相模原の障害者施設に、元職員だった男が侵入して大量殺傷事件を起こしたことは、記憶に鮮明に残っているが、容疑者に対する裁判が始まった。しかし、容疑者が反省の弁を述べたあと、奇声を発し、押さえつけてもやめないので、傍聴人を外にだし、休廷した。そして、午後、容疑者のいないままの裁判が継続された。その後どうなるのか、原則被告がいないと公判を開けないはずだが、暴れるなどの事情があるときには、許されるのだろう。麻原の場合にも、その場にはいないまま裁判が進行したから、もしかしたら、この裁判でも被告不在で進行するのかも知れない。現在は以前と異なって、裁判員裁判だから、公判は迅速にかつ短期間で行われる。
この奇声が、意図的なものなのか、あるいは、精神的異常による無意図的なものなのかは、まったく判断ができないが、弁護側は責任能力で争う方針なので、もしかしたら意図的なのかも知れない。精神異常であるか否かで、ある意味生死が左右されるのだから、ありえないことではない。(宮崎勤は、「ねずみがうろうろしている」などとつぶやいたりしたそうだが、心神喪失になっているとは認められなかった。)
さて、この種の事件が起きると必ず議論になる、あるいはならないまでも多くの人に疑問が生じるのが、「責任能力」である。日本は、責任能力の欠如による無罪は、比較的少ないかも知れないが、むしろ、統合失調症を患っていると、検察がほぼ起訴もしないということも、考慮しなければならない。
議論の焦点は、いうまでもなく刑法39条である。次のような規定はよく知られている。
(心神喪失及び心神耗弱)第39条
心神喪失者の行為は、罰しない。
心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。
これはいうまでもなく、犯罪は、意図的に行うことであって、犯罪を行うに際して、そうした自覚がまったくない場合には、犯罪として扱わないということだ。もちろん、過失などは意図的に犯罪を実行することではないが、しかし、「注意義務」があるのに、その注意を怠ったという意味での「意図的」要素を認めるということだろう。「心神喪失」とは、まったく判断能力などがない状態で、「責任能力がない」ということになる。起訴されないか、あるいは起訴されても無罪になる。「心神耗弱」とは、判断能力が著しく弱い場合であって、条文のように刑を軽くするわけである。「心神喪失」とか「心神耗弱」というのは、心理学的概念、あるいは医学的概念ではなく、あくまでもそうした全般的状況を踏まえた上での「法的概念」である。
このような精神的な疾患、障害がある、あるいは通常の判断ができない人の行為については、法的責任を問わないということは、西洋でも日本でも、古くから成立していたとされる。だから、刑法39条は、決して特異な規定ではない。しかし、いつも、双方からの批判に晒されている。
ひとつは、いくら精神疾患だといっても、何人も殺害しておいて、罰を課せられないというのは、いかにもおかしくないだろうかというものである。今回の相模原事件の犯人が、無罪になったとしたら、そうした疑念が相当に沸き起こるに違いない。
また逆の疑問は、精神疾患がある人は、正規の裁判を受けられないことになり、裁判を受ける権利を侵害されているから、39条は精神疾患のある人に対する差別であるというものだ。この立場に立つ映画がつくられ、私も見たことがあるが、正直なところ、この立場にはたたない。また、心神喪失という、判断能力がないと状態が人間にありうると仮定した場合、彼らが、39条が自分たちへの差別であるという認識をもつこともないはずである。検討に値しない議論であるというつもりはないが、ここでは、前者に着いて考えることにする。
さて、精神的障害、精神疾患のある人は、どれだけ犯罪を犯すのだろうか。これは、警察庁の統計がある。
社会全体での精神疾患、精神障害をもった人の犯罪の割合は、健常者より低い。全体の人口のなかでの割合は2.6%程度ということなので、全体的には少ない。しかし、表で明確にわかるように、殺人と放火は、圧倒的に多いのである。つまり、かなり重い犯罪を行う人としては、精神障害者の割合が格段に大きくなる。したがって、そうした傾向のある障害・疾病をもった人物は、あらかじめ拘束する予防拘禁が必要ではないかという議論も出てくる。
ここまでは一般的に書かれていることの整理である。以下、素人ながらの考えることを記す。
心神喪失といっても、心身の病気や障害と、ドラッグの依存症によるもの、そして、飲酒によるものなどは区別されるべきだろう。セクハラをしたと訴えられた者が、酒に酔っていたのでまったくわからないということは、事実としてそうであったとしても、だから責任がないと考える人はほとんどいないだろう。飲酒すれば意識をかなり低下させることは、自分で自覚できることであり、飲酒することによって起きる事態に対する責任があると考えられるからである。ドラッグも同様だろう。しかし、依存症になっている場合はどうなのだろうか。依存症は病気であると考えると、治療が必要である。治療をせずに犯罪に至ったら、責任があると考えるのが、飲酒と同じであると考えてもよい。治療中である場合はどうなのだろうか。
精神疾患はどうなのだろう。被害妄想のある統合失調症の場合、まわりの人間が自分に危害を加えようとしているという意識に囚われ、反撃しないと自分が殺されると思って、まわりの人間を傷つける、最悪の場合殺害してしまうことがあるそうだ。この場合、当人にとっては「正当防衛」になる。
さて、多くの人に納得できないのは、次のことだ。裁判になって無罪になった場合、現在の法律ではだいたい医療施設に入ることになっている。どの程度の治療がなされるか、あるいはどの程度の回復で退院させるのかは、かなり心もとない状況にあるようだが、とりあえず、入院措置がとられるが、不起訴になった場合には必ずしもそうではない。しかも、心神喪失、心神耗弱とされる90%前後が、不起訴になる。そうすると、殺人を犯した人が、起訴もされず、治療も受けないまま野放しにされる可能性が小さくないことになる。では、社会は、そうした疾患をもつ者に治療を義務付けることはできるのだろうか。
話はずれるが、同じようなことは、学校でもしばしば大きな問題となっている。子どもが精神的な障害をもっている場合に限らず、保護者が精神的な疾患をもっていると考えられる場合がある。親子でそうである場合、子どもは学校で問題行動とされる行為をすることが多いし、また、親と相談しても、適切な対応を親がとることは少ない。教師や保健の教師が精神科にかかるべきだと考えても、それを勧めること自体がなかなか難しい。勧めると怒ってしまうことも少なくないのである。また、保護者が診察を受けたり、子どもに受けさせたりしたとしても、その結果を学校に知らせる義務はないから、保護者が知らせない限り、学校は知ることができない。だから、有効な対策をとることも難しい。そうしたジレンマに悩んでいる学校は少なくない。
以前、スウェーデンの精神疾患用の救急車の話題で触れたが、精神的な問題を抱えて、問題行動を起こしても、警察を呼ぶことに抵抗がある。そのために、そうした救急車があれば、実質的に治療を受ける状態にもっていくことが、より可能になるだろう。このような社会的システムを構築していくことによって、精神障害・疾患をもった者の犯罪を抑制することは可能だろう。
最後に、何故、意思が伴わないと犯罪ではないのかという問題だ。私は、率直にいって、よくわからない。つまり、今のところ、完全に納得することができない理屈だ。
まず、殺人を「考える」ことは、犯罪ではない。それを「実行」したときに、殺人罪になる。つまり、問題は「行為」である。現在の刑法理論には、一般的には、より恐ろしい事態が、刑罰が軽いという例がいくつかある。これもそのひとつである。「あいつを殺してやる」と考えて行われる「殺人」よりも、だれか殺そうと思ってではなく、なにかわからないが人を殺してしまうということがあるとすれば、その方が恐ろしい。明確な意図による殺人であれば、対象は限定されているが、そうでない場合には、誰でもが対象になりうるからだ。
これは、「計画的」であるかどうかという判断も同様だ。「計画的殺人」のほうが罪が重いとされる。しかし、前の例と同様に、無計画の殺人のほうが、一般的には恐ろしいはずである。
結局、無計画殺人や意図なき殺人をするというのは、精神的な問題を抱えていると考えられる。とすれば、「事前の治療」のシステムが、構築される必要があるという結論にやはり行き着くのではないか。