研究者になりたい学生への対応 神戸大学の処分から

 神戸大学のハラスメントによる懲戒処分の記事が複数あった。しかし、内容が多少異なり、かつ、複数の教師が対象になっているので、正確な事実関係がわからないが、不正確でも、そういうことが、もしあったのなら、という仮定でも十分に考える必要がある。
 
 まず、「「神戸大准教授、複数の学生に「お前みたいな成績悪いやつが」…別の准教授は職務放棄発言」」という読売新聞の記事だ。
 この記事では、ゼミに所属していた学生に、「私の能力では博士課程修了まで指導はできない」といって、学生が志望の変更を余儀なくされたとし、また、この学生に、「他の学生の成績を見せた」としている。この教師は4カ月の停職処分になったという。しかし、別の記事では、事実関係が異なって書かれている。

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チャットGPTを使ってみた 学校で利用できるか

 話題になっているチャットGPTが、羽鳥モーニングショーで取り上げられていて、なかなか興味深かったので、考えてみた。解説者によると、産業革命以来の大きな社会変革がもたらされるという。AIは確かにそのように言われていたが、いよいよその実感を伴う変動が置きつつあるということか。実際の感覚を掴むために、早速使ってみた。
 教育を専門にしてきた者としては、学校現場への影響がまず考えざるをえない。
 学校で生徒が利用するとしたら、調べ物をすることと、レポートを書くこと、更に、作文、特に英作文には活用できそうだが、問題は「調べる」「レポートを書くこと」についてだろう。
 「調べる」については、かなり精度が低いように感じた。以下は、桶狭間の闘いについて質問してみた回答である。最初の回答が明らかに間違っているので、その訂正を求めたのが後半である。

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五十嵐顕考察5  マルクス・エンゲルスの教育論1

 五十嵐顕氏の研究者としての業績の柱をまとめると
・マルクス主義教育論
・教育財政論
・民主教育論
・戦争体験と戦争反省
 今回は第一のマルクス主義教育論の理解と継承を考えてみたい。しかし、直接マルクスの教育論を分析した論文は比較的少ない。著書の『マルクス主義の教育思想』でも、マルクスとエンゲルスの教育思想を分析した文章は「序文」だけで、本文はレーニン、ルナチャルスキー、クララ・ツェトキンの思想とソビエトとドイツ共産党が扱われている。本書の出版が1977年であり、収録の論文はすべて1960年代と70年代のものだから、マルクス・エンゲルス、ツェトキン、レーニン、ルナチャルスキー、クルプスカヤ等が、同一の土壌の思想家として扱われていることは、時代的な背景があったといえる。しかし、今日再度こうした議論を検討する場合には、根本的に異なる「土壌」がある。つまり、ソ連を初めとする社会主義国が、ほぼすべて崩壊しているからである。ソ連崩壊後、社会主義者を名乗っていた人たちの多くが、引き続き社会主義思想を発展させる努力を継続していたようには思えない。そして、上記思想家は、発展プロセスにある一連の思想家として理解されていたが、現在では、スターリンほどではないにせよ、レーニンもかつての社会主義者からも批判の対象になっているし、相互の相違も、以前よりずっと強く意識されている。

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ITに反対の教師

 学校現場にIT化の波が押し寄せているが、それに対する批判的記事があった。
「紙の辞書なんてゴミ!」新聞、テレビが報じない教育現場DX化の残念すぎる実態。
【後編】「辞書なんてゴミ」「ババアは老害」定年間近の女教師を悩ませるIT化の怒涛。
 登場する教師は、高校の古典を教えていて、すべてノートは手書き、紙の辞書を活用する、等の伝統的な教育スタイルをとっているだけではなく、そうしない生徒を非難しているように感じられる。生徒全員に iPad が支給されるようになって、いかに混乱が起きているかを告発し、かつ、それを職場で訴えても、若い教師に一蹴されているという記事だ。更に、支給後いじめが頻発し、しかも加害者がほぼ全校生徒となったという告発がなされている。しかし、ある特定の生徒への誹謗文書が、簡単に全校生徒に配布されるのだろうか。もし、そうだとしたら、それは学校のネット運用に問題があるとしか思えない。

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藤井寺市の教科書汚職から考える、日本の教育水準の低下1

 大阪府藤井寺市の教科書選定をめぐる汚職で、市の教育委員2名が辞職することになった。2020年に、実施された選定での汚職で、元市立中の校長か懲役1年6月、執行猶予3年、追徴金6万4000円の有罪判決を受けている。便宜を図った側の大日本図書の取締役らも罰金命令を受けている。
 この事件について、伊東乾氏が、「藤井寺市の教科書選定「贈収賄事件」に透けて見える日本弱体化 教科書利権と「自虐的」数学教科書排除は焦眉の急」と題する文章をあげている。
 教科書採択をめぐる汚職は、明治時代から続いており、そのために国定になったり、検定になったりしているが、法で厳しく罰せられるとしても、特に現在の採択制度では、採択されないと、会社自体が倒産してしまう危険性が高いためもあり、こうした汚職は耐えない。だから、検定や採択をめぐる制度面での改変が必要なのだが、伊東氏が主に論じているのは、更に、教科書の水準が下がっていることの指摘と危機感の表明である。

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東京23区区の大学が、地方就職促進条件にIT関連の増設

 
 政府が、東京都内は一切の大学新設・増設・定員増を認めない方針であったのを変更して、デジタル関係のみ期限付きで認めることになったと報道されている。 
「東京23区内の大学、デジタル系学部の定員増を容認…IT人材育成へ政府方針」
 それには条件がついており、情報系学部・学科の定員増が対象で、一定期間後は元に戻す、地方の就職促進策を組み込むというものだ。
 こうした大学の学部管理は、文科省がかなり強権的に行なっているもので、その評価は単純にはいかない。確かに、大学全入時代になって、入りたい大学・学部は偏りがあるから、人気のない大学は定員まで学生が集まらず、それが長期的に続けば倒産とならざるをえない。人気のない、つまり社会的に要請されていないと見なされる大学は、潰れたほうがよいという考えもありうる。時代の技術革新についていけず、あいかわらず安い労働力でしか対応できない企業は倒産して、技術革新をして力を増したところに吸収されるほうが、全体としての経済力は高まる、だから弱体企業を救うべきではない、という意見は少なくない。

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五十嵐顕考察4 教育費を考える3

 五十嵐氏の教育費分類の2番目が、「社会的に組織された教育費」である。
 正直なところ、氏の「社会的に組織された教育費」という概念は、理解が難しい。それは、概念的な分類と歴史的な位置づけとが重なり合っているからである。
 特定の階級による教育費が、氏のいう「社会的に組織された教育費」であるが、これが、国家が関与するようになると「国家的に組織される教育費」つまり「教育財政」として扱われることになる。
 具体的に、あげられている「社会的に組織された教育費」としては、
・アメリカの town school, district school, イギリスの parish school
だが、これは、地域に限定された学校で、かつそれが国家的制度に組み入れられる前の形とされる。このような地域に限定された学校、しかも階級的性質を帯びているとされる学校を、様々な地域、国の状況を踏まえつつ、ひとつの概念にまとめることは、かなり混乱を招くように思われる。

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五十嵐顕考察3 教育費2 個別分散的教育費

 五十嵐氏のそれぞれの概念の中身を吟味しよう。
 まず個別分散的教育費だ。これは、家庭教師などの支払いが典型であるが、現代でも「授業料」として生きているとする。しかし、授業料は、確かに、個々人が支払うものだが、より背景的なことを考慮すれば、本質的に異なる授業料の種類がある。
ア 家庭教師への支払い
イ 塾への支払い
ウ 義務教育公立学校以外への授業料としての支払い
エ すべての学校において求められる(個別には求められない場合もある)教材費、制服、行事の費用(修学旅行、宿泊行事等)給食費等
オ 習い事の講師への謝礼
 アイオは、確かに個別分散的教育費というイメージと合致するが、ウとエは、ほぼ強制的に徴収されるものであって、サービスや物品にかかる税と似た者といってもよい。しかも、それは強制的に買わされるものだから、望まなければサービスを受けることもない塾への支払いなどとは、本質的に異なる。

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五十嵐顕考察2 教育費1

 五十嵐顕氏は、教育費の講義を担当していたため、教育費とは何かを突き詰めて考えていた。そして、教育費が貨幣の形をとることに、つよい拘りをもって、そこから出発していたように思われる。
 五十嵐論による教育費の分類は、
・個別分散的
・社会的に組織された教育費
・国家によって組織された教育費
という三つの組織形態によるものである。形としてはすっきりしているが、私は、この分類は、教育費の「教育学的分析」にはあまり有効ではないように、ずっと思ってきた。確かに、そうした分類は、外見的に分かりやすいし、統計的にも処理しやすいに違いない。しかし、形式と量の相違を示すだけで、それが教育にとって、どのような意味をもつかは、明確に示すことができないのではないかと思うのである。

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再論 学校教育から何を削るか18 教師の懲戒権

 学校教育法には、教師の懲戒権が規定されている。ただ、そのことによって、教師が具体的な仕事を押しつけられているわけではない。懲戒権を発動しない実践は可能であり、その場合、教師の労働が増大することはない。しかし、多かれ少なかれ、教師は法で規定されている懲戒権を行使しながら、授業をしている。そして、そのことによって、付随的な仕事が付加されてくるという仕組みになっている。
 こうした状況に対して、私は常々「懲戒権」は、学校の教職員としては校長のみに付与されるべきであり、一般教師にとっては、余計な規定だと思っている。教育は、あくまでも非権力的な営みであって、権力は不要である。もちろん、組織である以上、権力が必要となる場面はあるが、その権力は校長に一元化していること、逆にいえば、校長がしっかりと懲戒権を適切に行使すれば、教師は、懲戒などという教育的ではない要素を、実践のなかに持ち込まなくて済むようになり、より教育らしい実践が可能になるのではないだろうか。
 それは、結局、教師の過剰労働を軽減することにもなる。では、より詳しくみていこう。

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