学校における演劇教育を考える1

 日本の教育のなかで最も劣っているのが演劇教育だ。演劇は、音楽とか美術などと違って、人によって趣味が異なる領域というよりは、国語教育の一環なので、だれにも必要なことだが、日本では、整ったカリキュラムになっていないし、学習指導要領でも重視されてもいない。
 その理由は何だろうか。それには、日本の文化のなかに、演劇が歴史的に根付いていないことと、その反映として学校教育で軽視されているというふたつの側面を見る必要がある。
 
 まず、日本には、国民的な演劇作品、演劇作家が存在しないという事情がある。イギリスなら、シェークスピア、ドイツならゲーテやシラー、フランスならモリエール、ボーンマルシェ等々、主な西洋の国には、たいてい国民作家と言われるひとたちが、国民に普及している演劇作品を残している。江戸時代の後期に、芝居小屋ができて、ある程度人気を博していたが、その時期に国民的劇作家が生まれたわけでもなく、また今日でも上演されている著名が演劇が書かれたわけでもない。その時期に今でも継承されているのは、落語だろう。

“学校における演劇教育を考える1” の続きを読む

再論 学校教育から何を削るか14 いじめアンケート3

 では、このアンケートは、いじめの早期発見・早期解決に役にたつのだろうか。このアンケートの国家的元締めともいえる「国立教育政策研究所」の文書を読むと、そもそも、早期発見・早期解決は、アンケートの目的ではないと書かれているのである。
 
    教育政策研究所の「生徒指導リーフ」
    被害者や加害者の発見が目的ではない 誰が被害者か加害者かとは関係なく、いじめがどの程度起きているのかを定期 的に把握し、いじめが起きにくくなるような取組を意図的 ・ 計画的に行って、 その取組の成果を評価し改善するために「無記名式アンケート」を実施します。
     ・「早期発見」に役立てようと「記名式アンケート」を行っても、多くは「手遅れ」の 事例になります。なぜなら、いじめアンケートで得られる回答の多くは、過去 ( 年 度初めや夏休み開け以降などの一定期間 ) の経験だからです。
     ・現在進行中で、深刻な事例(第三者に相談できないようなもの)であるほど、「記名 式アンケート」には回答しづらいものです。記名式アンケートで訴えが出てきた事 例に対応していけばよい、といった姿勢では、深刻な事例ほど見落としかねません。
     ・いじめアンケートを実施する目的は、過去の経験率を知ること、そして今後どの程 度に起こりそうかを知ることにあります。そのためには、より正確な回答が得られ やすい「無記名式アンケート」を用いることが一番です。
 
 つまり、早期発見早期解決ではなく、いじめの傾向性の調査だというわけである。だから、国立教育政策研究所は、「無記名アンケート」を推奨している。現場の先生たちは、このことを知っているのだろうか。おそらく校長たちも知らないのではなかろうか。

“再論 学校教育から何を削るか14 いじめアンケート3” の続きを読む

再論 学校教育から何を削るか13 いじめアンケート2

 
いじめアンケートの目的と方法
 実は、いじめアンケートは法律で年3回実施することが義務付けられているが、内容は教育委員会や学校に任されている。だから、アンケートの内容、種類、回収方法、取り扱い方法などは、かなり多様なようだ。
 新聞報道によると、野田市の場合、アンケートには、「秘密は守ります」と書かれていたのだそうだが、すると、教育委員会にアンケートが保管してあり、教育委員会では内容が読まれるようになっていることになる。それは、「秘密」の範囲だとは、書いた人にとっては思えないだろう。学生たちと討論しているうちに、いろいろな疑問が生じてきた。

“再論 学校教育から何を削るか13 いじめアンケート2” の続きを読む

中学受験と宗教二世問題

 昨年、統一教会問題から、宗教二世という側面がクローズアップされた。日本では、宗教自体のなかから、宗教二世への、適切な対応のための改革が現れたことは、ないように思われるが、キリスト教の世界では、いくつかの例がある。再洗礼派は、その代表的な運動であり、弾圧されたが、現在でも、いくつかの教派に受け継がれているという。成人になってからの信仰の自覚と表明を、信者であることの必須条件とすることは、子どもに大人の信仰を押しつけないことを意味する。アメリカ移民当時の生活スタイルを保持しているアーミッシュも、18歳になったときに、共同体に残るか、外に出るかを、自由に選択させるそうだ。
 実態はどうかという問題はあるが、少なくともそうした考えが実行されていれば、宗教二世問題は生じない。

“中学受験と宗教二世問題” の続きを読む

保育園・学校での当たり外れ

 朝日新聞昨年の12月20日に「「保育園に当たり外れ、おかしい」 遺族が語る、虐待事件の根っこ」(田淵紫織)という記事が出た。具体的事例は省略するとして、注目したのは、以下の部分だ。https://www.asahi.com/articles/ASQDM3JD2QDGULEI00H.html
 
 「最近、各地で虐待などの問題のある保育が発覚しています。ただ、以前からこうした実態はあり、保育死亡事故にもつながっていました。藤井さんは、「根本的に『当たり外れ』が出てしまいかねない現状の保育制度がおかしい」と訴えます。」
 
 被害者としては、外れの保育園にあたってしまったという気持ちがあり、当たり外れのない状況をめざすべきであるという主張なのだろうか。しかし、人間に限らず、自然的な環境にしても、あたり外れにぶつかることはあり、まして、人間組織に関しては、100%あたり外れはあるのではなかろうか。

“保育園・学校での当たり外れ” の続きを読む

都立高校が校内で塾を

 12月26日の読売新聞に、「都立高が塾講師招き「校内予備校」開設へ…受講費用は都教委が負担、経済的格差減らす狙い」と題する記事が掲載された。
 経済的な事情で十分な受験対策ができず、進学や希望が薄く進路を諦める生徒を減らす狙いなのだそうだ。放課後や土日、長期休みに実施し、英語と数学中心で、費用は、都の教育委員会が負担する。今後、実施する高校と提携する予備校を選定するという。
 記事の最期に、有料で校内予備校を実施している都立松原高校校長の談話があり、教師たちは個々の受験対策まで手が回らない。学習塾の効果的な学習方法で学力をつけ、進学への意欲が高まっていると語らせている。短い記事だが、コメントも既に700を超えている。賛否両論という感じだ。高校の教師は効果的な学習をさせていないのか、という疑問は置いておこう。

“都立高校が校内で塾を” の続きを読む

再論 学校教育から何を削るか12 いじめアンケート1

 教師に過重労働を強いている要素として、たくさんの調査と報告書の作成がある。文科省や教育委員会からもたらされるそうした調査と報告は、拒否することは難しい。管理職が処理すれば、教師の労働がそれによって過重になることはないだろうが、多くが個々の教師に課され、報告書の作成も負わされる。教育実践に役に立つ調査であれば無駄ではないだろうが、単に行政的な観点からの調査などは、時間の浪費以外の何物でもない。特に、年3回義務つけられている「いじめアンケート」は、前後の検討も含めて、大きな負担を強いているだけではなく、いじめ対応を逆に難しくしてしまう側面もある。
 
 いじめ問題が、現在の日本の学校教育における最大の問題のひとつであることは、多くの人が認めるところだろう。学校に子どもを通わせている親は、自分の子どもがいじめられていないか、あるいは、いじめの加害者になっていないかを、不安に思っているに違いない。いじめによる自殺という、取り返しのつかない悲劇も引き起こす。いじめは、学校に限らず、また現代社会に限らず、どんな人間社会にも存在していただろうが、今の日本で起きているいじめ問題の深刻さは、例をみないといってもよいのである。

“再論 学校教育から何を削るか12 いじめアンケート1” の続きを読む

教師の休暇 アイドルの公演をみにいくことは?

 教師たちが、過重労働を強いられているというとき、労働時間や労働内容の過重であることももちろんだが、休みをとりたいときにとれないことも、過重労働感を増幅しているといえる。教師は、子どもの授業を絶対に休んではならないというような感覚があり、それが、休みをとることを躊躇させる。
 もちろん教師にも、法律で定められた「有給休暇」が認められているが、それを自由に、法律通りに取得できる学校は、まずないといえるだろう。文科省ですら、教師の過重労働を軽減するための一方策として、有給休暇を夏休みに集中的にとらせて、労働時間と休暇の辻褄をあわせ、その分、学期中の労働量を増やすような政策を打ち出している。普段の労働は、少しも改善しないにもかかわらず、別にとる必要がない時期に、有給休暇をとらせて、ちゃんと休みがとれているという、はっきりいえば、ごまかしの政策である。

“教師の休暇 アイドルの公演をみにいくことは?” の続きを読む

再論 学校教育から何を削るか11 生徒会3

 
 私は、ずっと中学の社会科と高校の公民科の免許をとろうとする学生を指導していた。そして、模擬授業をかなりやるのだが、憲法の基本的人権を扱う場合、まず、学生たち自身が「権利」を実感していないと、いつも感じていた。彼らは、知識としては、憲法の人権規定を知っている。しかし、それがどういう意味をもち、現実社会の中でどのように問題となるのか、というリアルな感覚をもっていないのである。それは、彼らの責任ではない。権利を単に「知識」として学習してきたから、実感をもてないのは当然なのだ。では、最も必要で、かつ効果的な「権利の教育」は、何か。学校の場で、当人たちが、権利をもつことなのである。学校教育を支えている教職員、生徒、父母たちが、それぞれの固有の領域で権利をもち、それを保障されていることである。もちろん、学校運営の基幹は、教育委員会と校長である。しかし、他の構成員が、単に協力する、従うという関係で、健全な民主主義者の担い手を育成できるはずがない。
 
    生徒会を民主主義的な主体を育てるための変革理論としての「アソシエーション論」を検討しておこう。

“再論 学校教育から何を削るか11 生徒会3” の続きを読む

再論 学校教育から何を削るか10 生徒会2

 社会のルールを守ることは、市民としての当然の義務であろう。しかし、そのためには、市民がルールを納得していることが必要である。納得できないときには、それを変える権限があること、また、必要なルールを作ることができなければ、ルールを守ろうという意識は育たない。単に、ルールがよいかどうかではない。
 子どもにとっては、そうしたルールは校則である。
 日本の校則には、かつてとんでもないものが少なくなかった。私が記憶している、最も不可解な校則は、トイレットペーパーは30センチ以上使用してはならないというものだ。校外では、たとえ家族であっても、学校の許可なく異性と一緒に出かけてはならない、などというのもあった。

“再論 学校教育から何を削るか10 生徒会2” の続きを読む