉がある。私の場合、確かにそれが当てはまる。子どものころ、我が家にあった古いレコード、当時は既にLP時代に入っていたのではないかと思うが、我が家には、手回しの蓄音機とSPレコードしかなく、LPを買うようになったのは、2,3年後だった。そこで、ブルーノ・ワルターのSPを何度も繰り返し聴いたものだ。そこにモーツァルトのアイネ・クライネ・ナハト・ムジークとジュピターがあった。戦前のウィーン・フィルの録音だ。アイネ・クライネの演奏に関しては、いまだに、この演奏を越えるものを知らない。ただし、CDになったその演奏は、SP時代の潤いのある音質がなくなっている。SPは確かに針の音がはいって、聞き苦しかったが、回転数が速かったせいか、音そのものは悪くなかったのだ。とにかく、モーツァルトから始まったのだが、その後、ベートーヴェン、マーラー、ヴェルディとめぐって、やはり、モーツァルトが最高というところに戻ってきた。だからモーツァルト本は、できるだけ読むことにしていて、今回この本を読んでみた。 “読書ノート『モーツァルトを聴く』海老沢敏(岩波新書)” の続きを読む

読書ノート『研究不正』黒木登志夫(中公新書)

 大学を退職して、これから自由な研究ができると思っている。ただ、義務もないし、いつまでに何をということもないから、本当に気楽だ。ただ、大学では近年、研究倫理に極めてうるさくなっている。ネットで受講する研究倫理の講座と試験を受けなければならない。全員修了しないと、対文科省においてまずくなるということで、大学管理者は非常に神経質になっている。大学に迷惑かけるわけにはいかないので、修了したが、実際には、私の研究にはほとんど関係ないことばかりだった。実験したり、データとったりする領域では、倫理問題は重要であるし、特に医学や生物分野などは、人間や動物を扱うので、守らねばならない倫理問題は多数ある。そして、身近に自然科学の研究者がいるし、研究不正問題がその周辺で起きているので、他人ごとではない。 “読書ノート『研究不正』黒木登志夫(中公新書)” の続きを読む

読書ノート『皇太子さまへの御忠言』西尾幹二

 皇室問題を考える一環として、西尾幹二『皇太子さまへの御忠言』(ワックKK)を読んでみた。この手の本を読んでいつも感じることだが、作者は本当にこんなことを考えているのだろうかと、どうしても思ってしまう。
 この著書は、今上天皇が皇太子であったときに、大きな衝撃を与えた「人格否定発言」に触発されて書いた文章と、その反応に対するコメント的な文章を集めたものである。ここで書かれたことは、現時点で考えると、明らかに誤解に基づくか、あるいは偏見に基づくものであったことがわかる。しかし、この発言を機に、一気に皇太子批判が起き、皇太子を退くべきであるという議論まで、公然と語られていた。この本は、そこまでの主張はしていないが、皇太子(当時)と雅子妃に対して、姿勢を改めることを強く要求していた。しかし、実際に代替わりのあと、事情はすっかり変わっている。天皇と皇后への批判はほとんどなく、称賛で埋まっているような気がする。私としては、それはそれとしてどうかとも思うが、西尾氏は、現状をどのように見ているのか気になるところだ。西尾氏のブログを見たが、コメントは何もないようだ。(ただし、youtube発言はチェックしていない。)
 雅子皇太子妃の病気に関して、西尾氏が触れている点をひとつだけ紹介しておこう。 “読書ノート『皇太子さまへの御忠言』西尾幹二” の続きを読む

読書ノート『芸人と影』ビートたけし

 ビートたけしの『芸人と影』を読んでみた。芸能人の不祥事とされる事件が相次ぎ、テレビでは頻繁に取り上げられているが、紹介文が、テレビの切り口とは相当異なるようなので、参考にしてみたいと思った。本気でそう思っているのかは、まったくわからないが、芸人は、立派な尊敬されるような存在ではない、昔からヤクザとのつながりは常識で、それは、自分自身もそう思うべきであるし、世間も芸人を思い違わないようにしてもらいたいという信条が出ている。だから、芸能人の不祥事について、要するに、世間の目も厳しすぎるし、当人たちも対応を誤っている。しかし、他方で、危ないひとたちとの付き合いに、無自覚であってはならず、一線を引く姿勢が大事だというわけだ。しかし、なかなか難しいという。反社会的人物がいる場に呼ばれて、食事をして、謝礼をもらった芸人が、お金をもらったことを当初隠して、傷口を広げたが、むしろ、本当にもらっていなかったら、その方が危ない。お金ももらわずに、出かけていくとしたら、それは友人であることの証拠なわけだという。 “読書ノート『芸人と影』ビートたけし” の続きを読む