読書ノート『皇太子さまへの御忠言』西尾幹二

 皇室問題を考える一環として、西尾幹二『皇太子さまへの御忠言』(ワックKK)を読んでみた。この手の本を読んでいつも感じることだが、作者は本当にこんなことを考えているのだろうかと、どうしても思ってしまう。
 この著書は、今上天皇が皇太子であったときに、大きな衝撃を与えた「人格否定発言」に触発されて書いた文章と、その反応に対するコメント的な文章を集めたものである。ここで書かれたことは、現時点で考えると、明らかに誤解に基づくか、あるいは偏見に基づくものであったことがわかる。しかし、この発言を機に、一気に皇太子批判が起き、皇太子を退くべきであるという議論まで、公然と語られていた。この本は、そこまでの主張はしていないが、皇太子(当時)と雅子妃に対して、姿勢を改めることを強く要求していた。しかし、実際に代替わりのあと、事情はすっかり変わっている。天皇と皇后への批判はほとんどなく、称賛で埋まっているような気がする。私としては、それはそれとしてどうかとも思うが、西尾氏は、現状をどのように見ているのか気になるところだ。西尾氏のブログを見たが、コメントは何もないようだ。(ただし、youtube発言はチェックしていない。)
 雅子皇太子妃の病気に関して、西尾氏が触れている点をひとつだけ紹介しておこう。
 問題発言として、福田和也氏の発言をあげている。
 「私は、雅子妃問題についてはけっこう楽観視しているんです。今の皇太子ご夫婦が天皇皇后になれば、雅子妃の健康状態も好転するのではないかと思っています。」「皇后になったらいきなり回復するんじゃないかと思います。」などという発言である。
 こうした発言に対して、西尾氏は、根拠を示していない、病気をとがめているのではなく長すぎるのだ、そして、病気以前に、雅子妃は、皇室を変えてしまうという不安がある、として、福田氏を考えのない極楽蜻蛉の典型だと断定している。
 本の題名となった「人格発言」問題にも関わっているが、あいまいな形での発言を非難する声が多数あったわけだが、今では、その真相とおぼしきことがだいたい明らかになっているから、あいまいであらざるをえなかったことが、理解されているし、また、実際に環境による適応障害であったが、皇后になることは、その環境が変わることだから、皇后になれば、改善されるということもまた、不思議なことではなかった。実は、私も、雅子妃は皇后になれば、病状は特段に改善されると考えていたし、またそう語ってもいた。西尾氏は、もちろん、理解力がないわけではなく、天皇というシステムへの「信仰」的立場のために、真実を見ることができなかったのだろう。
 本ブログの「天皇に何を求めるか」という文章で、「存在」と「人格」というふたつの相反する立場があると指摘した。西尾氏は、基本的には、前者であり、「徳治主義ではない」と書いているが、しかし、昭和天皇については、具体的な行為について称賛している。つまり、徳治的な観点から評価していることになり、立場は必ずしも一貫していない。しかし、最後の方を読むと、結局は、「信仰」の問題なのだという立場である。
 「さらにまた、歴史の中では何があったかは分からないので、血筋の正確さはどうやって証明するのか、のたぐいの現代人好みの懐疑癖もナンセンスというべきだろう。『万世一系の天皇』は信じるか否かの二つに一つで、神の存在証明が不可能なように原理的に証明不可能である」と明確に書いている。
 それなら、万世一系で続いてきたとか、それがすべて男系であったとか、そういうことが日本の伝統で明らかなのだから、これこそが日本の誇るべきもので、日本人のアイデンティティの軸なのだというような主張はどうなるのか。神の存在証明が不可能であるということは、つまり、「神などは存在しない」ということの根拠の一つとなり、また、近代科学や哲学は、神は人間が作った創造であることは、合理的に思考する人間にとっては疑いようがない。そういう意味でいえば、西尾氏は、万世一系の皇室というのは、証明不可能なのだから、そのものはまやかしであると言われても反論できないことになる。だから、「信じるか否か」なのだということにならざるをえないわけである。
 見方をかえれば、「万世一系の男系の皇室だったから尊い」のが信仰なのだから、「万世一系で、女系であっても尊い」とか、「万世一系ではないが、連綿と続いてきたし、女系を含めても尊い」という「信仰」は充分に成立する。何故か、それは信仰だからである。まさか、西尾氏は、「信教の自由」を否定しないだろう。そして、信仰の問題となれば、直ちに、女系天皇、あるいは女性天皇の現実的、政治的議論には、タッチできないことになる。女系、女性の天皇を認めるかどうかは、皇室典範という「法律」によって規定されているのであって、あくまでも世俗的な政治の世界、国会で決めることなのである。そして、憲法で規定されているように、天皇は国民の総意によって成立しているのだから、基本的には民主主義的な決定により、決められるべき性質であることになる。西尾氏のような「信仰上」の立場から見解を述べることは、もちろん自由であるが、それは、極めて特殊な見解であるに過ぎなくなる。
 西尾氏のこの著作に限らず「信仰的」な天皇システムの擁護者は、基本的な矛盾を内包した議論を展開するのが常である。天皇はあくまでも血筋であるといい、徳治主義的に考えないといいつつ、平成時代の皇太子や皇太子妃の人格を問題にしている。人物が問題でないのなら、そんな心配をする必要がないはずである。
 そして、男系男子論に必ずある矛盾は、女系を認めると好ましくない血が入ってくるという議論が展開されることである。男系だって女性と結婚するのだから、好ましくない女性の血が入ってくることもあることになるが、それは問題にしないことが多い。あるいは、既に3人の民間人が、婚姻によって皇族になっているので、諦めたのだろうか。確かに、戦前までは、皇族と結婚する女性は、皇族ないし華族であったから、こうした議論にはならなかったわけだが、戦後は民間人の女性が皇室に入ることになり、その都度確かに問題となったが、そのことによって、皇族に問題が生じたという「議論」は大々的には起きていない。私は、実際にそうした事態は起きていると思うが、しかし、そのことによってとくに問題にするという立場はとらない。
 しかし、この点について、西尾氏は、美智子皇后と雅子皇太子妃を明らかに、違う評価、つまり、人物評価をしているのである。美智子皇后は、極めて裕福な家庭に育ち、しかも両親は決して表にでないようにしていたし、我が子を自宅にできる限りこさせないようにしていた。だから、皇族として充分な自覚をもって行動している。それに対して、雅子皇太子妃は、そもそもがキャリア・ウーマンであり、頻繁に実家にいっていた。だから、後者は皇室に入る人間として問題だというわけである。これが正しい評価であるかはまったく別として、男系男子に限るべきという論理そのものが、ここで崩れてしまうことになることは、否定できないだろう。
 それに、女性であれば、どんなに「悪い血」であっても、男系が守られている限り、問題はないのだ、という論理でも採用するのだろうか。
 最後に西尾氏は、古事記に書かれた神武天皇以来の万世一系を、どうやら正統なものとして理解しているようだが、(それは、当然信仰だからだろうが)もちろん、それは歴史的には成立しない。しかし、森鴎外の「かのように」の論理を借りて、神の子孫としての神武天皇以来万世一系である「かのように」理解しているようだ。森鴎外は、自由にものがいえない時代の、最も危険な考えを明確に述べることをさけるために、「かのように」という論理を考えたのだが、今は、自由にものがいえる時代であって、森鴎外の切実な書き方を援用する必要などさらさらないはずである。しかも、歴史学的に、まったく事実に反することを「信仰」と称して国民に押しつけようとするのは、いかがなものだろうか。
 要するに、西尾氏にとって、男系で連綿と続いてきた天皇というあり方は、「信仰」(信じるか否か)の問題である。社会制度のあり方としての天皇に関わるシステムは、当然政治で決めることであり、民主主義社会では、民主主義的な手続に従って決めることである。そこに、いかにも特殊な「信仰」をもちだすのは、「勘違い」としかいいようがない。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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