五十嵐顕考察4 教育費を考える3

 五十嵐氏の教育費分類の2番目が、「社会的に組織された教育費」である。
 正直なところ、氏の「社会的に組織された教育費」という概念は、理解が難しい。それは、概念的な分類と歴史的な位置づけとが重なり合っているからである。
 特定の階級による教育費が、氏のいう「社会的に組織された教育費」であるが、これが、国家が関与するようになると「国家的に組織される教育費」つまり「教育財政」として扱われることになる。
 具体的に、あげられている「社会的に組織された教育費」としては、
・アメリカの town school, district school, イギリスの parish school
だが、これは、地域に限定された学校で、かつそれが国家的制度に組み入れられる前の形とされる。このような地域に限定された学校、しかも階級的性質を帯びているとされる学校を、様々な地域、国の状況を踏まえつつ、ひとつの概念にまとめることは、かなり混乱を招くように思われる。

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五十嵐顕考察3 教育費2 個別分散的教育費

 五十嵐氏のそれぞれの概念の中身を吟味しよう。
 まず個別分散的教育費だ。これは、家庭教師などの支払いが典型であるが、現代でも「授業料」として生きているとする。しかし、授業料は、確かに、個々人が支払うものだが、より背景的なことを考慮すれば、本質的に異なる授業料の種類がある。
ア 家庭教師への支払い
イ 塾への支払い
ウ 義務教育公立学校以外への授業料としての支払い
エ すべての学校において求められる(個別には求められない場合もある)教材費、制服、行事の費用(修学旅行、宿泊行事等)給食費等
オ 習い事の講師への謝礼
 アイオは、確かに個別分散的教育費というイメージと合致するが、ウとエは、ほぼ強制的に徴収されるものであって、サービスや物品にかかる税と似た者といってもよい。しかも、それは強制的に買わされるものだから、望まなければサービスを受けることもない塾への支払いなどとは、本質的に異なる。

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五十嵐顕考察2 教育費1

 五十嵐顕氏は、教育費の講義を担当していたため、教育費とは何かを突き詰めて考えていた。そして、教育費が貨幣の形をとることに、つよい拘りをもって、そこから出発していたように思われる。
 五十嵐論による教育費の分類は、
・個別分散的
・社会的に組織された教育費
・国家によって組織された教育費
という三つの組織形態によるものである。形としてはすっきりしているが、私は、この分類は、教育費の「教育学的分析」にはあまり有効ではないように、ずっと思ってきた。確かに、そうした分類は、外見的に分かりやすいし、統計的にも処理しやすいに違いない。しかし、形式と量の相違を示すだけで、それが教育にとって、どのような意味をもつかは、明確に示すことができないのではないかと思うのである。

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再論 学校教育から何を削るか18 教師の懲戒権

 学校教育法には、教師の懲戒権が規定されている。ただ、そのことによって、教師が具体的な仕事を押しつけられているわけではない。懲戒権を発動しない実践は可能であり、その場合、教師の労働が増大することはない。しかし、多かれ少なかれ、教師は法で規定されている懲戒権を行使しながら、授業をしている。そして、そのことによって、付随的な仕事が付加されてくるという仕組みになっている。
 こうした状況に対して、私は常々「懲戒権」は、学校の教職員としては校長のみに付与されるべきであり、一般教師にとっては、余計な規定だと思っている。教育は、あくまでも非権力的な営みであって、権力は不要である。もちろん、組織である以上、権力が必要となる場面はあるが、その権力は校長に一元化していること、逆にいえば、校長がしっかりと懲戒権を適切に行使すれば、教師は、懲戒などという教育的ではない要素を、実践のなかに持ち込まなくて済むようになり、より教育らしい実践が可能になるのではないだろうか。
 それは、結局、教師の過剰労働を軽減することにもなる。では、より詳しくみていこう。

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五十嵐顕研究1 はじめるにあたって

 ある事情から、五十嵐顕研究をする必要に迫られた。五十嵐顕といっても、最近の若い世代には、ほとんど知られていないと思われるが、私が学生だったときの研究室の教授であった。私自身は、もう一人の教授であった持田栄一教授を指導教官としていたが、五十嵐教授にも指導を受け、院生としては、五十嵐研のひとたちのほうが、ずっと親しかった。
 もっとも、指導を受けたといっても、持田教授にしても同様だが、当時はまだ大学紛争の余韻がさめない時期ということもあったのか、両教授は極めて多忙で、連日のように講演に走りまわり、雑誌に原稿を書き、更に研究もしていたから、授業などは、滅多に行なわれなかった。特に大学院の演習などは、院生が勝手に、あるいは自主的に運営しており、たまに教授が参加するという状況だった。最近のように、授業がきちんと行なわれ、指導も丁寧になされる、などということは、むしろ例外的だったのではなかろうか。特に、両教授のように有名人は、社会的活動のほうが中心だったのである。

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再論 学校教育から何を削るか17 入学試験制度3

 最期に、入試を廃止することなどできるのだろうかという、誰もが感じる疑問について考えてみよう。
 私が学生時代、「教育法」の第一人者であった兼子仁先生の授業で、兼子教授は、「日本の入学試験というのは、できる限り早く廃止したいですね。」と講義で述べたことがある。学生たちは、意外な主張に驚き、ほとんど茫然自失の体だったと記憶している。私もそうだった。「そんなことできるはずがない。」そのときだけではなく、ずっとそう思っていた。しかし、大学に勤めるようになり、研究の関心がオランダに向くようになって、オランダの教育を研究するようになると、そこには、入学試験制度そのものが存在しないことがわかった。別にオランダだけではない。ドイツにもフランスにもないのだ。(フランスはグランゼコールという超エリートの高等専門学校には入試がある。)中でも、オランダは、学校を当人が選べるという点で、際立っていた。もちろん、ハードルはある。尤も、オランダに限らず、入学試験制度が一般的に存在しない国でも、ある種の学校には、入学試験があることもわかった。それは、芸術系の学校である。芸術家を養成する学校では、もちろん、芸術的才能がないと話にならないから、当然、芸術的才能の程度を調べる試験を課す。ただ、それは入学試験とは呼ばれず、オーディションと呼ばれていた。実態は、入学試験であるが。

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再論 学校教育から何を削るか16 入学試験2

 前回は、受験体制の弊害をみたが、今回は日本の受験制度の特徴と問題を整理しておこう。
 日本で行なわれている入学試験のありかたは、日本人にとってはあまりに見慣れた風景であるし、また生徒たちの日常を支配してきたので、これが普通なのだと思っている人が多い。しかし、世界を見渡せば、日本の入学試験制度は、かなり特異な部類に属する。尤も、日本の受験システムが、最も苛烈な競争試験だというわけではなく、世界には、日本よりもずっと受験生にとって過酷なものがある。シンガポールの選抜制度は、小学校の平常の授業から大学入試まで、敗者復活戦のほとんどない選抜システムであり、日本の比ではないといえる。しかし、戦前からの受験システムは、日本の教育の質そのものを規定するほど浸透している点で、やはり、独特であり、なくす必要があるのである。
 

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再論 学校教育から何を削るか15 入学試験1

 日本の教育が受験制度によって支配されてきたことは、改めて指摘するまでもないが、この受験制度こそが、日本の教育を歪めているだけではなく、日本社会にも大きなマイナス要素をもたらしていることに、改めて注目する必要がある。もちろん、教師の過重労働の大きな原因ともなっている。だから、入試制度を廃止することは、教師の過重労働の改善だけではなく、日本の教育全体、そして社会の改善に役に立つことなのである。
 尤も、現在の日本の学校においては、かつての受験地獄と言われた高校入試や大学入試の時代とは異なっている。高校も大学も数値的には全入の時代で、学校を選ばなければ必ず入学できる学校がある。現在でも苛烈な受験勉強が必要なのは、有名私立・国立中学を受験する小学生と、高偏差値の大学を受験する高校生という、一部の者になっている。そして、「浪人」は死語になったとも言われているほどだ。しかし、それにもかかわらず、受験戦争時代の感覚が教育行政や教育界に浸透しており、なんとか競争を維持、拡大しようという政策も相変わらず存在している。従って、入試制度そのものの廃止という主張は、ますます意味をもってきている。というのは、入試制度がある以上、教育の質を変えることは難しいからである。

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平安女学院でまた訴訟沙汰が

 京都の平安女学院で騒動が起きているという記事がいくつかあった。ひとつは、訴訟が起きていることを報じている。「理事長批判で解任「パワハラ放置は学校滅びる」 平安女学院中学・高校の教員4人提訴」(京都新聞1.19)
 平安女学院関連の訴訟というと、10数年前におきた滋賀県守山キャンパス撤退問題での訴訟をかなり調べたことがあるので、またか、という感じであった。理事長が同じ人なので、繋がっているともいえる。
 守山キャンパス問題とは、2000年に、平安女学院大学が、滋賀県守山キャンパスを開校、しかし、思ったように学生が集まらず、2005年に守山を撤退、高槻キャンパスに統合、在籍していた学生も移すという、少々乱暴な移転計画だったために、守山キャンパスで学ぶことができるという条件で入学したのだから、卒業するまで維持してほしいという要求の訴訟だった。しかし、学生側が敗訴している。(提訴したのは一人だけ)

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学校教育における演劇教育を考える2

 日本文化のなかで、演劇的芸術が弱体であれば、学校教育で演劇教育が重視されないのは必然的であろう。狂言や歌舞伎を学校教育のなかに、実際に演劇として行なうものとして取り入れることは、あまり賛同を得られそうにない。高校の演劇部ならありうるだろうが。そういう歴史があるにもかかわらず、何故演劇教育的要素を、義務教育段階で取り入れるべきなのだろうか。
 
 直接には関係ないことから始めよう。
 私が中学で英語をならい始めたころ、学習方法は文法的な内容と英語を読む(意味を理解する)ことが柱だった。もちろん音読はしたが、あまり重視されていなかった。単語試験などは頻繁にあったが、いずれも英単語が印刷されていて、その意味を書く。あるいは、日本語が書かれていて英単語を書くという方式だった。それが当たり前だったから、一生懸命スペルを、紙に書いて覚えたものだ。今から考えると、実に非能率的、というよりもむしろ害のある学習法をとらされていたと感じる。音声の学習は、非常に限られていたのだ。もっとも、それも仕方なかったともいえる。当時は、ネイティブの音声を聴くことができる器具がないに等しかったからだ。レコードはあったが、外国語の学習には、とても便利とはいいがたいものだ。後にカセットが出回るようになったが、けっこう高価だったし、既にならい始めの時期を過ぎていた。

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