読書ノート『カラヤンとフルトヴェングラー』中川右介

 『フルトヴェングラー』の続きになる。
 脇圭平氏と芦津丈夫氏による『フルトヴェングラー』が、フルトヴェングラーの非政治性を絶対視していたのと違って、本書『カラヤンとフルトヴェングラー』は、フルトヴェングラーを徹底的に政治的に振る舞った人物として描いている。
 ベルリンフィルの常任指揮者に若くしてなったときの政治力の発揮、そして、カラヤンに対する徹底的な排除活動が、この本の主題である。音楽的な分析は、ほとんどなく、ふたりの闘争史のようなものになっている。私は、フルトヴェングラーのカラヤン排撃は、戦後になってからのものだと考えていたのだが、本書を読むと、戦前のときから既に始まっていたのだとする。資料的に確認している(ただし日本語文献のみ)から、それは事実なのだろう。つまり、戦後のカラヤン排撃は、戦前の継続に過ぎないということのようだ。しかし、それが本当であるとすると、フルトヴェングラーの政治性は、やなりかなりピントがずれていて、まわりに振り回され、利用されたということにしかならない。
 要するに、フルトヴェングラーは、ナチスにとっての最大の文化的宣伝材料であり、フルトヴェングラーにかなりの自由を許していたし、ナチのやり方に批判を公然と行っても、(ヒンデミットやユダヤ人音楽家の擁護)弾圧をしなかったのは、世界に対して、芸術に対しては寛容であり、自由を認めているという体裁のためだったわけで、それを主導していたのは、宣伝省のゲッベルスだった。ナチ内部の権力争いとして、ゲッベルスに対抗するために、カラヤンを抜擢しようとしたのが、ゲーリングであって、それを知ったフルトヴェングラーがカラヤンに対する排除の動きをとったというのが、中川氏の解釈である。もし、そういうゲーリングの策動に振り回されたとしたら、やはり、フルトヴェングラーの拙い政治性が、極めてマイナスに出たと考えざるをえない。
 そもそも、指揮者は、ドイツ国内を限っても、かなりの人数が必要なのであって、フルトヴェングラーがベルリンフィルという絶対的なポストをがっちり押さえている以上、カラヤンが、オペラ劇場の指揮をしたとしても、また、そこの音楽監督になったとしても、別にフルトヴェングラーの地位を脅かすわけではない。(もっとも、ヒンデミット事件後、フルトヴェングラーは形式的にはベルリンフィルの音楽監督の地位を退いていたが、実質的には同じことだった。しかし、歌劇場の指揮者は実質的に退いていた。そこに、カラヤンを登用しようとしたわけである。)従って、カラヤンを歌劇場のほうで登用しようとしたところで、カラヤンに親切にして、先輩として振る舞うことはいくらでもできるはずだ。また積極的にベルリンフィルを振らせればいい。音楽的地位からすれば、現役ばりばりのフルトヴェングラーを追い落として、ベルリンフィルの音楽監督にカラヤンがなるなどということは、考えられないからだ。
 指揮者は、自分のオーケストラをすべての演奏会で指揮するわけではない。自分も他のオーケストラを指揮するために客演するし、また、他の指揮者を自分のオケに呼ぶ。お互いにそうするわけだ。まったく反対の音楽観をもっていると言われるトスカニーニですら、ニューヨークフィルの後任に、フルトヴェングラーを推薦したことはよく知られている。それは戦前も戦後も変わらない。もちろん、相性のよくない関係もあって、本当のところはわからないが、カラヤンはバーンスタインを客演で呼ぶのを拒絶していたとか、アーノンクールは絶対に呼ばなかったとか、そういう関係はある。また、同じ都市のなかでは、相互に呼ばないなどという話もないではない。しかし、むしろ相互に呼び合うほうが普通である。フルトヴェングラー自身が、カラヤンを招待すれば、フルトヴェングラー自身、おそらく不快に感じていただろう関係をとる必要もなかった。
 とにかく、戦争が激しくなり、ドイツの敗戦濃厚になるに従って、音楽家の生き方も厳しくなり、ナチと度々衝突していたフルトヴェングラーは、身の危険を感じて、スイスに亡命するが、戦後指揮者としての復帰には、前回書いたように、かなりの困難を乗り越える必要があった。
 それにしても、戦後のフルトヴェングラーのカラヤンに対する嫌がらせともいえる行動は、かなり異常だとしかいいようがない。自分の影響力の及ぶウィーンフィル、ベルリンフィル、ザルツブルグ音楽祭から、カラヤンを徹底的に排除する。本書を読めば、これは戦前からの継続であることがわかるので、私自身の「なぜあれほどまで」という疑問は、ある程度解消されたが、フルトヴェングラーにとっては、かなりの精神的ストレスになったのではないかとも思われる。こうした点に関して、脇氏の本がほとんど触れることなく、丸山真男ですら、本当はチェリビダッケがベルリンフィルの指揮者になるはずだったのに、カラヤンが簒奪したような言い方を座談会でしているのは、どうにも不可解である。当時の事情を知れば、チェリビダッケは当初はフルトヴェングラーの第一の後継者候補だったが、自らの態度で団員たちの反感をかい、自滅してしまったのだから、チェリビダッケがベルリンフィルの音楽監督になる可能性はなかったのである。
 さて、フルトヴェングラーとカラヤンは、対照的な指揮者だったと通常考えられている。フルトヴェングラーはいわゆる「精神派」で、カラヤンは「精神性が欠如している」と、フルトヴェングラー派によって、その相違は定式化されている。確かに、フルトヴェングラーはたくさんの論文を書き、楽曲の解釈を言葉で論じた。それは、チェリビダッケも同様である。カラヤンはそうした音楽解釈を、音楽言語以外で論述することは、ほとんどなかったようだ。しかし、フルトヴェングラーも、実際に演奏しているときに、「論文的」内容を心に描いていたわけではないだろう。あくまでも「音楽」に集中していたはずだ。
 演奏様式としては、フルトヴェングラーは、楽譜のテンポをかなり揺らすことが多く、いわゆる「主観的」と言われる演奏が多く、カラヤンはそうした過度のテンポの揺らしはほとんどしないと思われている。しかし、そうした受け取りの違いは、むしろ、フルトヴェングラーをライブの録音で知り、カラヤンはセッション録音で知るという、その相違に因っていると思う。
 たとえば、ベートーヴェンの第五交響曲で、フルトヴェングラーのライブとセッションを聴き比べると、かなり違う。セッション録音の第五は、ライブのようにテンポを動かさない。それは「英雄」でも同様だ。逆に、カラヤンは死後、ライブ録音がかなり出されるようになり、セッション録音とは違うエネルギーを感じさせる演奏に、カラヤンの評価もずいぶんと変わった。ライブこそがもっとも重要な演奏という点では、ふたりは相違がなかったといえる。
 二人の大きな相違は、フルトヴェングラーは、チェリビダッケもそうだが、一回一回の演奏に全力をかけた。それに対して、カラヤンは、もっと長い年月のなかでめざすべきオーケストラ演奏を構想し、一回一回の演奏は、全力をかけるが、また、ひとつの過程であると考えていたように思う。1955年にベルリンフィルの指揮者になるが、もっとも重要なベートーヴェンの交響曲全集の録音は、1961年と62年であって、かなり慎重に行われた。実は、ベルリンフィルは、カラヤンの前に、クリュイタンスによる全集を録音している。マーラーや新ウィーン学派の音楽は、それからさらに年月をへて、オーケストラの成熟をまって録音、演奏している。中川氏によると、フルトヴェングラーは、優柔不断なために、頼まれるとどんどん仕事を引き受けてしまう傾向があり、そのために体調を崩し、崩しても仕事に追われていたとされるが、カラヤンは、楽団の帝王になった以降は、ベルリンやウィーンのオケ以外は、ごく稀にしか指揮することはなく、多忙であるが、実は極めて計画的に仕事が行われていた。フルトヴェングラーにとっては、ライブ演奏と録音は別ものだったが、カラヤンは、多くがリハーサルと録音が兼ねて行われ、(従って時間をより多くとることができた)、そのあとで演奏会が開かれた。
 指揮者は、単に音楽を演奏するだけではなく、100人以上、そして多くの運営スタッフの生活に大きく影響する位置にいる。従って、音楽家と同時に、経営者でもある。いくら音楽的に優れていても、クライバーを常任指揮者に迎えようとしたオーケストラはなかったのである。フルトヴェングラーですら、実は録音には若いころから極めて熱心だった。しかし、カラヤンと違って、録音の技術的な側面には充分な理解をもっておらず、そのために、意に反して、残された「音」は、充分なものではなかったと思う。
 そういう意味で、つまり、指揮者としての総合的な力量という点で、カラヤンこそ、20世紀最高の指揮者だと、私は思っている。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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