アメリカとイランの関係が、極めて危険な状態になっている。そして、多くの人が指摘しているように、これは昨今始まったことではなく、長い対立の歴史がある。そして、ネットで専門家と思われる人の解説記事が多数載っているが、多くは、誤解を生むような内容になっているのが気になる。それは、アメリカとイランの対立が、ホメイニによるイラン革命、そしてその後直ぐに起きたイラン人の一部によるアメリカ大使館の選挙と人質事件から始まっているような記述である。もちろん、そうした事実があって、アメリカとイランの対立が激化したという指摘は間違いではないが、それ以前の重要な対立を無視している点で、誤解を与えるものだ。
20世紀になって石油が重要な資源であることが発見され、現在の中東地域がそれまでとは格段に異なる意味あいが生じた。そして、この地域は長くオスマントルコ帝国と西欧列強の対決が続き、第一次大戦後のオスマントルコの崩壊によって、一気に西欧列強の支配が優位になる。そして、石油採掘の作業が、西欧の企業によって進められることになった。そして、そこから生じる利益は、西欧企業がほぼ独占したわけである。
第二次世界大戦は、更に民族独立の機運を高め、いくつもの国が誕生していった。イランは植民地になったわけではないが、第一次世界大戦前後から西欧列強やソ連の干渉に晒されていた。1926年に成立したパフラビ王朝もそうした干渉を完全に追い払うことはできず、混乱が続いていたが、第二次大戦後には、民主的な選挙が行われ、モサデクが首相となった。その後の対米対立は、このモサデク政権から起きたわけである。そして、この解釈が現在でも完全にふたつに分かれている。
それまで完全に利益を独占していたアングロ・イラニアン石油会社に対して、その利益をイランにも分配するようにモサデクは交渉を始めた。当初は、あくまでも利益の分配だったとされており、その割合等は明確ではないが、アングロ・イラニアンの方は、ほとんど問題にもしない、つまり、交渉の余地を認めなかったために、モサデクを国有化という強攻策にでる。これは、その後独立した資源保有国のいくつかで生じた事態でもあった。「資源は誰のものかか」という、大きな政治問題を孕んだ対立だった。
CIAを描いたドキュメンタリー映像があるが、そのなかで、当時のCIA要員だった人が、モサデクのことを「強欲のとんでもないやつだった」と回顧している場面があるが、多くのアメリカ人にとっては、そういう記憶なのだろう。なにしろ、莫大な富を生む石油採掘の施設を接収されてしまったのだから。そこで、アメリカはイギリスと図って、モサデク政権を転覆させ、パフラビ王の独裁体制を支援することになる。パフラビ王の政府は、完全にアメリカよりの政策をとり、反対者を激しく弾圧した。それに対する反発としてホメイニによるイラン革命が起きるわけである。アメリカ大使館事件は、ホメイニが指示したわけではないが、やがて支持するようになり、その後の両国の関係を決定的に対立的なものにした。西アジアに関わる政治的対立、紛争のほとんどでこの両国は、背後で対立する。
最初に紹介したような対立の図式だと、とにかくホメイニ革命とその後のアメリカ大使館占拠事件が、両国の対立の発端であるかのように印象づけるが、実は、この対立は発端ではなく、ひとつの経過点であるに過ぎないのである。したがって、考えねばならない論点は、次のようになる。
第一に、モサデクの行ったアングロ・イラニアン石油会社の国有化をどう評価するか。
第二に、モタザク追放後のパフラビ王朝も、イラン革命後のホメイニも、対象が異なるにせよ、弾圧政策をとったが、それぞれをどう評価するか。
第三に、イランは戦後は「選挙」が行われ、選ばれた首相、大統領もかなりの政治的相違があったが、このイランの体制の評価。
第四に、こうした対立をなんとか乗り越えようとしたオバマによる「イラン核合意」とそれを一方的に廃棄したトランプの評価等である。
他にも、湾岸戦争、アフガン戦争、イスラム国等で果たしたイランの役割も評価の分かれるところだろう。ここですべてを論じることはできないので、まずは、第一の問題について考えてみたい。
ここまで書いて朝食を食べていたら、いきなりイランによるイラクの米軍基地のミサイル攻撃の報道がテレビで流れた。その後いろいろなチャンネルを見ていると、イラン側も認めているということなので、今後の展開が極めて危険だ。
今日はニュースに釘付けにならざるをえないので、とりあえずこれをアップして、今後の動向を見守ることにする。