今や一月万冊の常連として有名な東大教授の安富氏の本来の研究分野である満洲問題を、一般向けに講演した内容をもとにした著書である。満洲の専門家であるとともに、「立場主義」を批判する著者が、このふたつを結びつけて、実は日本人にあまり知られていない満洲事変から満洲国設立、そして崩壊をわかりやすく説明している。
詳しい紹介は省き、感想のみ書いておきたい。
満洲国は、関東軍の暴走として語られるが、安富氏の問題意識は、なぜ暴走が起きるのかという点にある。それは、ポジティブ・フィードバックが想像もできなかったような爆発的な結果をもたらすという。原因が結果を生み、また結果が原因に作用して拡大していく。これをフィードバックと呼ぶが、これが連関してしまうのがポジティブ・フィードバックだ。満洲での例では、鉄道の発達が馬車用部材の流通を効率化、すると馬車が発達、馬車を利用して、ヒトとモノが鉄道に集中し、更に鉄道が発達。そして、その循環によって、爆発的に鉄道、馬車、モノ、ヒトの移動が発達するというわけだ。 “読書ノート『満洲暴走 隠された構造 大豆・満鉄・総力戦』安富歩 角川新書” の続きを読む
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読書ノート『同調圧力 日本社会はなぜ息苦しいのか』鴻上尚史・佐藤直樹 講談社
同調圧力は教育学的にも、極めて重要な概念であり、「克服の対象」と考えられている。しかし、学校現場では、同調圧力を積極的に利用して、生活指導をしているところが多い。この本は、日本社会の息苦しさの原因を、同調圧力に求め、同調圧力を生んでいるシステムを「世間」と規定して、世間と社会の違いを日本と外国(欧米)の比較を通して分析している。対談なので、かなりラフな議論をしているところが少なくないのが不満だが、興味をもって読んだ。しかし、読み終えて、かなりの不満が残った。私は「愛国者」ではなく、欧米の教育研究者だから、こうした比較的手法を自分で行うが、このような「日本」は問題だらけ、「欧米」はよりレベルが高い、式の議論には、どうもついていけないというか、おかしくないかと感じてしまう。そして、この手の議論は、たいてい、欧米についての大きな誤解が散見されるのだ。 “読書ノート『同調圧力 日本社会はなぜ息苦しいのか』鴻上尚史・佐藤直樹 講談社” の続きを読む
読書ノート『「いろんな人がいる」が当たり前の教室に』原田真知子(高文研)
歳をとると、本を読んでもあまり感動しなくなってきたのだが、この本は、とても感動した。教育実践録としては、津田八州男氏の『五組の旗』以来だ。原田氏は、神奈川県で小学校教師を30数年勤めたあと、定年退職しているが、この本は、これまで雑誌などで発表してきた素材をもとに、実践の集大成としてまとめたような感じだ。こんな小学校の教師がいるのかと、正直驚いた。
これほど優れた教育実践書は、滅多にないので、教師のあり方を考えたい人には、ぜひ読んでほしい。
神奈川県のどういう地域で教師をしていたのかはわからないが、出てくる話は、とにかく、手をつけられないと多くの教師や親が考える子どもを、たくさん抱えて、彼等とコミュニケーションをとりつつ、子どもたち同士の繋がりを、通常のクラスよりもずっと強固なものに形成していく話である。しかし、そういう実践が、すんなりいくはずもなく、どの話も、苦労の連続で、暗中模索のなかで、子どもたちと一緒に考えて、なんとか改善しようという姿勢で貫かれている。
どんな優れた実践であっても、表面的にそれをまねることなどはできない。そして、原田先生も、最初からうまくいったわけではなく、また、ベテランになっても、それまでいじめられたり、教師に不信感をもっている子どもたちを、直ぐにまとめられたわけではない。悪戦苦闘を繰りかえして、次第に子どもたちを集団としてまとめていったわけである。その基礎には、全生研の民主主義的学級と班作りの理論があることが、随所でわかる。
読書ノート『私は親に殺された! 東大卒女性医師の告白』小石川真美(朝日新聞)
なんとも刺激的な題名だが、実際に親に殺されたわけではない。38歳で、なんとか親との絶縁宣言ができた著者が、それまでは、親に支配され、そのために、重篤な精神疾患に罹患し、何度も自殺未遂を図った記録である。確かに、すさまじい親による精神的虐待であるが、(父親からは数回の身体的暴力もあったことが書かれているが)母親からすれば、納得のいかない内容であるかも知れない。著者の側からの真実ということになるのだろう。
単なる読者としては、そんな人生ってあるのかと思うようなことが、ずっと続いている。
読んで、多くの人が不思議に感じるに違いないことは、東大の医学部を卒業した医師であるにもかかわらず、コンプレックスに苛まれ、それ故にこそ、様々な奇行というか、愚行というか、常人には考えられないような行動をしばしばとっていることである。最初に出てくることは、運動が苦手な著者が、小学校1年生のとき、逆上がりをする体育の時間に順番が回ってきたとき、先生が「真美ちゃん、この間、放課後2人で練習したときはできたじゃない。頑張って。」といって、励ましてくれたのに対して、「私、逆上がりなんか一度もできたことない。先生の嘘つき」と皆の前で叫んだという。その結果、その教師は、母親のところにやってきて「真美ちゃんは末恐ろしいお子さんですね」と怒鳴ったというのである。普段から、母親が「嘘は絶対にいけない」と教えてきたから、先生が嘘をいうことに対して許せなかったという気持ちだった筆者に対して、母親は、「せっかく先生が思いやりでいってくれたのに、先生を嘘つき呼ばわりするなんて、なんて子なの」と叱りつける。嘘をつくなと教えてくれた母親に、正直だったことを誉められるかと思いきや、先生におもねって自分を叱りつける母に萎縮してしまう。
チェリビダッケはレコード嫌いだったのか 井阪氏の見方
前にチェリビダッケについての文章を書いたが、(チェリビダッケのリハーサル1~3 http://wakei-education.sakura.ne.jp/otazemiblog/?p=1386 http://wakei-education.sakura.ne.jp/otazemiblog/?p=1396 http://wakei-education.sakura.ne.jp/otazemiblog/?p=1402)井阪紘氏の『巨匠たちの録音現場 -カラヤン、グールドとレコード・プロデューサー』(春秋社)を読んで、意外な評価だったので、再度考えてみた。
本の題名には、2人の固有名詞が書かれているが、実はチェリビダッケも扱われている。録音芸術の巨匠だったカラヤンを別格として大きく扱い、更に、録音を完全に拒否したチェリビダッケと、生演奏を拒否して、録音だけの活動に入り込んだグールドを対照的な演奏家として、分析しているわけだ。そして、付録のような形で、有名な録音プロデューサーだったジョン・カルショーを加えている。著者は、録音プロディーサーということなので、実際に経験した彼等の録音活動を扱っているのかと思ったが、扱われている事実は、ほとんどが文献によるもので、それらの読み方に、実際の録音プロデューサーとしての分析を加えた形になっている。したがって、新しい事実を教えられたということは、ほとんどなかった。
読書ノート『教育を拓く』序章 堀尾輝久
序章の部分のみの考察をする。特に、国民の教育権論の部分だ。堀尾氏は、国民の教育権論の最も代表的な論客であり、その象徴的存在であった。そして、本書でも、国民の教育権論を擁護している。私自身も、国民の教育権論の支持者であるが、現状認識において相当な違いがある。そして、私自身の最も重要な自身の課題としているのが、国民の教育権論の再構築であるので、堀尾氏の検討は、避けて通ることができない。
私は、国民の教育権論が、1980年代から90年代にかけて、完全にその力を喪失したと解釈しているのだが、その原因について、堀尾氏は一貫して、それを書いていない。新自由主義政策に圧迫されてきたという立場であろう。だから、新自由主義的な教育権論に対して、国民の教育権論を対峙していることになる。だから、ここでは喪失の原因ではなく(それは佐貫論の検討として行う。)堀尾氏の論理が、新自由主義的な自由論や公共性論に有効であるかを検討する。
読書ノート『レコードはまっすぐに』ジョン・カルショー(続き)
この本を読みたいと思った最大の理由は、やはりカラヤンの録音エピソードが豊富にあるということだった。確かにたくさん出てきて面白い。ただ、カラヤンのものすごい音楽的・指揮能力を認めつつも、かなり皮肉を交えている。例えば、カラヤンはオーケストラを自由に操れるので、気に入った歌手には、歌いやすくバックアップするのだが、気に入らない歌手の場合には、(とりあえず練習中のこととして書かれているので、本番でもそうしたかはわからないだが)オケを大きく鳴らして声を聞こえにくくしたり、あるいはブレスをする必要があるところ、あまりその間をとらずに先にいってしまったりするというのだ。つまりいじわるをする。カラヤンに気にいられている歌手たちのインタビューで共通に語られているのは、カラヤンの指揮だと本当に歌いやすいということだが、こういうこまかい配慮をきちんとやってくれるからなのだろう。昔のテレビ番組で、日本の代表的な指揮者の一人である岩城宏之氏が、カラヤンの指揮テクニックはプロからみてもすごいといっていたが、そうなのだろう。ライブの「トロバトーレ」を聴いていると、歌手たちがゆっくりしたり、あるいは思い切り延ばしているのに、しっかりとオケを合わせていく。ところがある歌手に対して、オケの音を抑えずに進めていたのに対して、カルショーは、カラヤンはあの声が嫌いなのだと断定している。残念ながらその歌手が誰であるかは書いていない。
読書ノート『レコードはまっすぐに』ジョン・カルショー
かつてのレコード会社デッカの伝説的な名プロデューサーのジョン・カルショーの自伝『レコードはまっすぐに』を大急ぎで読んだ。レコード会社内の複雑な人間関係や、制作をめぐる経営者との駆け引きなどが、生々しく書かれているが、そういう点にはあまり興味がないので、私のように音楽に興味をもって読む人間には、同じようなドタバタが繰り返されているような印象しか残らない。興味をもって読んだのは、有名な音楽家のレコーディングの様子やそこでの「事件」だった。特に、印象的なものを記しておきたい。
今は比較的注目されていれば、国際的に有名ではなくても、CD録音されて市販されるが、LPレコードのころまでは、やはり、相当な知名度がないとレコーディングの機会はなかった。だから、1970年代くらいまでに録音され、かつ今でも現役のCDとして市場に出ているような音楽家は、本当に優れたひとたちだったといえる。そして、そういうひとたちの録音にかける意気込みは、非常に厳しいものがあると、まず感じる。もちろん、カルショーはそれを常に積極的に評価しているわけではなく、かなり皮肉を込めて書いている場面もある。
読書ノート『密告される生徒たち』佐藤章
昨日に続く佐藤章氏の著作だが、これは、学校現場を取材した記録である。表題でわかるように、前半は、学校教育からドロップアウトした生徒たちが主に扱われている。取材したのが、1983年から84年なので、経済的には、日本が最も上り坂の時代で、アメリカをも脅かしていると思われている時代にあたる。1970年代半ばからの石油ショックからいち早く抜け出した日本が、なかなか抜け出せなかった欧米を尻目に、経済を拡大していたのがこの時期だが、学校現場は管理主義で様々な問題を抱えていたのである。1970年代に学校紛争の煽りをうけて、中学や高校までが荒れていた。そして、教師に対する暴力なども頻繁に起きたのだが、それを力で押さえつける管理主義が学校を覆うことになった。そして、それまで、いかに生徒に問題があろうとも、生徒を警察に差し出すようなことには、躊躇があった学校が、警察と協力する以上に、むしろ、生徒を警察に通報して逮捕させるような事態も生じるようになっていた。その時期の学校や、学校からはみ出してしまった少年たちを取材したのが本書である。「密告」という表題は、教師が生徒を警察に密告するという意味で使われている。
読書ノート『職業政治家 小沢一郎』佐藤章
最近、「一月万冊」というyoutubeをよくみるようになったが、比較的新しく参加した佐藤章氏の著作である。「一月万冊」でも、佐藤氏出演の回は、アクセスが多いそうだが、硬派のジャーナリストである氏の発言は確かに重みがある。それで、遅ればせながら、氏の書いた『職業政治家 小沢一郎』という書物を読んでみた。小沢一郎という政治家の清廉潔白であること、きちんとした政治的信念をもっていること、その信念を実現するために、突き進むエネルギーをもっていること、等々は、小沢の優れた側面を認識することはできた。しかし、これまでもっていた小沢に対する疑問については、まったく解明されることなく、不満が残ったままの著作であった。
小沢は、初めて非自民党政権を打ち立て、その実質的中心メンバーとなった。そして、従来の念願であった政治改革の重要な政策を実現する。小選挙区制度と政党助成金である。
小沢によれば、民主主義を実現するためには、政権の交代が必要であり、そのためには、それまで実施されていた中選挙区制度では不可能であって、民主主義の代表的な国家であるイギリスの制度に習って、小選挙区制度を導入する必要がある。そういう理屈だ。しかし、私はそれに同意することはできない。