読書ノート『レコードはまっすぐに』ジョン・カルショー

 かつてのレコード会社デッカの伝説的な名プロデューサーのジョン・カルショーの自伝『レコードはまっすぐに』を大急ぎで読んだ。レコード会社内の複雑な人間関係や、制作をめぐる経営者との駆け引きなどが、生々しく書かれているが、そういう点にはあまり興味がないので、私のように音楽に興味をもって読む人間には、同じようなドタバタが繰り返されているような印象しか残らない。興味をもって読んだのは、有名な音楽家のレコーディングの様子やそこでの「事件」だった。特に、印象的なものを記しておきたい。
 今は比較的注目されていれば、国際的に有名ではなくても、CD録音されて市販されるが、LPレコードのころまでは、やはり、相当な知名度がないとレコーディングの機会はなかった。だから、1970年代くらいまでに録音され、かつ今でも現役のCDとして市場に出ているような音楽家は、本当に優れたひとたちだったといえる。そして、そういうひとたちの録音にかける意気込みは、非常に厳しいものがあると、まず感じる。もちろん、カルショーはそれを常に積極的に評価しているわけではなく、かなり皮肉を込めて書いている場面もある。

読書ノート『密告される生徒たち』佐藤章

 昨日に続く佐藤章氏の著作だが、これは、学校現場を取材した記録である。表題でわかるように、前半は、学校教育からドロップアウトした生徒たちが主に扱われている。取材したのが、1983年から84年なので、経済的には、日本が最も上り坂の時代で、アメリカをも脅かしていると思われている時代にあたる。1970年代半ばからの石油ショックからいち早く抜け出した日本が、なかなか抜け出せなかった欧米を尻目に、経済を拡大していたのがこの時期だが、学校現場は管理主義で様々な問題を抱えていたのである。1970年代に学校紛争の煽りをうけて、中学や高校までが荒れていた。そして、教師に対する暴力なども頻繁に起きたのだが、それを力で押さえつける管理主義が学校を覆うことになった。そして、それまで、いかに生徒に問題があろうとも、生徒を警察に差し出すようなことには、躊躇があった学校が、警察と協力する以上に、むしろ、生徒を警察に通報して逮捕させるような事態も生じるようになっていた。その時期の学校や、学校からはみ出してしまった少年たちを取材したのが本書である。「密告」という表題は、教師が生徒を警察に密告するという意味で使われている。

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読書ノート『職業政治家 小沢一郎』佐藤章

 最近、「一月万冊」というyoutubeをよくみるようになったが、比較的新しく参加した佐藤章氏の著作である。「一月万冊」でも、佐藤氏出演の回は、アクセスが多いそうだが、硬派のジャーナリストである氏の発言は確かに重みがある。それで、遅ればせながら、氏の書いた『職業政治家 小沢一郎』という書物を読んでみた。小沢一郎という政治家の清廉潔白であること、きちんとした政治的信念をもっていること、その信念を実現するために、突き進むエネルギーをもっていること、等々は、小沢の優れた側面を認識することはできた。しかし、これまでもっていた小沢に対する疑問については、まったく解明されることなく、不満が残ったままの著作であった。
 小沢は、初めて非自民党政権を打ち立て、その実質的中心メンバーとなった。そして、従来の念願であった政治改革の重要な政策を実現する。小選挙区制度と政党助成金である。
 小沢によれば、民主主義を実現するためには、政権の交代が必要であり、そのためには、それまで実施されていた中選挙区制度では不可能であって、民主主義の代表的な国家であるイギリスの制度に習って、小選挙区制度を導入する必要がある。そういう理屈だ。しかし、私はそれに同意することはできない。

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読書ノート『政治家の覚悟』菅義偉

 政治家の本は、これまでほとんど読んだことがないが、やはり、総理大臣になったひとが、何をどのように考えているのか、知る必要があると思い、Kindleで購入できるので、読んでみた。おそらく、ゴーストライターが書いた文章だろうが、非常に読みやすく、菅首相の考えや発想法がよくわかる。そして、わかると同時に、このひとは、やはり権力主義者なのだということと、彼の政策は、個別領域のなかでの発想に留まっており、体系性とか、論理一貫性はないのだということが、よくわかる。もちろん、個別政策の中では、なるほどと納得できるものもあるが、いろいろと疑問がおきるものが多い。

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読書ノート『原節子の真実』石井妙子

 石井妙子氏の『女帝小池百合子』がとても面白かったので、ついでに『原節子の真実』も購入していたのだが、私はあまり映画をみないので、しはらく放置していた。しかし、気が変わって読んでみたのだが、非常に面白かった。原節子の映画が見たくなったわけではないが、戦前から戦後への移行期に表れた映画界の人間模様や、そのときの原節子の生きざまが、かなり筋の通ったものであったことを知り、日本社会の在り方を考える上でも参考になると思った。
 他方、私は、まったく原節子という女優について知らないままだったので、世間の定説などにはまったく囚われずに読んだ。例えば、原節子は、40歳くらいで、まったく誰にも知らせることなく、引退をして、その後まったく公開の場に現れず、隠遁生活をしたのだそうだが、そのきっかけが、小津安二郎が亡くなったからだというのが、多くの人の見方だったようだ。しかし、石井妙子氏は、その考えをまっこうから否定する。定説に親しんでいたひとには、ショックが大きいようだが、逆に私は、読んでいて、小津と原に関する、石井氏の描き方には、多少疑問をもった。それはあとで触れよう。
 原節子は、本名会田昌江というのだそうだが、かなり裕福だったが、没落した家(といっても、かなり貧しいというようでもなかったようだ)の大家族に生まれた。非常に成績がよかったが、レベルが高く入りたかった高等女学校の試験の日に体調をくずしていて、不合格になり、不本意な私学にはいったが、経済的なこともあり、義兄に誘われて映画の世界にはいった。14歳のときだ。そして、結局、このかなりファナティック義兄とずっと行動をともにする。

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読書ノート『デカブリストの妻』ネクラーソフ

 トルストイの『戦争と平和』は、当初デカブリスト(十二月党員)のことを書くつもりだったことは、既に書いた。そして、最初の草稿が、ピエールとナターシャという、『戦争と平和』の事実上の主人公である二人が、シベリア流刑から戻った場面から始まるものだった。もちろん、流刑に処せられたのは、夫のデカブリストだけだから、妻であるナターシャは、必要もないのに、極寒の地、しかも、非常に遠方のシベリアに、あとを追いかけて行ったのである。橇で4000キロをいくというのは、気がとおくなるような苦行だ。もちろん、贅沢な生活をしている貴族であるのに、それを捨てていくのだから、まわりは懸命にとめたに違いない。どういう風に、彼女らは出かけたのだろうか。それを描いたのが、ネクラーソフの『デカブリストの妻』である。ネクラーソフは、ロシアの詩人で、ドストエフスキーに高く評価されたという。

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読書ノート「十二月党員」(トルストイ)

 トルストイの「十二月党員」は未完の小説の第一章で、しかも書き直しが複数ある。トルストイ全集3巻(河出書房新社)には、3編が収録されている。
 『戦争と平和』を先日読み終えて、高橋精一郎氏による、最終巻の解説を読むと、『戦争と平和』が最初デカブリスト(十二月党員)を描くことから構想し、次第に時代を遡って、ナポレオンとの戦争にまで至ったという話は、既に知っていたが、デカブリストを描いた断片があり、その部分は、流刑から戻ったピエールとナターシャ、そしてその子どもたちがモスクワに宿をとる部分であると書かれていた。『戦争と平和』の最後の部分では、ピエールがペテルブルクに出かけて、政治的な結社の仲間と相談して帰宅した場面が描かれている。予定を過ぎてもピエールがなかなか帰らないので、ナターシャがいらいらしている。たまたまそこに、昔ナターシャにプロポーズしたデニーフソが滞在していて、昔の生き生きとして魅力的だったナターシャの姿とは全く違うので、驚いているのだが、ピエールが帰った途端に、昔のナターシャに戻ってしまうという場面がある。そして、そのあと、みんなが楽しみにしていたお土産が配られ、そして、ペテルブルクでの話が若干語られる。しかし、具体的なことは明らかにされないのだが、何となく、やがてデカブリストとして登場する人たちのことだと想像されるように書かれているのである。その後、アンドレイ侯爵の息子が亡き父を思う場面で物語は終了してしまう。そして、トルストイの戦争論がながながと展開されることになる。

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読書ノート『戦争と平和』トルストイ4 マリヤとソーニャ

 トルストイは女性の描き方が非常にうまかったと言われている。確かに、『戦争と平和』には、多数の女性か登場する。一般的に最も魅力的な女性としてナターシャがいるわけだが、私は、違う女性の描き方に興味をもっている。それは、アンドレイの妹のマリヤと、ナターシャの従姉妹のソーニャである。この二人は、あらゆる面で異なっている。しかし、最終的には、同じ屋敷内で生活することになる。
 マリヤは、トルストイの母親がモデルであるとされ、どこまで似ているのかはわからないが、しつこいほどに強調されているのみ、容貌が醜いという点である。

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読書ノート『戦争と平和』トルストイ2

 『戦争と平和』には、たくさんの人が登場し、主人公ともいうべき人物も複数いる。その中で、最初の場面から登場し、最後まで重要な役割を果たしつつ、最終の場面でも活躍しているのは、ピエールのみである。そして、『戦争と平和』は、このピエールの成長を描いた小説という側面が非常に強い。というのは、トルストイが最初に構想したのは、「デカブリスト」だったのだが、そこでの主人公がピエールだったのである。デカブリストというのは、1825年におきた一種の反乱で、農奴制などの封建的な抑圧の酷かったロシアに、リベラルな政策を求めた反乱だった。そのなかに、トルストイ一族の人がいたということで、トルストイは興味をもったのだが、やがて、その人物たちの過去にさかのぼって、1812年のナポレオンのロシア侵入を中心のテーマにしたという経緯があった。とすると、1805年の物語の始まりから、1825年のデカブリストの反乱、そして、流刑、帰還という長い期間の物語に、ピエールは関わっているわけだ。訳者の高橋氏によると、『デカブリスト』の草稿では、ピエールとナターシャが流刑地から帰ってくるところから、物語が始まっていたという。ナターシャは、全く非政治的人間だから、当然デカブリストの反乱に参加していはおらず、夫の流刑にどうしてもついていくと主張して、流刑をともにした夫婦という想定だったと想像される。もしかしたら、ナターシャの政治意識の成長も描かれていたのかも知れない。『戦争と平和』の最後の場面は、ピエールがサンクトペテルブルクに出かけて、政治的グループと相談をして帰ってくる場面である。そこで、ピエールは政府の批判を繰り広げる。それは、明らかに、将来のデカブリストの乱への参加を匂わせているのである。
 このように、トルストイが最も深く描こうとしたは、やはりピエールである。そして、ピエールは、何度も人間的、思想的に変遷する。

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読書ノート『戦争と平和』トルストイ1

 前に、ソ連版映画『戦争と平和』の感想を書いたが、あの時期をはさんで、小説そのものも読み返していた。そして、最近読み終えた。たぶん5度目くらいになる。若いころ、読み始めたときに、『戦争と平和』は、人生の節目に、何度か読み直すとよい、と言われたが、確かにそう思う。今回は、ゆっくり、じっくり読もうと思って、少しずつ進み、時間をかけたので、これまで読みとばしていた部分をずいぶん意識し、また、そういうところに面白さが隠れていることがわかった。また前回までは、辟易していた、そして、アマゾンのレビューでも多くの人が指摘している、トルストイ独自の戦争論の部分も、じっくり読んでみた。
 トルストイの戦争論の部分は、ほとんどの人が、訳わからないという感想をもつ部分だし、また、繰り返しが多く、正直、私も辟易するものを感じる。しかし、また、トルストイは、ここが本当に書きたかったのだろうなあとも思うのである。もしかしたら、トルストイは歴史学者になりたかったのだろうかなどと思ったりもする。それほど熱がはいっている。
 ただ、主張していることは、比較的単純である。それは、戦争が起きる原因は、英雄とか、国家の指導者とか、思想家とか、戦略家とか、そういう影響力のある人物が、命令したり、そうするのがよいと働きかけて、それに兵士たちが、動かされて戦争が起きるのではない。実際に、ナポレオンが命じたことなどは、実はほとんど実行されなかったのだというのである。では、何が、戦争を、または、戦争にむけて兵士たちが移動していくことを引き起こすのか。それは、民衆一人一人が、何かにかられて動いていく、そのなかには、確かに政治指導者の意志もあるだろうが、そういう個々の力の総体として、また偶然なども重なって、戦争が起きるのだというのである。しかし、トルストイの「論文」のような文章を読んでも、ああなるほど、と納得のいく人は、ほとんどいないに違いない。個々の民衆の意志の総体といっても、それは言葉の遊びのようにも見える。

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